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2026年6月3日水曜日

日本ナスカー (1968年)

オートスポーツ 1968年8月号を読むと、当時日本で計画されていた数々のサーキット計画の中に興味深いものを見つけることができた

ストックカーの"メッカ"を

日本ナスカー 

まだ公表されていないが、日米合弁会社の日本ナスカーが近く"旗あげ"する予定だ。社長は元運輸大臣の楢橋渡氏。副社長には、楢橋渡氏の長男・氏と在日米人のドン・ニコルズ氏が就任することになっている。

アメリカのNASCAR(ナショナル・アソシェーション・フォア・ストックカー・オートモビル・レーシング)と手を結んで、NASCARのストックカー・レースを日本で開催しようというのが日本ナスカーのねらいである。

日本国内の4ヵ所(札幌、関東、関西、九州)にレース・コースを設け、それぞれ札幌ナスカー、関東ナスカー、関西ナスカー、九州ナスカーーーという別会社を設けて直接の管理・運営をあたらせる、そして、日本ナスカーがこれらの地方各社を統括する。レース・コースは札幌が2.5kmのほか、関東、関西、九州は4km。いずれもナスカーの規格にあわせた楕円形コースだが、具体的な建設地域はまだ明かにされていない。しかし、国有地、あるいは公社や公団などの土地を借りる計画もあるようだ。 (オートスポーツ 1968年8月号 新設サーキットをめぐる噂と真相) 

日本ナスカーと言えば、すぐに思いつくのは富士スピードウェイの前身にあたる日本ナスカー社であろう。
日本ナスカー社は現在の富士スピードウェイの地に2.5マイルのオーバルを建設し、アメリカ・NASCARの方式に則ったストックカーレースを開催しようとしていた。
しかし、この話は1968年。すでに富士スピードウェイがオープンした後の話である。

楢橋渡は、福岡県久留米市出身の政治家・弁護士で、戦後には内閣書記官長や運輸大臣を務めた人物である。
楢橋氏は1968年2月のデイトナ500を視察し、NASCARのビル・フランス社長と会談したうえで、日本ナスカー設立に至ったとされる。つまりこれは、富士スピードウェイ建設時の日本ナスカーの関連というわけではなく、楢橋氏を中心に改めてNASCAR本体と結び直そうとした計画だったように見える。

また、ドン・ニコルズが計画に参画しているのも興味深いポイントである。
ドン・ニコルズは富士スピードウェイ前史の日本ナスカー社の計画にも大きく関わった人物であり、後の富士スピードウェイが静岡県の小山町に決まった際もコース設計のチャールズ・マネーペニー、アドバイザーのスターリング・モスとともに小山町の原野を視察している姿が見られる。
参考: https://www.motorsportmagazine.com/articles/single-seaters/stirling-moss-shadowman-tokyos-nightlife-the-creation-of-fuji-speedway/

この新しい日本ナスカー計画でも、ニコルズは単に名前だけの副社長ではなかったようだ。オートスポーツでは、7月中旬時点でニコルズがアメリカとヨーロッパを回り、カーオーナーやドライバーと「日本遠征」の交渉をしているとされている。つまり、海外側の実務交渉を担うキーパーソンだったと見てよさそうである。

突然再浮上した日本ナスカー計画だが、自動車・モータースポーツ誌での続報は見当たらなかった。しかし、「高度経済成長期における民間大企業による大規模開発構想とその展開経過 : 岡山県久米郡久米町と川上郡備中町の場合」という1985年に発行された書籍に関連すると思われる記述があった。
これは岡山県久米郡久米町(現:岡山県津山市の久米地区)という地域の開発について書かれた書籍だが、その中に、なんと顛末が書かれていた

元運輸大臣楢橋渡氏が加藤知事に会い、同氏はアメリカに世界本部のある自動車競走ギャンブルの日本代表権を有していて、国内に適地を調査中である旨を述べた。同じ頃、彼と関係のある神戸の某キャバレー主が自動車レースに興味を有し、久米町に適地があると聞いた旨を県に告げた。

久米町長藪木久太郎氏はこれに乗り気になったが、町単独での交渉は困難と見て、県に仲介を求めた。しかし自治省はギャンブル増設を認めない方針であり、 特に自動車レースはわが国では前例がなく許可見込はないとの見解を示した。 このため楢橋氏は消極的となったが、 キャバレー主は単独ででもサーキットを建設したい意向を変えず 現地での用地買収交渉に入った。しかし価格が折合わず 久米町、県、キャバレー主の三者の話合いの結果、この件は実現を見ないままに終った。( 高度経済成長期における民間大企業による大規模開発構想とその展開経過 : 岡山県久米郡久米町と川上郡備中町の場合)

これはまさしく、日本ナスカーの計画であろう。
オートスポーツの記事中でも、1970年の万博に向けて関西を舞台にストックカーの国際イベントを開催すると息巻いていた。 久米町は現在の岡山県津山市西隣の地域で、厳密には関西ではないが、中国自動車道によって阪神圏からのアクセスが期待されていた地域でもあり、関西方面の候補地として浮上していた可能性は十分ある。

気になるのが、「自動車競走ギャンブル」という表現である。NASCARそのものはアメリカのストックカーレースの統括・興行団体であり、少なくとも通常は「ギャンブル団体」として語られるものではない。
どうやら楢橋氏は競馬や競輪、競艇やオートレースなどと同様の公営競技(ギャンブル)としてストックカーレースを開催しようとしていたようだ。
よくよく考えてみれば地域ごとに運営会社を分けて運営されるというのも、公営競技の形に近いものが初めから提示されている。
そもそも、日日本で行われている公営競技という仕組みは、日本と韓国でしか行われておらず、現在でも海外ではNASCARのレースを対象としたスポーツベッティングというギャンブルが行われているが、NASCARはあくまでも賭けの対象であり、胴元はNASCARではなくブック業者である。そのため、日本とは仕組みが大きく異なる。

新たに公営競技を増設するという流れは1940~1950年代に競艇、ドッグレース、ハイアライが法案成立を争い、1951年にモーターボート競走法が可決して競艇が公営ギャンブルになって以来、新たな公営競技は生まれていない。

ちなみにこの時期のオートレースでは、現在も行われているオートバイによる2輪レースのほかに、小型の4輪車によるレース、「オート4輪」も行われていた。(1973年廃止)

当然、ここでも新たな公営競技を増やすという部分で却下されており、そこで日本ナスカーの計画はトーンダウンしてしまったようだ。

もしも公営競技としてストックカーレースが行われるとなると公正確保などが難しそうに感じる。現在見られる一般的なストックカーレースとは全く違う競技になっていそうな気がしないでもない。

また、楢橋氏から「神戸の某キャバレー主」へ、サーキット建設の話が個人的に引き継がれたが、そこも頓挫している様子がわかる。単なる仲介者ではなく、かなり前のめりな事業者だったようだ。

別の資料では、1968年の暮れにはすでにサーキット計画は撤回されていたとされている。
同地の開発計画は、三菱商事・三菱地所による遊園地やスポーツ施設、キャンプ地、別荘地などの大規模なレジャー施設や工場誘致などの計画になっていた。
が、実際に建設されたのは1978年にオープンした久米カントリークラブというゴルフ場のみだったという。

-参考文献-
オートスポーツ 1968年8月号
朝日ジャーナル 1972年11月3日号
「高度経済成長期における民間大企業による大規模開発構想とその展開経過」 / 由比浜省吾[著]
https://dl.ndl.go.jp/pid/11975968/1/21

2018年8月6日月曜日

箱根国際自動車レース場 / NAC箱根スピードウェイ / 伊豆モータースピードウェイ / 伊豆ハイスピード・クライム・コース (静岡)

2016/04/01一部追記
2016/08/21一部改訂、追記
2018/08/06 大幅改訂、追記
2020/06/06 ネット上の関連リンク、追記


「伊豆韮山サーキット」でGoogle検索をすると上に出てくるYahoo知恵袋の記事では、現在の日本サイクルスポーツセンターの事だと紹介されているが、正確には伊豆韮山サーキットではなく別のサーキット建設の計画があった。
関連→伊豆韮山サーキット

これは「箱根国際自動車レース場」や「NAC箱根スピードウェイ」、「伊豆モータースピードウェイ」、「伊豆スピードウェイ」などと呼ばれていたサーキットである。

箱根国際自動車レース場(仮称)

1963年5月。戦後日本初のパーマネントサーキット、鈴鹿サーキットで第1回日本グランプリが開催される。
四輪モータースポーツが花開いた瞬間であった。
各所に日本グランプリの衝撃が広がり、未だ興奮覚めやらぬ1963年6月12日の日刊スポーツにこのような大記事が掲載された

""幻のレース場はこれだ そのベールをはぐ""
""工費20億、ひそかに着工 観衆30万を収容 熱海の近郊"世界一"めざす""

そこにはオーバルコースと周辺施設の書かれた図と共に、JASCARというストックカーレース協会の計画が書かれている。

「どこかにとてつもない自動車レース場が作られているそうだ」こんなうわさが二、三ヶ月前から関係者にひそかに流れていた。いつ、どこでだれが、どんなレース場を作るか。だれにもわからず"幻のレース場"と人は呼んだ。幻の自動車レース場は秘密裏に計画準備され現在基礎工事中。早ければ年内、遅くとも来春にはこつ然と出現する。百万坪(3305800平方㍍)の敷地に二十億近い巨費を注ぎ込む世界一デラックスなコース「箱根国際自動車レース場」(仮称)の全容はこれだ。

箱根国際自動車レース場(仮称)
場所 静岡県修善寺町、大仁町。海抜500㍍
敷地 約3305800平方㍍(100万坪)
工事面積 約1650000平方㍍(50万坪)
レース路 アスファルト4・3㌔ 内走路15㍍幅、アスファルト3・2㌔
道路 レース場内及び公道からレース場に至る間15㍍幅2・3㌔
駐車場 自動車5万台 オートバイ3万台
収容人数 30万人 うちグランド・スタンド約10万人

(日刊スポーツ 1963年6月12日)
 60年代~70年代初頭ははこの「日本オートクラブ(NAC)」という団体がストックカーレースを各地で開催していた。
まだ日本に鈴鹿サーキットしか存在していない65年4月時点では主に大井や川口のオートレース場を使用してストックカーレースが行われていた。
なお、当時のオートレース場はダートトラックである他、現在も続いているオートバイでのレースの他、オート四輪と呼ばれる小型自動車でのレースも行われていた。
1964年のストックカーレースではプリンス・グロリアに乗る当時22歳の生沢徹が2度優勝している。

ちなみに、このJASCARという組織が立ち上がろうとしていた直後、別団体として「日本ナスカー」も同じような趣旨で日本でのストックカーレース開催に向けてオーバルコース作りを計画していた。「日本ナスカー」は後の富士スピードウェイとなる。

モーターマガジンの1963年8月号には更に詳しい内容とコース図が掲載されている。
記事によると3年前、1960年から計画はスタートしていたと山西氏はインタビューで語っている。

(モーターマガジン 1963年8月号)

この土地は伊豆修善寺が企業誘致用土地として募集をしていた場所だったという。
その後、紆余曲折あり予定地はサーキットではなく日本サイクルスポーツセンターとして、自転車競技の中心となる巨大施設が出来上がる事になった。



(Google Earthの衛星画像と重ねた図。オーバル上にある丸い建造物は現在の日本サイクルスポーツセンターの”伊豆ベロドローム”)
塩沢氏はこの後、残りの用地を取得。
ここから次の計画に移る事になる。


NAC箱根スピードウェイ
第1期工事分ロードコース:1800m
第2期工事分オーバルトラック:2400m


オートスポーツ1965年4月号には"花ざかりのレース場建設計画"として、鈴鹿サーキットでの日本グランプリ成功を受け、様々な場所で湧いたサーキットの建設計画が紹介されている記事がある。
この中にとして紹介されている部分から抜粋しよう。
これは日本オートクラブのめんめんが資金を出し合って建設を進めているレース・コース。第1期工事として1800mのサーキット、第2期工事として2400mの楕円コースが計画されているが、現在では第1期分のうち約600mの直線コースが完成している。
とあり、簡単なコース図が掲載されている。
これは先の計画よりも南側の土地になる。

(オートスポーツ 1965年4月号より)
1965年4月の記事には"ダートコースながら、「NAC箱根スピードウェイ」を建設中"とある。
現在の衛星画像と見比べてみると、完成した約600mの直線コース部分の跡らしきものが残っているのが見受けられる他、ロードコース部分も地形と合致する。



(Google Earthの衛星画像と重ねた図。 右上の青い部分が以前のオーバルコースの計画。)

その後の顛末はNAC代表塩沢進午氏の自伝、「日本モーターレース創造の軌跡」で語られている。
修善寺の残りの開発誘致の約13万坪、夏苅野と嵯峨平を自動車レース用用地として1964年10月27日、所有権、地上権、借地権と入り組んだ使用契約に踏み切って、資金を投入してしまいました。この土地で、私はノースカロライナ州ロッキンガムにある、周長1マイルのオーバルトラックに似せて、コースを仕上げていく予定でした。然し、1965年春、富士スピードウェイの開場を確認して工事を停止したのです。
しかし、その後もこの用地はNACによって事ある毎に利用されていたようだ。
1966年のJAFスポーツ年鑑には、"1965年レーシング講習会一覧表"の中に
"3/21 主催NAC  場所 NAC伊豆仮設走路"
という記述を見つけることが出来る。
この事から、一部着工した部分を使って何かしらの催しが行なわれたようだ。

他にも1966年頃のオートスポーツに建設予定地でのオフロードレース開催がされたという記録がある他、1967年のJAFスポーツには"キングオブザマウンテン"というヒルクライム競技が行われている記録がある。

(オートテクニック 1970年10月号)
"第一期工事"の場所の東側にあるコースで、現在もコースの跡のようなものが確認出来る。
ここは「伊豆ハイスピード・クライム・コース」として紹介されている。
元々はモトクロス用に道が作られたようではあるが、厳密にいつ頃から使われているかは定かではない。

伊豆ハイスピード・クライム・コース
所在地 伊豆修善寺町夏刈
ダート・コース 約1.2~1.4km
幅 10m, 高低差40m
コース使用 1日30,000円
(JAFスポーツ 1967年8月号)

コース図 JAFスポーツ 1967年8月号


ヒルクライムコース 写真

7月30日 NAC・SSSA第3回キングオブザ・マウンテン 制限付き NAC、SSSA 伊豆モータースピードウェイ
11月23日 第4回キングオブザマウンテン 制限付き NAC 伊豆修善寺
(JAFスポーツ 1967年5月号)


伊豆モータースピードウェイ
オーバルトラック:1600m

そして、1971年頃にも三度オーバルコース建設の話が浮上する。
71年のカレンダーには11月3日に"ストッカー伊豆300キロレース"というレースの開催予定が記載されている。

なお、11月3日は伊豆の従来からオーバルコースを建設予定だった土地に全長1600mのコースを作り、シリーズの第5戦を行なう予定。これは完成すれば平均200km/hを越すスピードで、最高速240km/hという見るものにとってはこれまでと違ったおもしろいレースとなるだろう。ただ、この種コースでのレースとなれば、安全対策も、これまで以上に行なわれなければならないであろう。
(オートテクニック 1971年1月号 p143)

このサーキット計画が頓挫した後も、塩沢進午氏は「日本平スピードウェイ」や「東京湾岸スピードウェイ」などオーバルトラックの計画を複数立ち上げており、前者に関しては完成間近で頓挫している。
更に青森県の「むつ湾スピードウェイ」にてJAF脱退後、NAC自らが団体を起こしサーキットのオープニングレースとして、ストックカーレースを行っている。

これら伊豆のサーキットについてや、NACの活動や他モータースポーツ黎明期の出来事を塩沢氏が自伝的に語っている本「日本モーターレース創造の軌跡」が出版されている
ぜひご覧になっていただきたい。

-関連リンク-
鈴鹿に続けと建設…でも幻に終わったサーキット「伊豆スピードウェイ」をご存知か【東京オリンピック1964年特集Vol.9】- DRIVER@WEB
https://driver-box.yaesu-net.co.jp/new-article/34252/

2017年8月26日土曜日

ニッポンサーキット(千葉県)

2017/8/26記事公開
2021/10/23 追記 


千葉県下にサーキット誕生か
 またひとつサーキットの建設が計画されている。昨年5月に発足したニッポン・サーキット㈱が千葉県・市原市に建設をもくろんでいるニッポン・サーキットがそれだ。
このほど明らかにされた"計画書"によると、コースの形状はイタリアのモンツア・サーキットに類似したオーバル・コースとロード・コースの複合型で、オーバル6km、ロードコース4km、オーバルの1部とロード・コースの1部をあわせた外周10km―ーが考えられている。幅は12~18m。エレベーションは上り最大10%、下り最大12%。カントは最大18度。半径25mから80mのカーブが10ヶ所。観客収容能力は少なくともグランド・スタンドが2万人、自由席が20万人ていどのものにしたいといっている。
 ただし、これはあくまでも基本的なもので、具体的な設計は、モンツアや日本の鈴鹿サーキットを手がけたフーゲンホルツに依頼することにしている。フーゲンホルツは近く来日の予定という。
 用地面積はおよそ33万平方メートル(約100万坪)。建設予定地として白羽の矢が立った千葉県・市原市の南部はほとんどが山林で、約67世帯が所有している私有地だ。しかし、買収にかんする話し合いは、地元の農業協同組合のあっせんで順調に進み、近く第1回めの支払いがおこなわれるということだ。
 ニッポン・サーキット㈱の資金計画によると、建設事業日は約35億円、内訳は用地代金が12億9700万円、建設工事費が21億3570万円、設計費3000万円、その他が運転資金となっている。現在の授権資本は1億6000万円。いまのところ払い込み資本金は4000万円だが、近く特別融資金として15億円を調達し増資に踏みきるという。
 同社では、フーゲンホルツの来日後、基本設計におよそ2ヶ月をついやし、68年初めに工事にとりかかって同年中にオープンするハラづもりでいる。
 ニッポン・サーキットの建設が計画どおりにすすめば、①東京に近い、②気象条件が安定している、③スケールが大きく国際級のレースが開催できるーーなど好条件がそろったサーキットが誕生するわけで、日本のモーター・スポーツ界にとってはたのしみなことである。
 なお、同社のおもな役員はつぎのとおり(敬称略)。
▽取締役会長・東久邇盛厚 
▽代表取締役社長・岸本勘太郎 
▽代表取締役副社長・三好忠一 
▽役員・常沢重雄、近藤正治、小林伊之助、赤松真二郎、辺見利八、高松一雄 
▽監査役・小北忠夫
(オートスポーツ 1967年11月号 p111 一部住所等を省略)

黎明期の日本のモータースポーツ界は、地域でアメリカ型/ヨーロッパ型とはっきりとした区分けがある訳ではなく、どちらの方式のレースも行なわれていた時代である。
富士スピードウェイは元々オーバルで企画されていた事からも分かる。
前年には富士スピードウェイで"日本インディ200マイルレース"というインディカ―レースを日本に招聘して開催するなどもあり、今となっては信じられないが、オーバルコースを計画するという事は不思議ではないのだ。

なお、取締役会長として名を連ねている東久邇盛厚(ひがしくに・もりひろ)氏は元皇族の盛厚王。
この計画の2年後の1969年に肺がんの為死去している。
代表取締役社長の岸本勘太郎は帝国石油株式会社の元社長。
※正確にはジョン・フーゲンホルツはモンツァサーキットを手がけてはいない。

翌年1968年8月号のオートスポーツにも続報が掲載されている。
当初の計画では1968年初めに工事に着手する予定であったが少し遅れている。
計画の千葉県市原市付近の396万平方メートルの6割の買収を完了しており、ジョン・フーゲンホルツ氏が5月に来日し、現地をヘリコプターで視察しFIA公認の国際コースが出来る見通しが立った、という記述がある。
フーゲンホルツ氏による設計で秋頃には設計が完成するという流れのようだった。
この時点の計画では、ヨーロッパ式のロードコースを先に完成させ、オープン後に時期を見てアメリカン・タイプのオーバルコースを作る、という事になっている。
コースの全長は6km~6.5km、3万人収容のスタンドと7万人の自由席を併設。


(オートスポーツ 1968年8月号)

ただし、この後ニッポン・サーキットについての続報は無くなり、そのうち計画は頓挫したと思われる。


 
※掲載されている略図から推測した大体の位置 このあたり近辺。

後にバブル期に市原市内で「東京湾岸スピードウェイ」というオーバルコースも計画されるが、こちらも計画途中で頓挫している。

2016年8月22日月曜日

びわ湖スピードランド / レークビワハイランド (滋賀県)

びわ湖スピードランド / レークビワハイランド
外周コース約700m (750mという表記もある)

元々は始まりは琵琶湖大橋たもとにあったドライブイン、「ビック」の広場を借用してジムカーナ競技を始めたのがきっかけだったようだ。
8月4日OCCKが、琵琶湖大橋のたもとにあるドライブインの広場――ビワ湖スピードランド――を借りて開催したのがきっかけとなって、今後、ここでのハイスピード・ジムカーナが盛んになりそうだ。 (JAFスポーツ 1967年)
当時ドライブイン広場はダートになっており、当時のジムカーナレイアウトが掲載されている。
当時開催されたジムカーナのレイアウト例

広場時代の写真 土煙をあげている事からダートだという事がわかる

そのドライブインを経営していた名神観光㈱がサーキット建設を決定、広場をサーキットとして改築することとなった。
9月末完成を目指し、現在舗装工事中。これが完成すれば、約26,400㎡の競技コース、付帯設備としてガードレール(コース周囲全部)、フェンス、パドックスペース、クラブハウスなどもある一大ジムカーナコースとなる。 (JAFスポーツ 1967年)

1972年の航空写真より

こうして、完成されたびわ湖スピードランドは外周700mのオーバル状コースからインフィールドに様々な浮島が設置されたようなジムカーナコースとなっている。
一番緩いコーナーが48R、キツいコーナーが1.5R、コース幅は9~21mである。
なお、中央の島には鳥居のマークがあるので、何かが祀られていたのではないかと思われる。

詳細なコース図(オートテクニックより)

コース写真(オートテクニックより)

貴重な当時のサーキット映像がYouTubeにアップロードされていたので紹介したい。


途中から南側に遊園地ができ、「レークビワハイランド」という遊園地としてオープンしていたようである。
パドックスペースも一部遊具に潰されたようだ。

1975年の航空写真より 南側に遊園地が出来た

主にジムカーナ競技が行われているが、その他、ゴーカート、そしてストックカーレースも外周コースで開催された。
特筆すべき点としては、日本で初めてスリックタイヤが導入されたのがこのレークビワハイランドで行われたストックカーレースであった。
ただし、レースはかなりの大雨に見舞われ、レースが途中で中断、終了されるという程だったので、実際レースにスリックタイヤは投入されていないと思われる。
http://www.jaf.or.jp/CGI/msports/results/n-race/detail-result.cgi?race_id=1711


サーキットとして、いつまで存在していたかは定かではないが、ゴーカート場としては使われていた様子である。
しかし、1982年の航空写真では既にサーキットの一部がテニスコートによって潰されている様子が見られる。
遊園地のゴーカート場としては最後まで使われていたようだ。

1982年の航空写真 何らかの用途では使われているように見える

その後、別のテーマパークに転用されるなどして、サーキットは駐車場となってしまったという。
現在は、不名誉にも開店休業状態でネット上で有名となってしまったショッピングモール「ピエリ守山」の駐車場となっている。



※カート場「琵琶湖スポーツランド」とは別である

2016年5月9日月曜日

ジャパン・インディ・モータースピードウェイ / オートテクノポリス(関東/茨城)

2016/05/09記事公開
2019/06/15一部追記
2019/08/07一部追記
関東圏にオーバルサーキット新設年に1回インディ・レース!
 11月6日、かねてから噂に上がっていた、インディ・タイプのオーバル・サーキット建設プロジェクトが発表された。
 これはインディアナポリス・モーター・スピードウェイ・コーポレーション(IMS)とライセンス契約を結んだ共同システム(株)が発表したオートテクノポリス構想の一環となるもので、具体的には関東圏に280ha(85万坪)の用地を確保、全長4kmのオーバル・コース(インフィールドに5.4kmのロード・コースを併設)を建設、CARTのシリーズ戦を年1回招へいするというもので、サーキット以外にも3つのゾーンで形成されることになっている。
 具体的な作業としては現在、3カ所の候補地のなかから建設場所を検討中だが、用地決定の後に、20社ほどの共同出資(約500億円を予定)で新会社:ジャパン・インディ・モーター・スピードウェイ(JIMS)を設立、建設の推進にあたることになって94年完成予定でプロジェクトが進行しているとのこと。
 IMSとの契約調印式にはIMSのアントン・H・ジョージ筆頭副社長が来日、またその後に行なわれた記者発表会にはモータースポーツ関係者以外にも政財界からの出席者も多く、改めてプロジェクトの大きさを認識させた。
 FIA/FISAとCARTの関係など、CARTインディ・カー・レース実現までには解決すべき難問も山積しているが、実現を期待したいものだ。 
(オートテクニック 1989年12月号 p77) 
(イメージ図? CARBOY 1990年) 

そういえば、オーバルコースをつくってインディを日本に呼んじゃおう、という「オートテクノポリス」も、コンサートホールからホテル、ショッピングエリア、レストランと、生活のあるスペースを目指している。ここの建設計画には、オーバルコース以外に5.6kmのテクニカルコースとホッドロッド場ってのがあるんだ。 (中略) 
インディ用のオーバルコースを建設予定の「オートテクノポリス」は、記者会見の席で場所を関東というだけで明確にしなかったが、CB氏によると、ある場所でレンコン畑をぶっつぶそうとしているらしい。で、そこの町長さんがサーキット視察をしているという。キーワードは、利根川、水郷で、このあたりでレンコン畑というと、千葉県には広大なレンコン畑はなさそう、もうひとつのレンコン名産地は茨城県の霞ヶ浦近辺だが。 (CARBOY 1990年  一部抜粋) 

1989年11月の報道によると、施設名は「ジャパン・インディ・モータースピードウェイ」となり、長期的なプランとして、インディ500参戦ドライバー、車による「Japan Indy」を毎年開催するという構想だったようだ。

1992年の後半、サーキット計画が宙に浮くという報道があった。
サーキットの予定地としては茨城県小川町(現・茨城県小美玉市)の百里基地の隣接地が計画されており、建設計画を自治体に提出したものの、当時の町側が百里基地の民間乗り入れの計画を推進したことにより計画自体が不受理になったという。
この頃、ちょうど大分県のオートポリスの運営会社が破綻したこともあり、サーキットビジネスそのものにも疑問視が向けられるタイミングであった事も考えられる。
サーキットを計画していた企業も候補地はここ一本で絞っていたようで、計画が頓挫してしまったという。

2010年3月には茨城空港が開港、官民共用が始まった。




80年代終盤、FISA(国際自動車スポーツ連盟、現FIA)がオーバルレースを基本とした世界選手権を行う構想があり、アメリカのオーバルトラックの他にヨーロッパ、日本の未建設のオーバルトラックが開催地の頭数に入っていた。
The loudest shot in the CART-FISA battle was fired Oct. 10, when FISA's World Council, meeting in Paris, announced plans for an international oval-track series, starting in 1992, with races at as-yet-unbuilt tracks in Japan and Europe and, presumably, the speedway. (ニューヨーク・タイムズ 1990年10月29日http://www.nytimes.com/1990/10/29/sports/auto-racing-indy-takes-a-worldwide-view.html )
ちなみに、この件ではCARTはFISAが揉めており、1989年には富士スピードウェイでの開催がFISAの圧力によって中止になる出来事も起きていた。


結果、日本でのアメリカンオーバルレースは約10年後、1998年ツインリンクもてぎにて行われたのであった。

なお、この計画を主導していた企業は十勝スピードウェイなどの建設にも出資をしている。

-参考-
http://www.upi.com/Archives/1989/11/07/Indy-name-to-be-used-in-Japan-racing/9714626418000/
http://www.nytimes.com/1990/10/29/sports/auto-racing-indy-takes-a-worldwide-view.html
百里飛行場 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E9%87%8C%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E5%A0%B4
オートテクニック 1989年12月号
オートテクニック 1990年8月号
オートテクニック 1990年9月号
CARBOY 1990年
日本経済新聞 1992年11月9日

2013年2月12日火曜日

岐阜県可児市オートスポーツセンターのサーキット(岐阜県)


2013/2/12 記事公開
2024/2/9 追記  

 

中京圏に新サーキットが誕生か 
岐阜県の美濃加茂市近くに、いま新サーキット建設の話が具体化している。
これは筑波サーキットのオーナーである(財)オートスポーツセンター(椎名三郎理事長)が、岐阜県可児郡可児町の瀬田地区に計画したもので、現在地元の可児町と話し合いを進めているところ。
関係者の話を総合すると、これは関東に筑波サーキットを建設したのと同じ目的で関西・中京地区の人口を対象にサーキットをつくろうというもの。
その目的とは、公益法人である日本オートスポーツセンターの設立趣旨に沿ったもので、①わが国にはモータースポーツの適切な施設が完備していないため、外国ほどの隆盛をみていない。そこで、公共的施設を設置することによって、国内モータースポーツの普及を図る。②レーシング・マシンなどの性能向上を図ることによって国民の心身の健全な発達と、自動車および関連産業の振興に寄与する―――ということがその主の理由。
すでに10万坪(33万㎡)の用地を手に入れ、今年度から約4億円の予算で第一期工事にとりかかる。完成するのは48~49年度になる予定で、建設費用は15億円の巨額なものになるという。
サーキットの概要は、全長2km強、800mほどの直線を含む高速コースで、ヘヤピンは設けられないもよう。
将来はオーバルコースを付加するもくろみもあるようだ。
高速パターンをとり入れたのは、モータースポーツを盛んにするだけでなく、自動車関連技術のレベルアップを図る目的から、直線にアップダウンを設け、登降坂高速試験路とする構想があるからだという。
いずれにしても、過去の国内になかったようなサーキットが誕生することはまちがいあるまい。むろん、レースもひんぱんに行われるだろうから、中京圏のモータースポーツのメッカになることが期待されている。
もっとも、この建設計画にまったくの問題がない―――というわけではない。
というのは、地元民の一部に騒音や交通公害などを心配する声が出ているからだ。
これにともない、瀬田地区では代表を鈴鹿サーキットに派遣して実情を調べたが、その結果は"条件付きの受入れ"に傾いているという。
その条件とは、交通渋滞や騒音公害の防止と、現在スレちがい不能の取りつけ道路を描幅するぐらいのため、オートスポーツセンター側でも万難を排して取り組むといわれており、関係者は「今度こそ本当にサーキットが出来る」と一様に太鼓判を押している。
(オートスポーツ 1972年2/1号)

財団法人日本オートスポーツセンター(JASC)は一般的には筑波サーキットを運営していると言えば分かりやすい。
1966年に設立されたこの組織は日本のモータースポーツの普及、発展のもとにサーキットを建設した。
1970年の6月、茨城県で筑波サーキットをオープンし、当時としては数少ない首都圏のモータースポーツの中心として使われ続け、現在も人気のサーキットだ。

筑波サーキット開場の2年後、JASCが岐阜県可児(かに)郡(現 可児市)にサーキットを建設する計画を浮上させた。
関東の筑波と同様に関西・中部地区にもサーキットを作ろうという趣旨であった。
サーキットの計画の中では、2kmと筑波サーキットとほぼ同等の大きさではあるものの、筑波サーキットのテクニカルなキャラクターとは別に、オーバルも含む高速コースにする計画だったそうだ。
スポーツ用途だけでなく、試験路としてのテスト用途としても使えるようにする事が記事からも伺える。

この後計画は更に進み、関西の東急グループの不動産会社、東急土地開発と組み、自動車サーキットだけでなく周辺に遊園地やスポーツ施設などを備えたレジャー施設として開発する計画になった。
しかし、用地の保安林の指定解除の手続きに手こずり、さらに県や近隣住民からの騒音問題の反対によりこのサーキット計画は頓挫したという。

現在この瀬田周辺には大きな公園が建設されているが、ここが建設予定地だったのではと推測。

-参考文献-
オートスポーツ 1972年2月1日号
レジャー観光資料 1972年10月号
軍団総帥田中角栄の反攻 : ロッキード裁判傍聴記3 / 著:立花隆


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2013年2月9日土曜日

日本平スピードウェイ(静岡)

2013/2/9 記事公開
2013/2/13 追記  

2024/2/16 追記/修正  

日本平スピードウェイ

距離:オーバル/850m or 870m
        オーバル+インフィールド/約1300m
コース幅:オーバル/18m
             インフィールド8~12m
バンク角:8~12°


日本平スピードウェイは1971年ごろに静岡県静岡市に建設が予定されていたオーバルコースである。
当初は日本平サーキットとして、計画されていた。

(1971年 国土地理院の航空写真より)

日本平サーキットが建設中
 静岡県の日本平に、現在、サーキットが建設されている。サーキット名は"日本平サーキット"といい、久能山のとなりの山の上なので、静岡市街、駿河湾などが一望のもとに見下ろせる風光のすばらしいところ。
 コースの1周は1600mで、外周だけだと約800mのおむすび型。幅はピット前の直線部が12mで、あとは8m。もっとも、直線部がピット、パドックと一体になった平面舗装になるため、ここでジムカーナもおこなえる。オーナーがある建設会社なので、3月末までに完成させ、4月初旬のオープンを目指している。当面は、ミニカー、F-J、カートなどのレースのほか、ジムカーナなどを開催していく予定だが、東名高速道路の静岡インターから10分という至近距離にあり、今後の発展が見込まれている。
(オートスポーツ 1971年3月号)


 当初から、オーバル風の外周コースも計画されていたようだが、後述するNAC代表の塩澤氏の手によって、本格的なアメリカン・オーバルコースとして計画が変更された。

全面バンクつきの"ミニ・デイトナ"日本平スピードウェイ 
先月号のスポーツ短信欄で"日本平サーキット"とおつたえしたが、その後、コース内容が全面バンクつきのアメリカン・タイプに変更されたため、名称も"スピードウェイ"とあらたまった。これにより、完成時期もいくぶんずれ、4月初句のオープン予定が4月18日に順延された。
 コースの外周は、デイトナ・タイプのおむすび型で、1周は850m。ここには80から12oのカ
ントがついており、まったく新しいタイプのストックカー・レースなどが期待されている。インフィールドは、フラットなヨーロッパ・タイプのテクニカル・コース。こちらまでを含めると1.3kmのコースになる。コース幅は、外周部が15mで、インフィールド部が10m。
 なお、カント部の外側には3m、内側には10mの待避ゾーンが設けられ、3mの、ノーンの外側にはコンクリ-トのウォール(外壁)がつくられるところなどもデイトナにそっくり。段のついたメインスタンドはその外側にコースをかこむようなかっこうでつくられるわけだから、まさにスリバチ型になる感じだ。スタンドの収容人数は1万2000人が予定され、駐車場も1700台まで駐車可能。
 4月18日のオープニングにはストックカーのトロフィーダッシュ・レース(日本オートクラブ)とカート・レース(静岡カータース)が予定されているが、5月1日-2日には呼びもののストックカー日本平300マイル(日本オートクラブ)が開催される。もちろん1日が予選で2日が決勝となるが、これにはミニ・セダン・レースも組まれている。
 場所は東名高速道路・静岡インターチェンジの出口から左-左と曲がっていった山の上で、山ののぼりくだりは2本の道路による一方通行路にすることが考えられている。
(※ただし、インフィールド・コースはまだ設計変更される可能性が大きい。また、天候によってはオープンが延期されることもありうる) 


■日本平スピードウェイ
 静岡県日本平の隣に新レース用トラック、日本平スピードウェイが建設されている。このスピードウェイは、わが国では初のオーバルな形状を成すもので、各コーナーには最高12°のカントがつけられている。コース距離はインフィールドを含めて1.3kmとなり、コースの幅員は外周が18mで、インフィールドが8~12mである。観客収容人数は1万2000人で、ピット数は22。
 このスピードウェイのオーナーは、地元の山本開発工業で、4月18日にオープニング・カートレースを行なう予定であり、当面はライセンス講習会、カートレースなどを開催するとのことである。
 なお、ストックカー・レースの主催クラブとして有名なNAC(日本オートクラブ)が5月2日にこの新設スピードウェイでストックカー・レース シリーズ第2戦、ストックカー日本平300を開催する。最初、シリーズ第2戦は全日本選手権シリーズ第4戦と同時に北海道スピードウェイで行なう予定であったが、急遽日本平スピードウェイに変更になった。日本平スピードウェイの12°バンクつきオーバルコースとストックカーのコンビネーションは、きっと本格的なレース内容を展開するに違いない。
(カーグラフィック 1971年 5月号)

オートスポーツ 1971 4月号より
当初からインフィールドのロードコースも作られる事になっていたが、最終的にはこの形になったようだ。

(こんな感じ?)

ストックカーレースはアメリカだけのレースではなかった。60年代~70年代前半にかけて、日本にもストックカーレースが存在した。
そのストックカーレースのシリーズをオーガナイズしていたのが日本オートクラブ(NAC)である。
サーキットが鈴鹿しか存在しなかった最初期は関東のオートレース場で開催されていたが、日本にサーキットが出来るに従い、全国各地様々な場所で開かれた。
しかし、ストックカーレースというアメリカの形式に習い、例えば富士スピードウェイは右回りではなく、左回りのショートコース(30度バンク無し)を使用したり、筑波サーキットも当時存在していた左回り1.3kmショートコース(バックストレート途中から、現バイク用シケイン辺りに繋げる)を使用していた。


その塩澤氏はアメリカ式のレースを日本に導入しようと日本のモータースポーツ初期から活動していた。
富士スピードウェイの最初期に計画されていたオーバルコースや、現在の日本サイクルスポーツセンター近辺に建設が予定されていた"伊豆スピードウェイ"など、様々なオーバルコース計画に関わっている。

塩澤氏の著書"日本モーターレース 創造の軌跡"(ネコ・パブリッシング)にもこの日本平についての記述があるので、いくつか抜粋したい。

9月に入ると待望の私のホームスタジアムが出来る可能性が高くなりました。静岡の日本平の岡のすそに1万5千人収容のグランドスタンドのついた一周870mのオーバルトラックの建設工事が始まりました。
日本平スピードウェイです。レーストラックのデザインをオーナーの山本昭氏が私に一任して下さいました。(日本モーターレース 創造の軌跡より) 

本の内容によると、このサーキット建設は70年の9月頃から始まったようである。
コースのデザインも塩澤氏が担当し、日本最初のオーバルコースとして、産声を上げようとしていた。

が、サーキット周辺にあった静岡大学の寮から騒音等の反対運動が始まり、次第に反対の声が大きくなっていった。
結果、アスファルトを舗装するだけという完成一歩手前でサーキット計画が白紙に戻ってしまったのだ。

オートスポーツ 1971年4月号より

ストッカー日本平300中止
静岡県下に建設中だった日本平スピードウェイは一部地元民の反対運動等の諸事情により一時造成工事を延期することになり、5月2日オープニング記念として開催がよていされていたNAC(日本オートクラブ)主催、ストッカー300キロレースは時期的に開催不能となり、中止となった。
 本レースは5月3日北海道スピードウェイで開催予定のものを急遽、日本平スピードウェイオープニングに合わせて静岡開催に変更、そしてこの中止ということで、関係者に多大のショックを与えている。
 日本平スピードウェイはアメリカで絶大な人気を集める全米ストッカーレースシリーズのレーストラックを模した本格的なオーバルコースとして注目されていたもので、既にグランドスタンド、バンク走路の造成も完了し、2週間を要する舗装工事を残すのみであった。
(オートテクニック 1971年5月号)

 然し舗装用の大型機械のアスファルト フィニッシャーを入れた頃、1000mも離れていた静岡大学の寮の人達が、反対運動を始めたのです。やがて連日、その反対運動を新聞が記事にしました。その結果、市役所が指導に入り計画を諦めることになったのです。その後その場所は9ホールのゴルフ場に転用され現在に到っているのです。
(日本モーターレース 創造の軌跡より)

当時の地元紙記事によると、元々サーキット建設を予定していた丘は宅地造成を主として買収したが、風致地区だった為に宅地造成に適さなかった。 だが、丘の土質がよかったために土砂採集場となった。この際、県が採土の許可を出すにおいて、土砂採集の後は植樹をし、土砂流出などの災害の防止のための工事を実施することという2つの条件が出ていた。
この後、自治体からの要請で防災工事の他に交通公園を作るという事で話が通っていたが、実際は交通公園ではなくサーキットを建設していたという事が雑誌記事で発覚し、県の風致地区条例違反だとして地域住民から県・市・建設業者への抗議運動が起きた。
また地方選挙の政治的駆け引きとして使われたという説も流れている。

コースの廃止後は一度オフロードイベントに使われたようではあるが、詳細は不明。
以上のほか、ことしはSPAC(駿河プレイ・オートクラブ)が静岡市にあるもと日本平スピードウェイの建設予定地近辺でオフロード・トライアルをやるという。
こちらの路面は赤土。
(オートスポーツ 1972年2/1号)
その後は「大谷ゴルフ場」というゴルフ場として利用されている。
現在も現地に行くとうっすらとオーバル跡のようなものが見えるという噂がある。


確認出来る範囲では、74~75年には既にゴルフ場になっている。
(1975年 国土地理院の航空写真より)

-参考文献-
オートスポーツ 
1971年3月号/4月号
1972年2月1日号
オートテクニック
1971年5月号
カーグラフィック 
1971年5月号
静岡年鑑 昭和46年
静岡新聞 1971年3月19日
日本モーターレース創造の軌跡



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2013年1月22日火曜日

磐梯熱海スピードウェイ (福島)

2013/01/22 公開
2024/02/17 大幅改訂、追記

福島県郡山市熱海町にレース場出現か 
このはなしは昨年8月ごろ、国際ナスカー・スピード・ウィーク会社の駐日代表者の代理人であるI氏が、同地に旅行のため宿泊した際に、「ここは自動車レース場には最適な場所である」と見込み、磐梯熱海観光協会長のH氏に相談をもちかけたことから、急に進んだ。場所は磐梯熱海駅から南に約1kmほど入った涼山、蓮山の一部の330万平方メートルの敷地にほぼ決定したが、地元側はあまりにもはなしが大きすぎて…と半信半疑。今年に入ってから国際ナスカー・スピード・ウィーク会社の代表者であるK.Y氏(東北国際ナスカー・スピードウェイ社)が現地を訪れ、一部の土地の貸借仮契約を、さらに1月18日には正式契約を結び、具体的な計画に着手した。東北国際ナスカー・スピードウェイ社は、米国のインディアナ・ナスカー社と提携し、東北地方での興行権をすでに得ており、同社は4月までにアメリカ資本、財界の協力を得て資本金1億円のカブシキ会社として発足する予定。コース延長は4km、総工費30億円をかけて、昭和45年度中に完成にまでもってゆき、スピード・レースを開催する予定。1周4kmのレース場のほかに、スケート場などの設備も作り、あわせて大駐車場も作る計画という。
(CARグラフィック 1967年 3月号より / 一部人名伏せ字) 
「国際ナスカー・スピード・ウィーク会社」「米国のインディアナ・ナスカー社」と今の感覚で見てもツッコミどころのある社名が続くが、ハッキリと言えばこれは詐欺であった。

高度経済成長やモータリゼーションの時代を迎えた1960年代、各地でレジャー施設の計画が持ち上がっていた。
その中オープンした鈴鹿サーキットから始まったモータースポーツ、つまりサーキット場も最新のレジャーとして注目された時代である。
特に60年代中頃から雨後の筍のように各地でサーキット計画が持ち上がっていたのだが、その中でそれっぽい事柄を並べて乗っかったただの詐欺だったのである。
CG誌の記事では半信半疑と懐疑的な見方をしているが、当時の自動車誌では鈴鹿・富士に続くサーキット計画の一つとして取り上げられている節もあった。

しかし、週刊誌ではこれらとは全く違う奇妙な報道があった。
サーキット場開発ではなく、"ヌーディスト・クラブを計画している"という報道であった。
「株式会社磐梯グリンランド」という会社の社長K.T氏は福島県郡山市熱海町の磐梯熱海駅から数キロにある清凉山の用地を確保し、そこに「圧迫された近代生活から解放」「原始人の生活を再現し太陽を浴びて健康な生活を楽しむ裸の国」などと謳うヌーディストクラブを作る事になっていた。
端的に言えば会員制のヌーディストビーチのようなものを山中に作ろうとしていたらしい。

K.T氏はCG誌の記事に登場するK.Y氏の弟で、「東北国際スピードウェイ」の代表であり名前は変名だったので実際はK.H氏という。
最初はK.H氏が磐梯熱海の地を訪れ地元住民にレース場を建設したいと持ちかけた。住民たちも自動車レースやレース場のイメージが湧かないという事から地元住民を実際に富士スピードウェイに連れて行ったことで、こういう施設をやるならと土地を貸すことになったという。
当時は磐梯熱海にはレジャー施設が少なかったので集客できる施設が欲しかったという事だった。
地元住民の間でも「東北国際スピードウェイ」として計画が進められていたのは知られていたものの、その地域住民も知らない間に計画がヌーディストクラブに変化していた。
結局の所、K.T氏は始めからサーキットは金がかかるというから先にヌーディストクラブを作るという目論見だったらしく、それらも反発があることを見越して黙っていたという。

そしてレース場の計画に関しても
また"スピードウェイ"といえば、だれでも鈴鹿のサーキットや富士スピードウェイをかんがえる。舗装されたコースをつっ走るスポーツカー!
 だが、東北国際スピードウェイにかぎり、ちょっとちがうのである。
「道路はジャリを敷いただけのものにして、そこを中古車でぶっとばすのですよ。もちろん新車で走ってもらってもいいが、それじゃクルマがもたんでしょう。青春のウップンをバクハツさせる場所を安く提供するのがねらいですよ」(香島クン)
(週刊文春 1967/10/2)
となんとも"国際"とも"ナスカー"ともかけ離れた粗末な話に成り下がっている。
資金繰りが怪しいと見られている間にもK.T氏はヌーディストクラブやレース場、その他の施設を作る他にも職業訓練学校を作る計画をしていたようだが、職業訓練学校の計画に関わっている関係者がヌーディストクラブに難色を示しヌーディストクラブの計画も撤回されたという。

一方、「東北国際スピードウェイ」の代表だった兄のK.H氏はこの計画以前に岐阜市の某所でゴルフ場の建設・経営という計画を上げ、自治体から山林を買収したが手付金の一部のみを払ったのみで"見せかけ"の工事を開始、さらにこの時点でゴルフ場会員を募集し金が集ったが、工事がストップし、その後K.H氏が会社から金を持ち出そうとしたところを阻止しようとした役員や社員に暴力を振るい、更に現金と手形を脅し取って逃げてしまったという。
K.H氏は暴力行為で逮捕され、保釈された後も先の業務上横領で告訴されこの時点では逮捕令状が出ていた。

これら週刊誌の報道が出た直後に「磐梯グリンランド」の関係者達が逮捕されているが、週刊新潮のインタビューに答えている社長代理だという"I営業部長"が実は偽名であり、実際は逮捕令状が出ているK.H氏であったことが週刊誌に顔写真が掲載されたことから判明したというオチもついている。

なお、この頃の文献を調べていると「東京国際ナスカースピードウェイ㈱」という会社も発見されているが、詳しい事は不明。

-参考文献-
CARグラフィック 1967年3月号
週刊新潮
1967年8月26日/ 9月9日
週刊文春
1967年10月2日


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2013年1月20日日曜日

川口オートレース場 (埼玉)

2013/01/20記事公開
2021/06/09 追記 

(国土地理院 1966年の航空写真より)
(国土地理院 1966年の航空写真より)川口オートレース場(1952-1967)

コース距離:800m
コース幅:30m
コーナー数:2
路面:ダート

現在は500mのターマック舗装オーバルとして使われているが、開場した1952年から1967年までは800mのダートオーバルとして使われていた。

1950年代には日本スポーツカークラブ(SCCJ)によるレースが開催されていた他、60年代には"105マイル・クラブ"(後のNAC[日本オートクラブ])が主催していたストックカーレース「ナショナル・ストックカー・レース大会」を4度開催している。
第3回からJAF管轄に入った為、現在でもリザルトを確認することが出来る。
http://www.jaf.or.jp/msports/results/n-race/index.htm


1964年3月20-22日 第2回ナショナル・ストックカー・レース
(モーターファン 1964年5月号 / グランドナショナル・クラスの様子と思われる)

各クラス優勝者
スポーツマン・クラス(20周) - 山西 喜三夫 / コンテッサ
グランドナショナル・クラス(25周) - 生沢徹 / プリンス・グロリア
インターナショナル・クラス(25周) - ウイルヘルム / シボレー 55年 (*フルネーム不明)
第2回目のストックカーレースはJAF管轄でないためJAFのデータベースにはリザルトが掲載されていない。
インターナショナルクラスは横田基地から来た米軍人出場のエキシビジョンレースだとか。


1964年8月16日 第3回ナショナル・ストックカー・レース
(以下モーターファン 1964年10月号 / スポーツマンクラスの様子)

(コンチネンタルクラスの様子)
(グランドナショナルクラス優勝、生沢徹のプリンス・グロリア)

スポーツマンクラス
コンチネンタルクラス
グランナショナルクラス


1965年3月28日 第4回ナショナル・ストックカー・レース


(CARマガジン / ジュニアコンチネンタルクラスに出場したデル・コンテッサRSA)
(グラン・インターナショナルクラス優勝の田村勝男のサンダーバード)
(コンチネンタルクラスで横転するスカイラインGT)

グランインターナショナルクラス
ジュニアコンチネンタルクラス
スポーツマンクラス
コンチネンタルクラス
グランナショナルクラス
http://www.jaf.or.jp/CGI/msports/results/n-race/detail-result.cgi?race_id=1457


1965年10月9-10日 第6回ナショナル・ストックカー・レース
グランナショナルストックカークラス
セダン/スポーツマンクラス

各レースのリザルトを見ると、後々の日本モータースポーツを担うドライバーも多数参加、優勝している事が分かる。

-関連文献-
・モーターファン
・CARマガジン
・日本モーターレース創造の軌跡

2013年1月18日金曜日

富士スピードウェイ / ナスカー・フジ・スピードウェイ (1) -未完


CARグラフィック 1963年 8月号 p115 スポーツ・ニュース 箱根にストックカー レーストラック建設か 

 最近いくつか新しいレースコースのうわさが聞かれるが、もっとも確実なのは箱根に建設されるストックカーレーストラックの計画である。
それは日本ストックカーレース協会と言う団体で、中心的な人物はスズカにも出場した塩沢進午である。
このトラックはスズカのようなロードサーキットではなく、アメリカ流のバンクの付いた楕円形周回コースで、ふだんは自動車による曲乗りを見せて人を集め、時々本当のストックカーレースを開催するつもりと言われる。




CARグラフィック 1964年 7月号 p129 スポーツ・ニュース
静岡県小山に「ナスカー・フジ・スピードウェイ」 

日本でアメリカ式のストックカーレースを開催すべく昨年12月に設立された日本ナスカー社(資本金3億2千万円、代表取締役 森 長英氏)では、御殿場に近い静岡県駿東郡小山町に2.5マイル(4km)の楕円形トラックと6km以上のロードサーキットを持つ「ナスカー・フジ・スピードウェイ」を建設すると発表した。
完成は明年4月を目標としている。日本ナスカー社はアメリカ デイトナに本拠を持つNASCAR(会長ビル・フランス)と技術提携を行い、極東におけるナスカー方式によるレースの独占的開催権を獲得したという。
ちなみに、NASCAR(National Association for Stock Car Auto Racing)はUSAC、SCCAと並ぶアメリカの大きな自動車レース団体で、デイトナ500を初めとする全米のストックカーレースを統轄している。 


NASCAR Fuji Speedway 及び付帯施設完成予想図 (CARグラフィック 1964年 8月号より)