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2018年8月6日月曜日

箱根国際自動車レース場 / NAC箱根スピードウェイ / 伊豆モータースピードウェイ / 伊豆ハイスピード・クライム・コース (静岡)

2016/04/01一部追記
2016/08/21一部改訂、追記
2018/08/06 大幅改訂、追記
2020/06/06 ネット上の関連リンク、追記


「伊豆韮山サーキット」でGoogle検索をすると上に出てくるYahoo知恵袋の記事では、現在の日本サイクルスポーツセンターの事だと紹介されているが、正確には伊豆韮山サーキットではなく別のサーキット建設の計画があった。
関連→伊豆韮山サーキット

これは「箱根国際自動車レース場」や「NAC箱根スピードウェイ」、「伊豆モータースピードウェイ」、「伊豆スピードウェイ」などと呼ばれていたサーキットである。

箱根国際自動車レース場(仮称)

1963年5月。戦後日本初のパーマネントサーキット、鈴鹿サーキットで第1回日本グランプリが開催される。
四輪モータースポーツが花開いた瞬間であった。
各所に日本グランプリの衝撃が広がり、未だ興奮覚めやらぬ1963年6月12日の日刊スポーツにこのような大記事が掲載された

""幻のレース場はこれだ そのベールをはぐ""
""工費20億、ひそかに着工 観衆30万を収容 熱海の近郊"世界一"めざす""

そこにはオーバルコースと周辺施設の書かれた図と共に、JASCARというストックカーレース協会の計画が書かれている。

「どこかにとてつもない自動車レース場が作られているそうだ」こんなうわさが二、三ヶ月前から関係者にひそかに流れていた。いつ、どこでだれが、どんなレース場を作るか。だれにもわからず"幻のレース場"と人は呼んだ。幻の自動車レース場は秘密裏に計画準備され現在基礎工事中。早ければ年内、遅くとも来春にはこつ然と出現する。百万坪(3305800平方㍍)の敷地に二十億近い巨費を注ぎ込む世界一デラックスなコース「箱根国際自動車レース場」(仮称)の全容はこれだ。

箱根国際自動車レース場(仮称)
場所 静岡県修善寺町、大仁町。海抜500㍍
敷地 約3305800平方㍍(100万坪)
工事面積 約1650000平方㍍(50万坪)
レース路 アスファルト4・3㌔ 内走路15㍍幅、アスファルト3・2㌔
道路 レース場内及び公道からレース場に至る間15㍍幅2・3㌔
駐車場 自動車5万台 オートバイ3万台
収容人数 30万人 うちグランド・スタンド約10万人

(日刊スポーツ 1963年6月12日)
 60年代~70年代初頭ははこの「日本オートクラブ(NAC)」という団体がストックカーレースを各地で開催していた。
まだ日本に鈴鹿サーキットしか存在していない65年4月時点では主に大井や川口のオートレース場を使用してストックカーレースが行われていた。
なお、当時のオートレース場はダートトラックである他、現在も続いているオートバイでのレースの他、オート四輪と呼ばれる小型自動車でのレースも行われていた。
1964年のストックカーレースではプリンス・グロリアに乗る当時22歳の生沢徹が2度優勝している。

ちなみに、このJASCARという組織が立ち上がろうとしていた直後、別団体として「日本ナスカー」も同じような趣旨で日本でのストックカーレース開催に向けてオーバルコース作りを計画していた。「日本ナスカー」は後の富士スピードウェイとなる。

モーターマガジンの1963年8月号には更に詳しい内容とコース図が掲載されている。
記事によると3年前、1960年から計画はスタートしていたと山西氏はインタビューで語っている。

(モーターマガジン 1963年8月号)

この土地は伊豆修善寺が企業誘致用土地として募集をしていた場所だったという。
その後、紆余曲折あり予定地はサーキットではなく日本サイクルスポーツセンターとして、自転車競技の中心となる巨大施設が出来上がる事になった。



(Google Earthの衛星画像と重ねた図。オーバル上にある丸い建造物は現在の日本サイクルスポーツセンターの”伊豆ベロドローム”)
塩沢氏はこの後、残りの用地を取得。
ここから次の計画に移る事になる。


NAC箱根スピードウェイ
第1期工事分ロードコース:1800m
第2期工事分オーバルトラック:2400m


オートスポーツ1965年4月号には"花ざかりのレース場建設計画"として、鈴鹿サーキットでの日本グランプリ成功を受け、様々な場所で湧いたサーキットの建設計画が紹介されている記事がある。
この中にとして紹介されている部分から抜粋しよう。
これは日本オートクラブのめんめんが資金を出し合って建設を進めているレース・コース。第1期工事として1800mのサーキット、第2期工事として2400mの楕円コースが計画されているが、現在では第1期分のうち約600mの直線コースが完成している。
とあり、簡単なコース図が掲載されている。
これは先の計画よりも南側の土地になる。

(オートスポーツ 1965年4月号より)
1965年4月の記事には"ダートコースながら、「NAC箱根スピードウェイ」を建設中"とある。
現在の衛星画像と見比べてみると、完成した約600mの直線コース部分の跡らしきものが残っているのが見受けられる他、ロードコース部分も地形と合致する。



(Google Earthの衛星画像と重ねた図。 右上の青い部分が以前のオーバルコースの計画。)

その後の顛末はNAC代表塩沢進午氏の自伝、「日本モーターレース創造の軌跡」で語られている。
修善寺の残りの開発誘致の約13万坪、夏苅野と嵯峨平を自動車レース用用地として1964年10月27日、所有権、地上権、借地権と入り組んだ使用契約に踏み切って、資金を投入してしまいました。この土地で、私はノースカロライナ州ロッキンガムにある、周長1マイルのオーバルトラックに似せて、コースを仕上げていく予定でした。然し、1965年春、富士スピードウェイの開場を確認して工事を停止したのです。
しかし、その後もこの用地はNACによって事ある毎に利用されていたようだ。
1966年のJAFスポーツ年鑑には、"1965年レーシング講習会一覧表"の中に
"3/21 主催NAC  場所 NAC伊豆仮設走路"
という記述を見つけることが出来る。
この事から、一部着工した部分を使って何かしらの催しが行なわれたようだ。

他にも1966年頃のオートスポーツに建設予定地でのオフロードレース開催がされたという記録がある他、1967年のJAFスポーツには"キングオブザマウンテン"というヒルクライム競技が行われている記録がある。

(オートテクニック 1970年10月号)
"第一期工事"の場所の東側にあるコースで、現在もコースの跡のようなものが確認出来る。
ここは「伊豆ハイスピード・クライム・コース」として紹介されている。
元々はモトクロス用に道が作られたようではあるが、厳密にいつ頃から使われているかは定かではない。

伊豆ハイスピード・クライム・コース
所在地 伊豆修善寺町夏刈
ダート・コース 約1.2~1.4km
幅 10m, 高低差40m
コース使用 1日30,000円
(JAFスポーツ 1967年8月号)

コース図 JAFスポーツ 1967年8月号


ヒルクライムコース 写真

7月30日 NAC・SSSA第3回キングオブザ・マウンテン 制限付き NAC、SSSA 伊豆モータースピードウェイ
11月23日 第4回キングオブザマウンテン 制限付き NAC 伊豆修善寺
(JAFスポーツ 1967年5月号)


伊豆モータースピードウェイ
オーバルトラック:1600m

そして、1971年頃にも三度オーバルコース建設の話が浮上する。
71年のカレンダーには11月3日に"ストッカー伊豆300キロレース"というレースの開催予定が記載されている。

なお、11月3日は伊豆の従来からオーバルコースを建設予定だった土地に全長1600mのコースを作り、シリーズの第5戦を行なう予定。これは完成すれば平均200km/hを越すスピードで、最高速240km/hという見るものにとってはこれまでと違ったおもしろいレースとなるだろう。ただ、この種コースでのレースとなれば、安全対策も、これまで以上に行なわれなければならないであろう。
(オートテクニック 1971年1月号 p143)

このサーキット計画が頓挫した後も、塩沢進午氏は「日本平スピードウェイ」や「東京湾岸スピードウェイ」などオーバルトラックの計画を複数立ち上げており、前者に関しては完成間近で頓挫している。
更に青森県の「むつ湾スピードウェイ」にてJAF脱退後、NAC自らが団体を起こしサーキットのオープニングレースとして、ストックカーレースを行っている。

これら伊豆のサーキットについてや、NACの活動や他モータースポーツ黎明期の出来事を塩沢氏が自伝的に語っている本「日本モーターレース創造の軌跡」が出版されている
ぜひご覧になっていただきたい。

-関連リンク-
鈴鹿に続けと建設…でも幻に終わったサーキット「伊豆スピードウェイ」をご存知か【東京オリンピック1964年特集Vol.9】- DRIVER@WEB
https://driver-box.yaesu-net.co.jp/new-article/34252/

2013年2月9日土曜日

日本平スピードウェイ(静岡)

2013/2/9 記事公開
2013/2/13 追記  

2024/2/16 追記/修正  

日本平スピードウェイ

距離:オーバル/850m or 870m
        オーバル+インフィールド/約1300m
コース幅:オーバル/18m
             インフィールド8~12m
バンク角:8~12°


日本平スピードウェイは1971年ごろに静岡県静岡市に建設が予定されていたオーバルコースである。
当初は日本平サーキットとして、計画されていた。

(1971年 国土地理院の航空写真より)

日本平サーキットが建設中
 静岡県の日本平に、現在、サーキットが建設されている。サーキット名は"日本平サーキット"といい、久能山のとなりの山の上なので、静岡市街、駿河湾などが一望のもとに見下ろせる風光のすばらしいところ。
 コースの1周は1600mで、外周だけだと約800mのおむすび型。幅はピット前の直線部が12mで、あとは8m。もっとも、直線部がピット、パドックと一体になった平面舗装になるため、ここでジムカーナもおこなえる。オーナーがある建設会社なので、3月末までに完成させ、4月初旬のオープンを目指している。当面は、ミニカー、F-J、カートなどのレースのほか、ジムカーナなどを開催していく予定だが、東名高速道路の静岡インターから10分という至近距離にあり、今後の発展が見込まれている。
(オートスポーツ 1971年3月号)


 当初から、オーバル風の外周コースも計画されていたようだが、後述するNAC代表の塩澤氏の手によって、本格的なアメリカン・オーバルコースとして計画が変更された。

全面バンクつきの"ミニ・デイトナ"日本平スピードウェイ 
先月号のスポーツ短信欄で"日本平サーキット"とおつたえしたが、その後、コース内容が全面バンクつきのアメリカン・タイプに変更されたため、名称も"スピードウェイ"とあらたまった。これにより、完成時期もいくぶんずれ、4月初句のオープン予定が4月18日に順延された。
 コースの外周は、デイトナ・タイプのおむすび型で、1周は850m。ここには80から12oのカ
ントがついており、まったく新しいタイプのストックカー・レースなどが期待されている。インフィールドは、フラットなヨーロッパ・タイプのテクニカル・コース。こちらまでを含めると1.3kmのコースになる。コース幅は、外周部が15mで、インフィールド部が10m。
 なお、カント部の外側には3m、内側には10mの待避ゾーンが設けられ、3mの、ノーンの外側にはコンクリ-トのウォール(外壁)がつくられるところなどもデイトナにそっくり。段のついたメインスタンドはその外側にコースをかこむようなかっこうでつくられるわけだから、まさにスリバチ型になる感じだ。スタンドの収容人数は1万2000人が予定され、駐車場も1700台まで駐車可能。
 4月18日のオープニングにはストックカーのトロフィーダッシュ・レース(日本オートクラブ)とカート・レース(静岡カータース)が予定されているが、5月1日-2日には呼びもののストックカー日本平300マイル(日本オートクラブ)が開催される。もちろん1日が予選で2日が決勝となるが、これにはミニ・セダン・レースも組まれている。
 場所は東名高速道路・静岡インターチェンジの出口から左-左と曲がっていった山の上で、山ののぼりくだりは2本の道路による一方通行路にすることが考えられている。
(※ただし、インフィールド・コースはまだ設計変更される可能性が大きい。また、天候によってはオープンが延期されることもありうる) 


■日本平スピードウェイ
 静岡県日本平の隣に新レース用トラック、日本平スピードウェイが建設されている。このスピードウェイは、わが国では初のオーバルな形状を成すもので、各コーナーには最高12°のカントがつけられている。コース距離はインフィールドを含めて1.3kmとなり、コースの幅員は外周が18mで、インフィールドが8~12mである。観客収容人数は1万2000人で、ピット数は22。
 このスピードウェイのオーナーは、地元の山本開発工業で、4月18日にオープニング・カートレースを行なう予定であり、当面はライセンス講習会、カートレースなどを開催するとのことである。
 なお、ストックカー・レースの主催クラブとして有名なNAC(日本オートクラブ)が5月2日にこの新設スピードウェイでストックカー・レース シリーズ第2戦、ストックカー日本平300を開催する。最初、シリーズ第2戦は全日本選手権シリーズ第4戦と同時に北海道スピードウェイで行なう予定であったが、急遽日本平スピードウェイに変更になった。日本平スピードウェイの12°バンクつきオーバルコースとストックカーのコンビネーションは、きっと本格的なレース内容を展開するに違いない。
(カーグラフィック 1971年 5月号)

オートスポーツ 1971 4月号より
当初からインフィールドのロードコースも作られる事になっていたが、最終的にはこの形になったようだ。

(こんな感じ?)

ストックカーレースはアメリカだけのレースではなかった。60年代~70年代前半にかけて、日本にもストックカーレースが存在した。
そのストックカーレースのシリーズをオーガナイズしていたのが日本オートクラブ(NAC)である。
サーキットが鈴鹿しか存在しなかった最初期は関東のオートレース場で開催されていたが、日本にサーキットが出来るに従い、全国各地様々な場所で開かれた。
しかし、ストックカーレースというアメリカの形式に習い、例えば富士スピードウェイは右回りではなく、左回りのショートコース(30度バンク無し)を使用したり、筑波サーキットも当時存在していた左回り1.3kmショートコース(バックストレート途中から、現バイク用シケイン辺りに繋げる)を使用していた。


その塩澤氏はアメリカ式のレースを日本に導入しようと日本のモータースポーツ初期から活動していた。
富士スピードウェイの最初期に計画されていたオーバルコースや、現在の日本サイクルスポーツセンター近辺に建設が予定されていた"伊豆スピードウェイ"など、様々なオーバルコース計画に関わっている。

塩澤氏の著書"日本モーターレース 創造の軌跡"(ネコ・パブリッシング)にもこの日本平についての記述があるので、いくつか抜粋したい。

9月に入ると待望の私のホームスタジアムが出来る可能性が高くなりました。静岡の日本平の岡のすそに1万5千人収容のグランドスタンドのついた一周870mのオーバルトラックの建設工事が始まりました。
日本平スピードウェイです。レーストラックのデザインをオーナーの山本昭氏が私に一任して下さいました。(日本モーターレース 創造の軌跡より) 

本の内容によると、このサーキット建設は70年の9月頃から始まったようである。
コースのデザインも塩澤氏が担当し、日本最初のオーバルコースとして、産声を上げようとしていた。

が、サーキット周辺にあった静岡大学の寮から騒音等の反対運動が始まり、次第に反対の声が大きくなっていった。
結果、アスファルトを舗装するだけという完成一歩手前でサーキット計画が白紙に戻ってしまったのだ。

オートスポーツ 1971年4月号より

ストッカー日本平300中止
静岡県下に建設中だった日本平スピードウェイは一部地元民の反対運動等の諸事情により一時造成工事を延期することになり、5月2日オープニング記念として開催がよていされていたNAC(日本オートクラブ)主催、ストッカー300キロレースは時期的に開催不能となり、中止となった。
 本レースは5月3日北海道スピードウェイで開催予定のものを急遽、日本平スピードウェイオープニングに合わせて静岡開催に変更、そしてこの中止ということで、関係者に多大のショックを与えている。
 日本平スピードウェイはアメリカで絶大な人気を集める全米ストッカーレースシリーズのレーストラックを模した本格的なオーバルコースとして注目されていたもので、既にグランドスタンド、バンク走路の造成も完了し、2週間を要する舗装工事を残すのみであった。
(オートテクニック 1971年5月号)

 然し舗装用の大型機械のアスファルト フィニッシャーを入れた頃、1000mも離れていた静岡大学の寮の人達が、反対運動を始めたのです。やがて連日、その反対運動を新聞が記事にしました。その結果、市役所が指導に入り計画を諦めることになったのです。その後その場所は9ホールのゴルフ場に転用され現在に到っているのです。
(日本モーターレース 創造の軌跡より)

当時の地元紙記事によると、元々サーキット建設を予定していた丘は宅地造成を主として買収したが、風致地区だった為に宅地造成に適さなかった。 だが、丘の土質がよかったために土砂採集場となった。この際、県が採土の許可を出すにおいて、土砂採集の後は植樹をし、土砂流出などの災害の防止のための工事を実施することという2つの条件が出ていた。
この後、自治体からの要請で防災工事の他に交通公園を作るという事で話が通っていたが、実際は交通公園ではなくサーキットを建設していたという事が雑誌記事で発覚し、県の風致地区条例違反だとして地域住民から県・市・建設業者への抗議運動が起きた。
また地方選挙の政治的駆け引きとして使われたという説も流れている。

コースの廃止後は一度オフロードイベントに使われたようではあるが、詳細は不明。
以上のほか、ことしはSPAC(駿河プレイ・オートクラブ)が静岡市にあるもと日本平スピードウェイの建設予定地近辺でオフロード・トライアルをやるという。
こちらの路面は赤土。
(オートスポーツ 1972年2/1号)
その後は「大谷ゴルフ場」というゴルフ場として利用されている。
現在も現地に行くとうっすらとオーバル跡のようなものが見えるという噂がある。


確認出来る範囲では、74~75年には既にゴルフ場になっている。
(1975年 国土地理院の航空写真より)

-参考文献-
オートスポーツ 
1971年3月号/4月号
1972年2月1日号
オートテクニック
1971年5月号
カーグラフィック 
1971年5月号
静岡年鑑 昭和46年
静岡新聞 1971年3月19日
日本モーターレース創造の軌跡



大きな地図で見る


2013年1月20日日曜日

むつ湾・インターナショナル・スピードウェイ (青森県)

2013/1/20記事公開
2021/10/22 追記 

むつ湾・インターナショナル・スピードウェイ

所在地:青森県上北郡野辺地(のへじ)町
距離: 4.5km/4.8km(いくつか表記がある) 実測約3.8km  / ショートコース 約3km
ホームストレート:1600m
コース幅:20m
コーナー数:4(公称値)
4輪 左回り / 2輪 右回り 

(国土地理院 70年代の航空写真より)


青森県の上北郡野辺地町に存在したサーキット。
サーキットレイアウトは1.6kmのホームストレートを有しており、コーナーのRも比較的大きく超高速レイアウトである。
しかし、コース脇がすぐ海な為、砂や海水がコースに入り込み、水没することもあった。

オープニングレースとなった1972年ストックカーレースの際は、突貫工事の末に行われたためコース上もコンクリートウォールの代わりに土のうが積まれたり、路面のアスファルトが1層で下地の砂利が出てきたり、当時の写真を見ても建設途中のような様子が見受けられる。

オープニングレース
1972年 第1回むつ湾国際級ストックカー300kmレース大会


実際、開催当初の72年7月の時点では未完成だったようで、JAF公認はオープン後から少々遅れた模様。
その際にコースレイアウトについて"出来ればもっとテクニカルなものにするように"という指導がJAFから入ったということもあったようだ。
1973年のむつ湾グランド200マイルレースでは、もう1層アスファルトが追加されたようだがそれでも路面の凹凸はひどかったという。

(コース図、ただし実際のコースの形と異なる オートテクニック 1972年8月号)

(コース案の一つ? AS 1972/6/15)



現在の国土地理院の地図サイトで距離を測ると、メインのコースは約3.8km程度だったと推定される。
海沿いの1.6km(※)のホームストレートを抜けると、1コーナーは左125R、5度のバンクの上りのコーナー。
2コーナーは公称400Rとされているが、それ以下の2つのRのコーナーが組み合わされていると言われている。
3コーナーは右の400R、コース中間がくびれのような形になっている。
最終コーナーである4コーナーは入り口で右に少しターンしたあと、125R(公称)・バンク15度の左コーナー。外側はJR大湊線の線路と面している。
4コーナー出口付近は狭くなり20Rの下りコーナーである。
3コーナー辺り、最終コーナーから約500mの辺りにショートカットコースも作られる予定だったが、オープニングレースの時点では作られていなかった。 最終的に作られたかどうかも不明。
(※一部ホームストレート1.8kmという記述もあるが1.6kmが正しいと思われる)

(コース写真 オートテクニック 1972年8月号)
 

サーキットのオーナーは農事組合で元々「むつ湾観光牧場」という牧場を経営しており、その中には遊園地、動物園などがあったが隣接した土地にサーキットを建設するという流れになった。
コース設計は立原義次氏。
当時東北にサーキットが無く貴重な存在であった他、更に北海道スピードウェイが閉鎖された事もあり、北海道のドライバーが海を渡って本州のむつ湾に遠征しにくる事も多かったようだ。

(むつ湾グランド200マイルレースの様子  オートテクニック 1973年10月号)

超高速レイアウトであったが、二輪のオートバイレースも開催されている。
1972年の「第1回むつ湾オートバイグランプリ」はロードレース日本選手権の1戦として行われている。
オートバイレースでは右周りで使用された。 順走左回りの最終コーナー出口付近は下り坂になっているため、逆走にすると上り坂になって減速しやすいというのが理由だったようだ。
四輪のGCレースでも右回りやホームストレート上のシケインなどが検討されたようだが、本来の左回りのまま変更なしで行った模様。

1973年むつ湾グランド200マイルレースの様子

1973年のレースは8月で終わってしまったという。というのも9月は雨が多く、更に海岸沿いのためコースが使用不能になることが多かったようだ。
このような地理的な不利に加えオイルショックも相まって1973年で閉鎖されてしまったようだ。
現在コースの跡のようなものがうっすら残っている他、グランドスタンドの廃墟が残っている。

むつ湾・インターナショナル・カートウェイ

(国土地理院 70年代の航空写真より)
(以下オートテクニック 1972年11月号)


むつ湾スピードウェイに併設されたカートコース。
スピードウェイが閉鎖された後も使用されていたが、動物園閉鎖と共に閉鎖された模様。

オープニングレースは
「むつ湾スピードウェイ開場記念ねぶたまつり '72日本カートプリ大会」(1972/8/5-6)が青森県、青森ねぶたまつり協賛で開催されたという。
これがJAFが開催する日本初の"カートプリ"である。
1972年(昭和47)には国際交流の一環として'72日本カートプリが開催され、1973年(昭和48)には全日本カート競技選手権が開始されています。
http://www.jaf.or.jp/msports/intro/his_j.htm 







(カートプリ リザルト)



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-関連文献-
オートスポーツ 
1972 6月15日/10月15日
1973 9月1日/10月15日
オートテクニック 
1972 6月号/7月号/8月号/9月号/11月号 
1973 10月号
1974 3月号/4月号
日本の名レース100選 '72 むつ湾ストックカー
日本モーターレース創造の軌跡


-関連リンク-
二輪文化を伝える会  - むつ湾インターナショナルスピードウェイ
ヤマハニュース 1972年10月号 / 第1回むつ湾オートバイグランプリ

川口オートレース場 (埼玉)

2013/01/20記事公開
2021/06/09 追記 

(国土地理院 1966年の航空写真より)
(国土地理院 1966年の航空写真より)川口オートレース場(1952-1967)

コース距離:800m
コース幅:30m
コーナー数:2
路面:ダート

現在は500mのターマック舗装オーバルとして使われているが、開場した1952年から1967年までは800mのダートオーバルとして使われていた。

1950年代には日本スポーツカークラブ(SCCJ)によるレースが開催されていた他、60年代には"105マイル・クラブ"(後のNAC[日本オートクラブ])が主催していたストックカーレース「ナショナル・ストックカー・レース大会」を4度開催している。
第3回からJAF管轄に入った為、現在でもリザルトを確認することが出来る。
http://www.jaf.or.jp/msports/results/n-race/index.htm


1964年3月20-22日 第2回ナショナル・ストックカー・レース
(モーターファン 1964年5月号 / グランドナショナル・クラスの様子と思われる)

各クラス優勝者
スポーツマン・クラス(20周) - 山西 喜三夫 / コンテッサ
グランドナショナル・クラス(25周) - 生沢徹 / プリンス・グロリア
インターナショナル・クラス(25周) - ウイルヘルム / シボレー 55年 (*フルネーム不明)
第2回目のストックカーレースはJAF管轄でないためJAFのデータベースにはリザルトが掲載されていない。
インターナショナルクラスは横田基地から来た米軍人出場のエキシビジョンレースだとか。


1964年8月16日 第3回ナショナル・ストックカー・レース
(以下モーターファン 1964年10月号 / スポーツマンクラスの様子)

(コンチネンタルクラスの様子)
(グランドナショナルクラス優勝、生沢徹のプリンス・グロリア)

スポーツマンクラス
コンチネンタルクラス
グランナショナルクラス


1965年3月28日 第4回ナショナル・ストックカー・レース


(CARマガジン / ジュニアコンチネンタルクラスに出場したデル・コンテッサRSA)
(グラン・インターナショナルクラス優勝の田村勝男のサンダーバード)
(コンチネンタルクラスで横転するスカイラインGT)

グランインターナショナルクラス
ジュニアコンチネンタルクラス
スポーツマンクラス
コンチネンタルクラス
グランナショナルクラス
http://www.jaf.or.jp/CGI/msports/results/n-race/detail-result.cgi?race_id=1457


1965年10月9-10日 第6回ナショナル・ストックカー・レース
グランナショナルストックカークラス
セダン/スポーツマンクラス

各レースのリザルトを見ると、後々の日本モータースポーツを担うドライバーも多数参加、優勝している事が分かる。

-関連文献-
・モーターファン
・CARマガジン
・日本モーターレース創造の軌跡

2013年1月18日金曜日

富士スピードウェイ / ナスカー・フジ・スピードウェイ (1) -未完


CARグラフィック 1963年 8月号 p115 スポーツ・ニュース 箱根にストックカー レーストラック建設か 

 最近いくつか新しいレースコースのうわさが聞かれるが、もっとも確実なのは箱根に建設されるストックカーレーストラックの計画である。
それは日本ストックカーレース協会と言う団体で、中心的な人物はスズカにも出場した塩沢進午である。
このトラックはスズカのようなロードサーキットではなく、アメリカ流のバンクの付いた楕円形周回コースで、ふだんは自動車による曲乗りを見せて人を集め、時々本当のストックカーレースを開催するつもりと言われる。




CARグラフィック 1964年 7月号 p129 スポーツ・ニュース
静岡県小山に「ナスカー・フジ・スピードウェイ」 

日本でアメリカ式のストックカーレースを開催すべく昨年12月に設立された日本ナスカー社(資本金3億2千万円、代表取締役 森 長英氏)では、御殿場に近い静岡県駿東郡小山町に2.5マイル(4km)の楕円形トラックと6km以上のロードサーキットを持つ「ナスカー・フジ・スピードウェイ」を建設すると発表した。
完成は明年4月を目標としている。日本ナスカー社はアメリカ デイトナに本拠を持つNASCAR(会長ビル・フランス)と技術提携を行い、極東におけるナスカー方式によるレースの独占的開催権を獲得したという。
ちなみに、NASCAR(National Association for Stock Car Auto Racing)はUSAC、SCCAと並ぶアメリカの大きな自動車レース団体で、デイトナ500を初めとする全米のストックカーレースを統轄している。 


NASCAR Fuji Speedway 及び付帯施設完成予想図 (CARグラフィック 1964年 8月号より)