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2020年1月26日日曜日

50年代初頭の日本のモータースポーツと1952年の茂原国際ロードレース

1945年、第二次大戦の終戦後、日本は連合国軍による占領下におかれ軍人が来日した。
その中で、自動車好きの進駐軍将校が主体となって自動車のクラブ団体が設立され、様々なレースをクラブで開催していた。

日本で戦後初の自動車レースは1951年5月13日に船橋競馬場で行われた「日米対抗レース」と呼ばれるレースだった。
約50台のオートバイと25台の自動車で2輪、4輪あわせて7レースが行われたと言われる。

(日米対抗レースの様子/千葉新聞 昭和26年5月14日)

このレースは日本赤十字社の戦争孤児のためのチャリティレースという側面もあったようだ。
レースには約7万人の観客が集まり、有料・無料の観客が半分半分という事だったらしい。
※3万人という記述もある
(日米対抗レースの様子/モーターファン 1951年12月号)

日本スポーツカークラブ(Sports Car Club of Japan、SCCJ)は日米対抗レースの主催だったMGカークラブ(MGCC)から派生して誕生した団体だという。
SCCJは主にアメリカ、イギリス、オーストラリア、中国など外国人の他、少数の日本人による約70人の会員で構成されていた。

1951年9月28~30日にはSCCJによる東京・京都間の往復ロードレースが開催された。
当時のレース記事には"日本における自動車レースに対する正しい認識と理解を助長するため" というレース開催の名目が書かれている。
日本版ミッレミリアのようなクローズドでない公道を一気に走り抜けるレースと考えていいだろう。
(東京での様子 / モーターファン 1951年11月号)

レース概要としては、9月28日午後8時、東京・日本橋の橋の上からスタートし、大森まで一列で進んだ後に大森でレースがスタート。
ノンストップで公道を駆け抜け、翌日早朝に540km先の京都市役所前のゴールを目指す。
どちらかといえばスピードレースよりも長時間の耐久を目的としたものだった。
行程の半分は舗装、半分が未舗装路だったという。
到着地の京都市役所では東京都知事からのメッセージを京都市長に渡すという事も行われた。
コース沿道では警官がオフィシャルとして手伝っていたそうだ。
復路は29日の午後5時に京都を出発、夜中に東京にたどり着くスケジュールだった。
(京都での様子 /モーターファン 1951年12月号)

往路のレースはMG-TGに乗ったホワイティ・ホワイトステイン/スティーブ・スチアン組が8時間43分で優勝している。
2位に同じくMG-TGに乗るベルト、3位にシトロエンに乗るアーベルス/太田組。※太田祐一氏か
主にMGが多かったようだが、他にもジャガー、ライレー、モーリス等が走行した。
タイヤトラブルやオイルに関してのトラブルが多かったようで、何台か田んぼに飛び込んだという事もあったらしいのだが、どの車もなんとか完走した模様。

東京・京都ロードレースが行われた頃の記事では、1951年11月4日に東京の明治神宮外苑で"グラン・プリックス・スタイル"によるレースを開催するという計画が書かれている。
50周約1時間半の決勝レースが行われる予定で計画されていたようだが、このレースについては何らかの理由で頓挫したものと見られる。

その代案という事なのかはわからないが、千葉県でロードレースが開催された。
「茂原国際ロードレース」というレースで、1952年1月27日に行われた。「69哩ロードレース」とも呼ばれている。
場所は茂原飛行場と呼ばれている滑走路で1941年に作られた。
戦時中は"茂原海軍航空基地"と呼ばれていたこの飛行場は終戦後廃止され、1952年当時ではすでに投棄されたものとなっていた。
※「茂原国際ロードレース」の前年1951年12月にも3時間耐久レースが行われていたようだが詳細は不明。
(1952年の旧茂原飛行場/国土地理院)

SCCJと千葉県庁、千葉新聞社による主催で、当時の地方紙である千葉新聞では紙面にて大々的に「国際ロードレース」の告知記事を掲載している。
※千葉新聞は1956年12月に廃刊
この年の4月には滑走路のある茂原町や東郷村、その他数町村が合併し茂原市となって市政が施行される事になっていたので、町・村総出でレースという大イベントを盛り上げようとする動きがあった。
地元の衆議院議員が優勝カップを寄贈したり、地元の開拓組合がでんぷん粕の乾燥の為に使用していた滑走路を総出で整備したり、茂原町の駅前でも選手や来場者への歓迎ムードを盛り上げる装飾などが行われたという。

レース入場の為には茂原町役場や東郷村役場、その他近辺で購入する事ができる協賛バッジ10円が必要であり、来場者3万人を見込んでバッジが作られたが予想に反して売れたらしく、バッジ増産に追われ最終的には3倍以上の10万とか13万人と言われる観客数が来場したと言われている。
※現在の物価で50円ぐらいらしい
茂原町も近隣の交通機関と協力して臨時列車やバスを増発したが、国鉄茂原駅ではあまりの客の多さに臨時列車に乗り切れない乗客も居たという話がある。

1950年に小型自動車競争法が施行され、公営競技としてのオートレースが始まり、千葉県にも初めてのオートレース場である船橋オートが船橋競馬場内にオープンしていた。
当時の日本では自動車による競争となるとオートレースがポピュラーであった為に、当時の千葉新聞による記事にも
スポーツカーによるレースは営利を目的としたものでなくただアマチュア精神に基いた各種の行事を楽しむのであり、したがって如何なる行事にも金銭的なものは贈呈されることなく、如何なる形式の賭事も許されない
(千葉新聞 昭和27年1月24日)
などと書かれており、観客にオートレースとは性質の違う競技という事を強調しているのが面白い。

レースは滑走路に約2.3マイル(3.7km)のコースを作り、30周合計69マイルの走行距離のタイムを競うレースだった。

(コース図/千葉新聞 昭和27年1月25日)
(推定されるコース)

排気量ごとにクラス分けがされ、Aクラス(無制限)、Bクラス(1000-2000cc)、Cクラス(500-1000cc)と3クラスで混走レースが行われた。
レースは17台が参戦し、ジャガーXK120、MG、モーリス・マイナー、クロスレイの他、国産車ではダットサンが2台参加した。
オオタのミニスター号という200ccのマシンが参加したという記述もある。
(ダットサン/Pacific Stars And Stripes December 17, 1952)

(スタートの様子/千葉新聞 昭和27年1月)

Aクラスはフランク・アントンがジャガーXK120を駆り78分30秒で優勝、20秒遅れてBクラスのスティーブ・スチアン(MG)、85分0秒でCクラスのクロスレイを駆るH.ホールがそれぞれクラス優勝した。
(おそらくアントンのジャガー、観客の多さが伺える /モーターファン1952年3月号 )

当時の新聞のレースレポートを読むと、アントンが排気量の利を生かしレースを独走していたが、後半24-5周ほどで下位クラスのスチアンのMGがコーナーリングで迫ってくるという展開だった。しかし、レース残り2周でスチアンがコーナリングでミス。勝負が決まった。
(優勝したアントン/モーターファン1952年3月号)

レース後の新聞取材でも当時のSCCJ会長であった片山豊氏も予想以上の盛り上がりに驚きと喜びのコメントを残している。

この他、茂原飛行場では前述の3時間耐久レースの他にもいくつかレースが行われたようである。
「茂原国際ロードレース」は翌年1953年1月にも開催の予定があったが開催されたかは不明。

当時SCCJはFIAに公認された四輪モータースポーツ統括団体(Authority Sport Nationale,ASN)を目指していたという。
日本自動車協会(JAA)という団体がFIAに加盟していたが、ASNに関しては存在していなかったようだ。
そこでJAAと協力してSCCJがFIAに公認されたASNとなり、各種リザルトや世界記録などが公認される組織になりたいと共に、自動車と歩行者の交通安全の啓蒙とモータースポーツの啓蒙に努めたいと当時SCCJメンバーが語っている。
先の話になるがJAAは実際には実質的な活動はなく1963年に行われた第1回の日本グランプリはJAAから分裂したJASA(日本自動車スポーツ協会)という団体が主催しているが、その後はJAF(日本自動車連盟)が日本のASNになり現在に至っている。

茂原ロードレースの3ヶ月後、1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が結ばれ、日本国の主権が回復した。
そのため日本に駐留していた連合国軍の軍人も帰国することとなりSCCJメンバーも続々と帰国、1953年頃にSCCJという団体は自然消滅してしまったという事だ。

茂原飛行場の敷地は再開発され、現在は三井化学株式会社の工場となっており、飛行場の跡は失われているが現在でも海軍航空基地時代の戦争遺跡が残っている。


なお、元クラブ会員だった日本人の有志が1955年に同団体を再発足させている。
関連:国内モータースポーツ初のヒルクライムレース/伊豆長岡 (静岡県)

SCCJのレースの他にも、各大学の自動車部が主体となり学生による様々なレースが開催されていた事も注目すべきである。
これらのレースや活動はいずれにせよ公認レースではなかったが、1963年に初開催された日本グランプリを発端とした近代的なモータースポーツに向けた戦後のモータースポーツ史の流れとして重要な出来事だろう。


-関連文献-
・千葉新聞
昭和26年5月14日
昭和27年1月20日/22日/24日/25日/26日/27日/28日/29日
・Pacific Stars And Stripes
April 28, 1951 / December 17, 1952/ 
・モーターファン
1951年11月号/12月号
1952年3月号
・日本の名レース100選 Vol.061
・サーキットの夢と栄光―日本の自動車レース史

-関連リンク-
・SCCJ ヒストリー
http://www.sccj.gr.jp/history.htm
・Motor Sports World / January 4, 1952
※東京・京都ロードレースで優勝したホワイティ・ホワイトステイン氏の日本の自動車レースに関する寄稿文
・Steve L. Suddjian (スティーブ・スチアン氏)
・日本自動車レースの始まりーWWⅡ以後 - Car&レジャーWeb

2019年8月9日金曜日

アメリカ統治下の沖縄で開催された「沖縄グランプリ」

沖縄グランプリ / Okinawa Grand Prix

戦後、1945年から1972年5月まで沖縄県はアメリカ合衆国によって統治されていた。
アメリカ統治下の中、沖縄に駐留していた自動車愛好家の米軍人が主だって沖縄スポーツカークラブ(Okinawa Sports Car Club / OSCC)という団体が1950年代に設立されている。
OSCCではモータースポーツの催事も度々開いており、ラリーやジムカーナ、オートクロスなども行なっていたという。
OSCCのメンバーの中にはフォーミュラジュニアのBrabham BT2を沖縄に持ち込み、マカオグランプリに出場したという記録もある。

そんな中「沖縄グランプリ」と名打たれたロードレースのイベントで何度か開かれた。
1963年に初めて鈴鹿サーキットで四輪の「日本グランプリ」が開催されたので、それよりも早い「グランプリ」と言える。
(ただし、FIAに公認されたレースではないことに注意)

1962年の沖縄グランプリ

1962年、沖縄グランプリと呼ばれるロードレースイベントは読谷飛行場(よみたんと読む)で初めて行なわれた。
5万人を超える観客がレース観戦に訪れたという。(2万5千人という記述もある)
コースは読谷飛行場に作られた2.65マイルのコース。
レース距離は26マイルのレースと、78マイルのレースが行なわれた他、オートバイのレース、ドラッグレースなども行なわれた。

1962年8月18日(土)、予選が行なわれた。
予選ではジャガーEタイプに乗るビル・バクスター選手が平均時速67.82マイルでポールポジションを獲得、オースチンヒーレーに乗るチャールズ・レーバー選手、同じくオースチンに乗るドイル・カトン選手が2位、3位を獲得した。
(おそらく78マイルの予選結果)

翌日19日(日)決勝の予定だったが、台風13号(米国名Sarah)が沖縄を直撃、決勝レースは延期となってしまった。

(読谷飛行場の航空写真 1970年 https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=10318)
延期された決勝の日時は記録が少なくはっきりしないのだが、おそらく8月26日(日)に開催された。
26マイルのレースではジョン・アダムス選手がトライアンフ TR4を駆り優勝した。
78マイルレースでは平均時速62マイルで1時間以上のレースを走りきり、ビル・バクスター選手が優勝した。

オートバイレースの方では、大排気量クラスはジェームズ・シェルトン選手が優勝、小排気量クラスはトシマ・カワグチ選手(表記不明)が勝った。

1971年の沖縄グランプリ

沖縄グランプリ開催要綱 
 日本グランプリも無事終了したところだが、海をへだてた沖縄でもグランプリが開かれる。主催をするのは沖縄スポーツカークラブ(OSCC)で、主に沖縄の基地に勤めるアメリカ人を主体としたクラブである。 
 レースは5月30~31日にカデナ基地の飛行場を特設サーキットとして行なわれ、コースの型状は飛行場という立地条件からほぼ菱形をしたものである。参加するドライバーはアメリカ人ドライバーが大多数をしめており、参加資格はOSCCの発行したライセンスを必要とする。 
 参加台数は60台程度で日本人ドライバーも現地でレンタカー会社を経営する野崎真広氏がスクーデリアニッサンでチューンされた240Zで出場することになっている。 
 車両規定はアメリカのSCCA規定に準じて行なわれ出場車種も米車が大多数を占めており、クラス分けはツーリングレースGTSを主とするグランプリレースである。 
(オートテクニック 1971年6月号)
オートテクニックの記事中では嘉手納基地と紹介されているが、実際には1962年と同じ読谷飛行場でレースが行なわれた。
9年ぶりに沖縄グランプリと銘打たれたレースがOSCCによって開催された。

計62台、車種は大小様々な排気量の車がエントリー。
こちらのレースも1962年と同じく2.65マイルのコースで行なわれた。
15周する決勝レースが予定されていた。
レース当日は2万5千人を超える観客が飛行場に訪れたという。

(1971年の沖縄グランプリ、予選レースの様子 / Pacific Stars And Stripes 1971年6月5日)

予選レースでは沖縄のBellet Racing Teamに属する野崎真広氏がいすゞ自動車のサポートを受け、(おそらく)いすゞベレットで予選レースを優勝した。
また、非公式ではあるがファステストラップも記録したと当時の新聞記事には紹介されている。
予選レースではシボレー・ノヴァに乗る選手が横転クラッシュしたという。

前述の通りかなりの観客がコースに集まった結果、観客が溢れてしまいコース上などを歩行しており、警察も人手不足でコントロールできなくなってしまったため、15周の決勝2レースはキャンセルとなってしまったようだ。
そのため予選レースを優勝した野崎氏が優勝となった。
ただ、レースの合間にも2輪のクラブ団体がドラッグレースなどを行ない観客を盛り上げた。

読谷飛行場は2006年、沖縄に全面返還された。
現在は跡地が開発され飛行場は存在しない。



参考
沖縄グランプリを企画したTed Carter氏のブログ、グランプリに関する事やブラバムBT2についての事が読める
https://www.theamazinglifeandtimesofedwardcarter-uniqueentrepreneur.com/chapter_two_-_1958_-_1962.html
1962年の台風13号 "Sarah"
https://en.wikipedia.org/wiki/1962_Pacific_typhoon_season#Typhoon_Sarah
読谷補助飛行場
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%AD%E8%B0%B7%E8%A3%9C%E5%8A%A9%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E5%A0%B4
Pacific Stars And Stripes - 1962年8月20日 / 1962年8月28日 / 1971年6月5日

2013年1月19日土曜日

木更津飛行場特設サーキット (千葉)

(※ 2013/02/19 追加)

(オートスポーツ 170年2月号より)
(1970年の航空写真)


木更津の米軍飛行場(現・陸上自衛隊木更津駐屯地)の滑走路を使った特設コース。

以前からもジムカーナなどでのモータースポーツイベントで使用されていたが、当時の米軍飛行場の司令官がモータースポーツファンだった為に、この計画も軌道に乗ったようである。
コースは右回りの全長3.5kmだが、西のヘアピン部分の直線を増やすことによって、もっと長い距離にすることもできた。

1970年5月10日には、レース開催を計画していたグループ・オブ・スピード・スポーツ(GSS)による練習会も開催され、ポルシェ・カレラ6で1分29秒というラップタイムを記録していたようだ。

70年の夏ごろに、GSSは"東京湾100マイル"という160km程度のレースを開催しようと計画していたが、開催されていたかは不明。

(オートスポーツ 1970年2月号より)




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