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2026年6月3日水曜日

日本ナスカー (1968年)

オートスポーツ 1968年8月号を読むと、当時日本で計画されていた数々のサーキット計画の中に興味深いものを見つけることができた

ストックカーの"メッカ"を

日本ナスカー 

まだ公表されていないが、日米合弁会社の日本ナスカーが近く"旗あげ"する予定だ。社長は元運輸大臣の楢橋渡氏。副社長には、楢橋渡氏の長男・氏と在日米人のドン・ニコルズ氏が就任することになっている。

アメリカのNASCAR(ナショナル・アソシェーション・フォア・ストックカー・オートモビル・レーシング)と手を結んで、NASCARのストックカー・レースを日本で開催しようというのが日本ナスカーのねらいである。

日本国内の4ヵ所(札幌、関東、関西、九州)にレース・コースを設け、それぞれ札幌ナスカー、関東ナスカー、関西ナスカー、九州ナスカーーーという別会社を設けて直接の管理・運営をあたらせる、そして、日本ナスカーがこれらの地方各社を統括する。レース・コースは札幌が2.5kmのほか、関東、関西、九州は4km。いずれもナスカーの規格にあわせた楕円形コースだが、具体的な建設地域はまだ明かにされていない。しかし、国有地、あるいは公社や公団などの土地を借りる計画もあるようだ。 (オートスポーツ 1968年8月号 新設サーキットをめぐる噂と真相) 

日本ナスカーと言えば、すぐに思いつくのは富士スピードウェイの前身にあたる日本ナスカー社であろう。
日本ナスカー社は現在の富士スピードウェイの地に2.5マイルのオーバルを建設し、アメリカ・NASCARの方式に則ったストックカーレースを開催しようとしていた。
しかし、この話は1968年。すでに富士スピードウェイがオープンした後の話である。

楢橋渡は、福岡県久留米市出身の政治家・弁護士で、戦後には内閣書記官長や運輸大臣を務めた人物である。
楢橋氏は1968年2月のデイトナ500を視察し、NASCARのビル・フランス社長と会談したうえで、日本ナスカー設立に至ったとされる。つまりこれは、富士スピードウェイ建設時の日本ナスカーの関連というわけではなく、楢橋氏を中心に改めてNASCAR本体と結び直そうとした計画だったように見える。

また、ドン・ニコルズが計画に参画しているのも興味深いポイントである。
ドン・ニコルズは富士スピードウェイ前史の日本ナスカー社の計画にも大きく関わった人物であり、後の富士スピードウェイが静岡県の小山町に決まった際もコース設計のチャールズ・マネーペニー、アドバイザーのスターリング・モスとともに小山町の原野を視察している姿が見られる。
参考: https://www.motorsportmagazine.com/articles/single-seaters/stirling-moss-shadowman-tokyos-nightlife-the-creation-of-fuji-speedway/

この新しい日本ナスカー計画でも、ニコルズは単に名前だけの副社長ではなかったようだ。オートスポーツでは、7月中旬時点でニコルズがアメリカとヨーロッパを回り、カーオーナーやドライバーと「日本遠征」の交渉をしているとされている。つまり、海外側の実務交渉を担うキーパーソンだったと見てよさそうである。

突然再浮上した日本ナスカー計画だが、自動車・モータースポーツ誌での続報は見当たらなかった。しかし、「高度経済成長期における民間大企業による大規模開発構想とその展開経過 : 岡山県久米郡久米町と川上郡備中町の場合」という1985年に発行された書籍に関連すると思われる記述があった。
これは岡山県久米郡久米町(現:岡山県津山市の久米地区)という地域の開発について書かれた書籍だが、その中に、なんと顛末が書かれていた

元運輸大臣楢橋渡氏が加藤知事に会い、同氏はアメリカに世界本部のある自動車競走ギャンブルの日本代表権を有していて、国内に適地を調査中である旨を述べた。同じ頃、彼と関係のある神戸の某キャバレー主が自動車レースに興味を有し、久米町に適地があると聞いた旨を県に告げた。

久米町長藪木久太郎氏はこれに乗り気になったが、町単独での交渉は困難と見て、県に仲介を求めた。しかし自治省はギャンブル増設を認めない方針であり、 特に自動車レースはわが国では前例がなく許可見込はないとの見解を示した。 このため楢橋氏は消極的となったが、 キャバレー主は単独ででもサーキットを建設したい意向を変えず 現地での用地買収交渉に入った。しかし価格が折合わず 久米町、県、キャバレー主の三者の話合いの結果、この件は実現を見ないままに終った。( 高度経済成長期における民間大企業による大規模開発構想とその展開経過 : 岡山県久米郡久米町と川上郡備中町の場合)

これはまさしく、日本ナスカーの計画であろう。
オートスポーツの記事中でも、1970年の万博に向けて関西を舞台にストックカーの国際イベントを開催すると息巻いていた。 久米町は現在の岡山県津山市西隣の地域で、厳密には関西ではないが、中国自動車道によって阪神圏からのアクセスが期待されていた地域でもあり、関西方面の候補地として浮上していた可能性は十分ある。

気になるのが、「自動車競走ギャンブル」という表現である。NASCARそのものはアメリカのストックカーレースの統括・興行団体であり、少なくとも通常は「ギャンブル団体」として語られるものではない。
どうやら楢橋氏は競馬や競輪、競艇やオートレースなどと同様の公営競技(ギャンブル)としてストックカーレースを開催しようとしていたようだ。
よくよく考えてみれば地域ごとに運営会社を分けて運営されるというのも、公営競技の形に近いものが初めから提示されている。
そもそも、日日本で行われている公営競技という仕組みは、日本と韓国でしか行われておらず、現在でも海外ではNASCARのレースを対象としたスポーツベッティングというギャンブルが行われているが、NASCARはあくまでも賭けの対象であり、胴元はNASCARではなくブック業者である。そのため、日本とは仕組みが大きく異なる。

新たに公営競技を増設するという流れは1940~1950年代に競艇、ドッグレース、ハイアライが法案成立を争い、1951年にモーターボート競走法が可決して競艇が公営ギャンブルになって以来、新たな公営競技は生まれていない。

ちなみにこの時期のオートレースでは、現在も行われているオートバイによる2輪レースのほかに、小型の4輪車によるレース、「オート4輪」も行われていた。(1973年廃止)

当然、ここでも新たな公営競技を増やすという部分で却下されており、そこで日本ナスカーの計画はトーンダウンしてしまったようだ。

もしも公営競技としてストックカーレースが行われるとなると公正確保などが難しそうに感じる。現在見られる一般的なストックカーレースとは全く違う競技になっていそうな気がしないでもない。

また、楢橋氏から「神戸の某キャバレー主」へ、サーキット建設の話が個人的に引き継がれたが、そこも頓挫している様子がわかる。単なる仲介者ではなく、かなり前のめりな事業者だったようだ。

別の資料では、1968年の暮れにはすでにサーキット計画は撤回されていたとされている。
同地の開発計画は、三菱商事・三菱地所による遊園地やスポーツ施設、キャンプ地、別荘地などの大規模なレジャー施設や工場誘致などの計画になっていた。
が、実際に建設されたのは1978年にオープンした久米カントリークラブというゴルフ場のみだったという。

-参考文献-
オートスポーツ 1968年8月号
朝日ジャーナル 1972年11月3日号
「高度経済成長期における民間大企業による大規模開発構想とその展開経過」 / 由比浜省吾[著]
https://dl.ndl.go.jp/pid/11975968/1/21

2026年5月26日火曜日

厚木サーキット(神奈川県)

厚木サーキット 海老名に建設計画
地元PTA猛反対 "騒音"、青少年に悪影響
相模川河川敷き利用 地主側に賛成の声も 町当局の構え慎重

高座郡海老名町中新田の相模川河川敷きを利用して「日本カーレース会社」(仮称)=本社・東京都渋谷区神宮前五丁目四六ノ一八、発起人代表・加賀山之雄元国鉄総裁=が「厚木サーキット」(仮称)を建設する計画をたて、このほど発起人の中村年郎氏(鹿島建設顧問)らが海老名町を訪れ、田野口町長にサーキット建設の同意を求めた。これを聞いた海老名町PTA連絡協議会(七PTA、大野新一会長)は二十日緊急役員会を開き、サーキット建設には絶対反対の態度を申し合わせ、二十一日町、町議会へ建設に反対するよう陳情した。河川敷きの高度利用と騒音、教育現場の悪化とが真っ向から対立し、地元PTAは高座郡PTA連絡協議会にも呼びかけるなど態度を硬化させているが、地主のなかには賛成派もあり、町当局もサーキット進出には慎重な構えを見せている。
(神奈川新聞 1965年9月22日)
厚木サーキットは、神奈川県高座郡海老名町、現在の神奈川県海老名市に計画されたサーキットである。
計画地は厚木駅から約1km南に位置する河川敷と民有地で、現在の海老名インターチェンジ付近の河川敷だと思われる。計画当時は荒れ地だったという。
事業計画では、中新田地内46万4千平方メートル、うち河川敷21万4千平方メートルを利用し、一次建設資金13億8921万8千円を投じる大規模なものだった。コースは幅10~15m、全長3.2kmで、8万2500平方メートルの駐車場、収容能力10万人のスタンド、自動車整備工場、クラブハウスなどが計画されていた。

「日本カーレース会社」の発起人に連ねる一人として、元国鉄総裁の加賀山之雄がおり、それに関連してか国鉄相模線の厚木駅と社家駅の間に「厚木サーキット駅」を設置する計画も描かれていた。
また、発起人の一人に山西喜一郎という人物がおり、山西氏は1963年には㈱日本ストックカー協会の代表としても名が見え、同協会は箱根国際自動車レース場の計画に関係していた団体である。

なお、記事中にもある通り計画地の近隣にある7つの小学校・中学校のPTAによる猛反対を受けており、すぐに神奈川県議会に議題として上げられている。
PTA側の反対理由も、単なる騒音問題にとどまらず、陳情書では「見知らぬ多くの人たちの出入り」「はでな服装」「向こう見ずな行動」「一発勝負的な考え」「危険を無視したスピード」「耳をおおう騒音」などが青少年に悪影響を及ぼすとしており、当時の自動車レースに対する社会的な警戒感も見て取れる。

「厚木サーキット」 県で不許可
騒音の被害大きい 河川敷き"公共利用"にも反する 今後も認めない

県は「日本カーレース会社」(仮称)=発起人代表・加賀山之雄元国鉄総裁=が高座郡海老名の相模川河川敷きを利用して建設しようとする「厚木サーキット」に対して、土地利用対策委員会で河川敷き占用許可を与えるかどうか検討していたが、公害、教育、衛生などあらゆる行政分野で好ましくないとの結論に達し、三十日までに加賀山発起人代表、海老名町など関係者に通告した。県では同様に、今後、場所のいかんを問わず、県内にはサーキット建設を許可しない方針を決定した。
(神奈川新聞 1965年10月1日)
このサーキット計画については、当初一部地主が土地売り渡しへ同意する動きもあったが、最終的には地主の大部分や砂利採掘権を持つ組合も反対に回ったと報じられている。

県は船橋サーキットや鈴鹿サーキットへの現地調査も行ったうえで、厚木サーキットに河川敷き占用許可を与えない方針を決定した。理由としては、騒音、し尿処理、交通渋滞、農地・県蚕業試験場への影響、そして河川敷きの公共利用方針に反することなどが挙げられている。
結果として(当時の)神奈川県の方針としてサーキット建設については今後も一切の計画を認めない方針を定めた。
この計画は神奈川県におけるサーキット建設そのものへの姿勢を決定づけた事例だったともいえる。

ちなみにこの記事では以前に津久井町の計画(現、相模原市緑区。おそらく力道山のサーキットか)を却下した前例があるという記載がある。

-参考文献-
神奈川新聞
1965年9月22日/10月1日
昭和40年9月30日 神奈川県議会9月定例会議事録第5号

2024年2月9日金曜日

横浜ドリームランドのサーキット(神奈川県)

かつて神奈川県横浜市に「横浜ドリームランド」という遊園地が存在した。
その横浜ドリームランドの敷地の隣にサーキットを作る計画があったという。

この計画は、遊園地内のゴーカートなどのアトラクションではなく、本格的な自動車レース用のサーキットである。
1960年代、近代日本のモータースポーツが鈴鹿サーキットをきっかけに発展し始め、新しいレジャー施設としてサーキット計画が各地で持ち上がった時代である。
横浜ドリームランドに関してはインターネット上に詳しい情報があるため、ここでは詳細な説明は省略する。


横浜ドリームランド開業半年後の1965年初め、日本ドリーム観光株式会社の社長である松尾國三氏がインタビューの中でサーキット建設の計画を披露している。

松尾 (略) バーのほかに自動車競争をやる計画もあるんです。
ー鈴鹿サーキットみたいな…。
松尾 そう、自動車から、選手から、全部アメリカから持ち込んで。
ーしかし、レースとなると、坪数もずいぶんいるんでしょう。
松尾 ドリームランドの周囲には、まだ土地が七、八万坪ありますからね。
ーその程度でやれるのですか。
松尾 大丈夫です。
(財界 1965年2月)

サーキットの計画が再び表面化したのは大体1967年頃。
この時点で日本ドリーム観光の業績は良好とは言えなかったが、それでも一部ではサーキットを業績回復の一打として期待している見方もあった。

なお、現在同社は日産自動車など数社と新会社を設立し、横浜ドリームランドの周囲に自動車レース場を造る計画をしている。年内にも会社発足の見込みであり、来年には建設に乗り出す予定である。
(法律公論 1967年1月)

しかし、1967年は遊園地へのアクセス路として大々的にオープンしたドリームランドモノレールが安全性の問題でわずか1年あまりで運転休止に追い込まれた年である。
また、モノレール事業とサーキット事業を一体にして当時モノレール事業を進めていた三井物産・東芝と共同で運営する計画もあったそうだが、東芝側が難色を示し流れたという話もある。

モノレールの失敗によりアクセスを失い、遊園地の集客に大きな影響が出たことが、後に一部敷地を売却する一因となり、このサーキット用の敷地もその時に売られた可能性がある。
余談ではあるがドリームランド東側のドリームハイツの敷地を大まかに計測した所大体7,8万坪だった。

-参考文献-
財界 1965年2月 / 1967年11月号
法律公論 1967年1月号
ダイヤモンド 1967年2月27日号
オートテクニック 1967年2月号

2018年8月6日月曜日

箱根国際自動車レース場 / NAC箱根スピードウェイ / 伊豆モータースピードウェイ / 伊豆ハイスピード・クライム・コース (静岡)

2016/04/01一部追記
2016/08/21一部改訂、追記
2018/08/06 大幅改訂、追記
2020/06/06 ネット上の関連リンク、追記


「伊豆韮山サーキット」でGoogle検索をすると上に出てくるYahoo知恵袋の記事では、現在の日本サイクルスポーツセンターの事だと紹介されているが、正確には伊豆韮山サーキットではなく別のサーキット建設の計画があった。
関連→伊豆韮山サーキット

これは「箱根国際自動車レース場」や「NAC箱根スピードウェイ」、「伊豆モータースピードウェイ」、「伊豆スピードウェイ」などと呼ばれていたサーキットである。

箱根国際自動車レース場(仮称)

1963年5月。戦後日本初のパーマネントサーキット、鈴鹿サーキットで第1回日本グランプリが開催される。
四輪モータースポーツが花開いた瞬間であった。
各所に日本グランプリの衝撃が広がり、未だ興奮覚めやらぬ1963年6月12日の日刊スポーツにこのような大記事が掲載された

""幻のレース場はこれだ そのベールをはぐ""
""工費20億、ひそかに着工 観衆30万を収容 熱海の近郊"世界一"めざす""

そこにはオーバルコースと周辺施設の書かれた図と共に、JASCARというストックカーレース協会の計画が書かれている。

「どこかにとてつもない自動車レース場が作られているそうだ」こんなうわさが二、三ヶ月前から関係者にひそかに流れていた。いつ、どこでだれが、どんなレース場を作るか。だれにもわからず"幻のレース場"と人は呼んだ。幻の自動車レース場は秘密裏に計画準備され現在基礎工事中。早ければ年内、遅くとも来春にはこつ然と出現する。百万坪(3305800平方㍍)の敷地に二十億近い巨費を注ぎ込む世界一デラックスなコース「箱根国際自動車レース場」(仮称)の全容はこれだ。

箱根国際自動車レース場(仮称)
場所 静岡県修善寺町、大仁町。海抜500㍍
敷地 約3305800平方㍍(100万坪)
工事面積 約1650000平方㍍(50万坪)
レース路 アスファルト4・3㌔ 内走路15㍍幅、アスファルト3・2㌔
道路 レース場内及び公道からレース場に至る間15㍍幅2・3㌔
駐車場 自動車5万台 オートバイ3万台
収容人数 30万人 うちグランド・スタンド約10万人

(日刊スポーツ 1963年6月12日)
 60年代~70年代初頭ははこの「日本オートクラブ(NAC)」という団体がストックカーレースを各地で開催していた。
まだ日本に鈴鹿サーキットしか存在していない65年4月時点では主に大井や川口のオートレース場を使用してストックカーレースが行われていた。
なお、当時のオートレース場はダートトラックである他、現在も続いているオートバイでのレースの他、オート四輪と呼ばれる小型自動車でのレースも行われていた。
1964年のストックカーレースではプリンス・グロリアに乗る当時22歳の生沢徹が2度優勝している。

ちなみに、このJASCARという組織が立ち上がろうとしていた直後、別団体として「日本ナスカー」も同じような趣旨で日本でのストックカーレース開催に向けてオーバルコース作りを計画していた。「日本ナスカー」は後の富士スピードウェイとなる。

モーターマガジンの1963年8月号には更に詳しい内容とコース図が掲載されている。
記事によると3年前、1960年から計画はスタートしていたと山西氏はインタビューで語っている。

(モーターマガジン 1963年8月号)

この土地は伊豆修善寺が企業誘致用土地として募集をしていた場所だったという。
その後、紆余曲折あり予定地はサーキットではなく日本サイクルスポーツセンターとして、自転車競技の中心となる巨大施設が出来上がる事になった。



(Google Earthの衛星画像と重ねた図。オーバル上にある丸い建造物は現在の日本サイクルスポーツセンターの”伊豆ベロドローム”)
塩沢氏はこの後、残りの用地を取得。
ここから次の計画に移る事になる。


NAC箱根スピードウェイ
第1期工事分ロードコース:1800m
第2期工事分オーバルトラック:2400m


オートスポーツ1965年4月号には"花ざかりのレース場建設計画"として、鈴鹿サーキットでの日本グランプリ成功を受け、様々な場所で湧いたサーキットの建設計画が紹介されている記事がある。
この中にとして紹介されている部分から抜粋しよう。
これは日本オートクラブのめんめんが資金を出し合って建設を進めているレース・コース。第1期工事として1800mのサーキット、第2期工事として2400mの楕円コースが計画されているが、現在では第1期分のうち約600mの直線コースが完成している。
とあり、簡単なコース図が掲載されている。
これは先の計画よりも南側の土地になる。

(オートスポーツ 1965年4月号より)
1965年4月の記事には"ダートコースながら、「NAC箱根スピードウェイ」を建設中"とある。
現在の衛星画像と見比べてみると、完成した約600mの直線コース部分の跡らしきものが残っているのが見受けられる他、ロードコース部分も地形と合致する。



(Google Earthの衛星画像と重ねた図。 右上の青い部分が以前のオーバルコースの計画。)

その後の顛末はNAC代表塩沢進午氏の自伝、「日本モーターレース創造の軌跡」で語られている。
修善寺の残りの開発誘致の約13万坪、夏苅野と嵯峨平を自動車レース用用地として1964年10月27日、所有権、地上権、借地権と入り組んだ使用契約に踏み切って、資金を投入してしまいました。この土地で、私はノースカロライナ州ロッキンガムにある、周長1マイルのオーバルトラックに似せて、コースを仕上げていく予定でした。然し、1965年春、富士スピードウェイの開場を確認して工事を停止したのです。
しかし、その後もこの用地はNACによって事ある毎に利用されていたようだ。
1966年のJAFスポーツ年鑑には、"1965年レーシング講習会一覧表"の中に
"3/21 主催NAC  場所 NAC伊豆仮設走路"
という記述を見つけることが出来る。
この事から、一部着工した部分を使って何かしらの催しが行なわれたようだ。

他にも1966年頃のオートスポーツに建設予定地でのオフロードレース開催がされたという記録がある他、1967年のJAFスポーツには"キングオブザマウンテン"というヒルクライム競技が行われている記録がある。

(オートテクニック 1970年10月号)
"第一期工事"の場所の東側にあるコースで、現在もコースの跡のようなものが確認出来る。
ここは「伊豆ハイスピード・クライム・コース」として紹介されている。
元々はモトクロス用に道が作られたようではあるが、厳密にいつ頃から使われているかは定かではない。

伊豆ハイスピード・クライム・コース
所在地 伊豆修善寺町夏刈
ダート・コース 約1.2~1.4km
幅 10m, 高低差40m
コース使用 1日30,000円
(JAFスポーツ 1967年8月号)

コース図 JAFスポーツ 1967年8月号


ヒルクライムコース 写真

7月30日 NAC・SSSA第3回キングオブザ・マウンテン 制限付き NAC、SSSA 伊豆モータースピードウェイ
11月23日 第4回キングオブザマウンテン 制限付き NAC 伊豆修善寺
(JAFスポーツ 1967年5月号)


伊豆モータースピードウェイ
オーバルトラック:1600m

そして、1971年頃にも三度オーバルコース建設の話が浮上する。
71年のカレンダーには11月3日に"ストッカー伊豆300キロレース"というレースの開催予定が記載されている。

なお、11月3日は伊豆の従来からオーバルコースを建設予定だった土地に全長1600mのコースを作り、シリーズの第5戦を行なう予定。これは完成すれば平均200km/hを越すスピードで、最高速240km/hという見るものにとってはこれまでと違ったおもしろいレースとなるだろう。ただ、この種コースでのレースとなれば、安全対策も、これまで以上に行なわれなければならないであろう。
(オートテクニック 1971年1月号 p143)

このサーキット計画が頓挫した後も、塩沢進午氏は「日本平スピードウェイ」や「東京湾岸スピードウェイ」などオーバルトラックの計画を複数立ち上げており、前者に関しては完成間近で頓挫している。
更に青森県の「むつ湾スピードウェイ」にてJAF脱退後、NAC自らが団体を起こしサーキットのオープニングレースとして、ストックカーレースを行っている。

これら伊豆のサーキットについてや、NACの活動や他モータースポーツ黎明期の出来事を塩沢氏が自伝的に語っている本「日本モーターレース創造の軌跡」が出版されている
ぜひご覧になっていただきたい。

-関連リンク-
鈴鹿に続けと建設…でも幻に終わったサーキット「伊豆スピードウェイ」をご存知か【東京オリンピック1964年特集Vol.9】- DRIVER@WEB
https://driver-box.yaesu-net.co.jp/new-article/34252/

2018年1月9日火曜日

伊豆韮山サーキット (静岡)

2013/01/18 記事公開
2018/01/09 記事改訂

伊豆韮山サーキット

1962年、日本で初の本格的な常設サーキットである鈴鹿サーキットがオープン。
翌年には第1回日本グランプリが開催され、日本でも現代的な自動車モータースポーツが脚光を浴びた。それにより、日本各地でサーキット建設の計画が立ち上がった。
その中の一つ、伊豆韮山サーキットについて紹介したい。

まず、インターネットで伊豆韮山サーキットについて検索すると、上位に出てくるYahoo知恵袋の記事では伊豆韮山サーキットの場所は静岡県伊豆市修善寺にある日本サイクルスポーツセンターだと紹介されているが、実際は伊豆の国市韮山に予定されていた。


物流事業の日本通運は1964年に「日通伊豆観光開発」という伊豆での観光事業に関する会社を立ち上げる。韮山に観光施設の建設を目論み、百万坪の土地にゴルフ場、ホテル、遊園地、そしてサーキット場が計画された。
このサーキットが伊豆韮山サーキットである。
日産自動車、日本鋼管、大成建設、間組などが計画には参加していた他、株主として全自動車メーカーが名を連ねていたという。


サーキットの設計には元F1ドライバーで、優勝経験もあるイタリア人のピエロ・タルッフィが招かれた。
タルッフィは第2回日本グランプリの名誉総監としてアドバイスを行なった他、ドライビングテクニックの講師として来日したり、ドライビングテクニック本が日本で翻訳されたりと日本に馴染みが深い。
後述するが、船橋サーキットの設計にも関わっている。

サーキット規模としては、鈴鹿サーキットの2倍半という広大なものであったという。
(※コースの距離か、サーキット場自体の敷地面積なのかは不明)
1964年当時、翌年開催予定だった第3回となる日本グランプリの開催地に関して、JAFと鈴鹿サーキットの間でいざこざがあり、1965年の第3回日本グランプリは結局開催取りやめとなってしまった。
この際、伊豆韮山サーキットが完成した場合は日本グランプリの開催地間違い無しとも言われていたようだ。
しかし、
"伊豆韮山に目論まれていた日本通運のコース場建設計画は、用地問題で地元の反対にあい、一時ストップのようだが
と1965年のオートスポーツに記述があり、この頃には既に計画がペンディングになっていたようだ。

日通伊豆観光開発の斉藤辰馬専務はこう説明する。
「タルフィーに現地を見てもらったところが、理想的なレース場を作るには、どうしてもあと二十万坪はいるという。ところが土地を買い増ししても、地上権や、森林法で伐採ができないし、農地転換の問題がからんで来るので思うようにいかない。だから当時は、涙を飲んで計画を棚上げし、将来の捲土重来を期しているのだ」(財界 1965 4月 春季特大13)

森林・自然保護の点で批難が湧き、これらの理由を元に静岡県から農地転用の許可が出なかった。
更に1966年、同じく静岡県で富士スピードウェイが開場したが、レース開催の度に付近での著しい交通渋滞が発生。近隣の住民から苦情が出ていた事も静岡県の印象を悪くした。
当時の富士周辺の渋滞はインフラ整備がままならなかった事もあるが、現在から比べるととてつもない観客が来場していたのだ。
これらの原因から日通伊豆観光開発はサーキット建設が出来なくなってしまった。

さて、このサーキットは1965年に開場した船橋サーキットと繋がりが深い。
このサーキットがどう船橋サーキットに繋がっていくのか。
元々日通の観光事業設立の際、株主にサーキット建設を公約していたためサーキット建設は避けられない形だった。
そこで日通は船橋ヘルスセンターを開発運営していた朝日土地興業と合弁の形で船橋サーキット建設の運びになったという流れだった。
その流れで、ピエロ・タルッフィが船橋サーキットのコース設計に関わった。
間髪入れずにピエロ・タルッフィがココ(船橋)にやってきて、この狭さでも充分にサーキットができると言うわけです。
それにしても、なんでタルッフィがすぐに来たんですかね。後になって、どこか別のサーキットの打ち合せで来たのがポシャって、で、コッチに来たんだという噂も聞きましたけどね。
(日本のレース100選 vol003 '65 船橋CCC)
とインタビューの中で語っている。その"どこか別のサーキット"が伊豆韮山サーキットだった。
この辺り、時系列が前後している事については今後も追加で調べていきたい。

サーキット建設が頓挫した後も伊豆韮山での遊園地の計画は続き、1966年に「日通伊豆富士見ランド」として遊園地が開業。
その後、運営会社が変わるという出来事もあったが、1999年に遊園地が閉鎖されている。
伊豆富士見ランド - wikipedia
その後、日通の「日通伊豆研修センター」という施設が跡地に完成している。


※東側の土地が伊豆富士見ランドだった敷地。アトラクションの一部が廃墟になっている。

余談ではあるが、伊豆富士見ランドにはモトクロス場が存在していたという。

2018年1月8日月曜日

阿蘇インターナショナル・スピードウェイ(熊本県)

2013/04/24 記事公開
2018/01/08 一部追記・修正、サーキット建設地を追加

阿蘇インターナショナル・スピードウェイ(仮称)
フルコース:6.01km
東コース:3.91km
西コース:2.18km

(モータースポーツ・レーシングサーキット事業開発・運営実態資料集より)

 九州にサーキットふたつ!?
このところ日本各地でサーキット建設計画の噂が絶えないが、最近になって、熊本と鹿児島でも同様の計画が進められている事が明らかになった。
前者は九州産交(本社・熊本市、岡陽一社長)が手掛ける「阿蘇インターナショナル・スピードウェイ」(仮称)。
阿蘇外輪山付近に1周6kmのコースで、レジャー施設を含めた総工費は70~80億円。64年度中に着工し、65年度中にまず東コースを完成させるという。
(カーグラフィック 1988年 9月号より)
(※昭和64年→平成元年・昭和65年→平成2年) 

熊本県阿蘇郡阿蘇町(現熊本県阿蘇市)に建設が計画されていたサーキット。
地元の九州産業交通が主体となっていた。

コース内容としては1989年中に東コースを建設し、第2期工事として続いて西コースを建設する予定だったようだ。

熊本のドライブコースとして有名な「ミルクロード」沿いに建設が予定されていたが、ミルクロード沿いは国定公園の特定地域となっていたため、国定公園絡みの調整でも手間取っていた他、霧も多い地域だったという。

(現在の航空写真とコースを重ねた図)




当時、この周辺では建材(=レイトンハウス)が阿蘇市の西側に隣接する産山村にF1開催規模のサーキット建設計画を発表。
更に北側の県境を超えた大分県上津江村では既にサーキットの着工に入っていた。
これが今の「オートポリス」である。
なんと、オートポリスと阿蘇スピードウェイは直線距離で約6kmの近さであった。

阿蘇市から約15km圏内にF1開催が可能なサーキットが3つも計画されていたという、まさにバブル期のある種狂気じみた程のF1・モータースポーツバブルを象徴するような事柄だろう。

2017年9月2日土曜日

力道山による相模湖のサーキット (神奈川県)

"相模湖畔に"力道山の夢"
50万坪の総合観光センター リキ観光開発
まず大ゴルフ場(来月竣工) レジャー施設を集大成
 プロ・レスラーの力道山(百田光浩氏)は「リキ観光開発株式会社」(代表取締役・百田 光浩)をこのほど設立、神奈川県津久井郡相模町「間(あい)の山」南側一帯約百六十五万五千平方㍍(五十万坪)の土地にスポーツ・ランドを建設することになった。現在の計画はゴルフ場、自動車レース場、ボーリング場、スケート場、水泳プール、射撃場、洋弓場のスポーツ施設とモーテルをつくり、完成のあかつきには観光遊覧地とするもの。
 同地帯は東に津久井湖から高尾山、西は相模湖を一望に見渡せる丘陵地帯で、四十一年には目下進行中の東京都心からの弾丸道路が完成する予定で、完成すれば都心から約三十分で到着できる。
 第一期工事はチャンピオン・コースのゴルフ場の建設で、既に相模町の公私有地の買収を完了し、測量を終わって「レイクサイド・カントリー・クラブ」と命名、七月から本格的工事に着工、明年十月に開場する予定。
 公費は約十五億円。設計は井上誠一氏(関東地方の一流コースの霞ヶ関、龍ケ崎、川崎国際、旧軽井沢、武藤、那須、日光、大洗、大利根、鷹之台、湘南、戸塚、読売などの設計者で、ゴルフ場設計の第一人者)で、ゴルフ場の完成後、他の施設に着工する。
力道山の話
 スポーツに育ち、スポーツに一生を捧げる私の蘇生の念願は、広く人々に楽しんでもらう施設をつくることだ。すでに都内にはリキ・スポーツ・パレスをこしらえたが、こんど相模湖畔の広大な土地に総合レクリエーション・センターを建設する計画を立てた。最初にゴルフ場をこしらえるが、どこのコースにも負けない"日本一"のものをこしらえたい。そして安い費用で多くの人々に楽しんでもらうのだ。私は自分がゴルフ好きだし、世界の有名なゴルフ場を自分の目で見、プレーしてきた。だからゴルファーの立ち場から理想的なものをつくりたい。計画は順調に進んでいるので、予定通りオープン出来るだろう。"
(日刊スポーツ 1963/6/7)

力道山はプロレスリングでの膨大な収入を元に起業。
60年代初めには東京都内で不動産やレジャー施設、常設プロレスリング会場などの経営をしていた。
その延長から計画されたのが、相模湖畔の総合レクリエーション・センター。
先行したゴルフ場建設の後に計画の一環として、サーキット建設が予定されていた。
どの施設も巨額の投資を投じて作られた当時では豪華なもので、このゴルフ場の計画やサーキット場、その他レクリエーションセンター全体の計画を見ても莫大な物となっている。

"またプロレス力道山も相模湖近辺に世界一の自動車レース場を作る原案を持っている。"
(日刊スポーツ 1963/6/12)

力道山は様々な趣味の中に自動車もあり、当時最先端の四輪・二輪を所有していたという。
メルセデス・ベンツ300SLを所有していたというのも有名な話。
そういう事から自動車に関しての造詣は深そうだ。

しかし、同年12月に力道山が刺殺されるという事件が起き、ゴルフ場の建設は中止された。
なお、ゴルフ場「レイクサイド・カントリー・クラブ」に関しては一部着工していたようである。
後に跡地は売却され、1972年にはさがみ湖ピクニックランド(現さがみ湖リゾート プレジャーフォレスト)という遊園地となった。

2017年8月26日土曜日

ニッポンサーキット(千葉県)

2017/8/26記事公開
2021/10/23 追記 


千葉県下にサーキット誕生か
 またひとつサーキットの建設が計画されている。昨年5月に発足したニッポン・サーキット㈱が千葉県・市原市に建設をもくろんでいるニッポン・サーキットがそれだ。
このほど明らかにされた"計画書"によると、コースの形状はイタリアのモンツア・サーキットに類似したオーバル・コースとロード・コースの複合型で、オーバル6km、ロードコース4km、オーバルの1部とロード・コースの1部をあわせた外周10km―ーが考えられている。幅は12~18m。エレベーションは上り最大10%、下り最大12%。カントは最大18度。半径25mから80mのカーブが10ヶ所。観客収容能力は少なくともグランド・スタンドが2万人、自由席が20万人ていどのものにしたいといっている。
 ただし、これはあくまでも基本的なもので、具体的な設計は、モンツアや日本の鈴鹿サーキットを手がけたフーゲンホルツに依頼することにしている。フーゲンホルツは近く来日の予定という。
 用地面積はおよそ33万平方メートル(約100万坪)。建設予定地として白羽の矢が立った千葉県・市原市の南部はほとんどが山林で、約67世帯が所有している私有地だ。しかし、買収にかんする話し合いは、地元の農業協同組合のあっせんで順調に進み、近く第1回めの支払いがおこなわれるということだ。
 ニッポン・サーキット㈱の資金計画によると、建設事業日は約35億円、内訳は用地代金が12億9700万円、建設工事費が21億3570万円、設計費3000万円、その他が運転資金となっている。現在の授権資本は1億6000万円。いまのところ払い込み資本金は4000万円だが、近く特別融資金として15億円を調達し増資に踏みきるという。
 同社では、フーゲンホルツの来日後、基本設計におよそ2ヶ月をついやし、68年初めに工事にとりかかって同年中にオープンするハラづもりでいる。
 ニッポン・サーキットの建設が計画どおりにすすめば、①東京に近い、②気象条件が安定している、③スケールが大きく国際級のレースが開催できるーーなど好条件がそろったサーキットが誕生するわけで、日本のモーター・スポーツ界にとってはたのしみなことである。
 なお、同社のおもな役員はつぎのとおり(敬称略)。
▽取締役会長・東久邇盛厚 
▽代表取締役社長・岸本勘太郎 
▽代表取締役副社長・三好忠一 
▽役員・常沢重雄、近藤正治、小林伊之助、赤松真二郎、辺見利八、高松一雄 
▽監査役・小北忠夫
(オートスポーツ 1967年11月号 p111 一部住所等を省略)

黎明期の日本のモータースポーツ界は、地域でアメリカ型/ヨーロッパ型とはっきりとした区分けがある訳ではなく、どちらの方式のレースも行なわれていた時代である。
富士スピードウェイは元々オーバルで企画されていた事からも分かる。
前年には富士スピードウェイで"日本インディ200マイルレース"というインディカ―レースを日本に招聘して開催するなどもあり、今となっては信じられないが、オーバルコースを計画するという事は不思議ではないのだ。

なお、取締役会長として名を連ねている東久邇盛厚(ひがしくに・もりひろ)氏は元皇族の盛厚王。
この計画の2年後の1969年に肺がんの為死去している。
代表取締役社長の岸本勘太郎は帝国石油株式会社の元社長。
※正確にはジョン・フーゲンホルツはモンツァサーキットを手がけてはいない。

翌年1968年8月号のオートスポーツにも続報が掲載されている。
当初の計画では1968年初めに工事に着手する予定であったが少し遅れている。
計画の千葉県市原市付近の396万平方メートルの6割の買収を完了しており、ジョン・フーゲンホルツ氏が5月に来日し、現地をヘリコプターで視察しFIA公認の国際コースが出来る見通しが立った、という記述がある。
フーゲンホルツ氏による設計で秋頃には設計が完成するという流れのようだった。
この時点の計画では、ヨーロッパ式のロードコースを先に完成させ、オープン後に時期を見てアメリカン・タイプのオーバルコースを作る、という事になっている。
コースの全長は6km~6.5km、3万人収容のスタンドと7万人の自由席を併設。


(オートスポーツ 1968年8月号)

ただし、この後ニッポン・サーキットについての続報は無くなり、そのうち計画は頓挫したと思われる。


 
※掲載されている略図から推測した大体の位置 このあたり近辺。

後にバブル期に市原市内で「東京湾岸スピードウェイ」というオーバルコースも計画されるが、こちらも計画途中で頓挫している。

2016年5月9日月曜日

ジャパン・インディ・モータースピードウェイ / オートテクノポリス(関東/茨城)

2016/05/09記事公開
2019/06/15一部追記
2019/08/07一部追記
関東圏にオーバルサーキット新設年に1回インディ・レース!
 11月6日、かねてから噂に上がっていた、インディ・タイプのオーバル・サーキット建設プロジェクトが発表された。
 これはインディアナポリス・モーター・スピードウェイ・コーポレーション(IMS)とライセンス契約を結んだ共同システム(株)が発表したオートテクノポリス構想の一環となるもので、具体的には関東圏に280ha(85万坪)の用地を確保、全長4kmのオーバル・コース(インフィールドに5.4kmのロード・コースを併設)を建設、CARTのシリーズ戦を年1回招へいするというもので、サーキット以外にも3つのゾーンで形成されることになっている。
 具体的な作業としては現在、3カ所の候補地のなかから建設場所を検討中だが、用地決定の後に、20社ほどの共同出資(約500億円を予定)で新会社:ジャパン・インディ・モーター・スピードウェイ(JIMS)を設立、建設の推進にあたることになって94年完成予定でプロジェクトが進行しているとのこと。
 IMSとの契約調印式にはIMSのアントン・H・ジョージ筆頭副社長が来日、またその後に行なわれた記者発表会にはモータースポーツ関係者以外にも政財界からの出席者も多く、改めてプロジェクトの大きさを認識させた。
 FIA/FISAとCARTの関係など、CARTインディ・カー・レース実現までには解決すべき難問も山積しているが、実現を期待したいものだ。 
(オートテクニック 1989年12月号 p77) 
(イメージ図? CARBOY 1990年) 

そういえば、オーバルコースをつくってインディを日本に呼んじゃおう、という「オートテクノポリス」も、コンサートホールからホテル、ショッピングエリア、レストランと、生活のあるスペースを目指している。ここの建設計画には、オーバルコース以外に5.6kmのテクニカルコースとホッドロッド場ってのがあるんだ。 (中略) 
インディ用のオーバルコースを建設予定の「オートテクノポリス」は、記者会見の席で場所を関東というだけで明確にしなかったが、CB氏によると、ある場所でレンコン畑をぶっつぶそうとしているらしい。で、そこの町長さんがサーキット視察をしているという。キーワードは、利根川、水郷で、このあたりでレンコン畑というと、千葉県には広大なレンコン畑はなさそう、もうひとつのレンコン名産地は茨城県の霞ヶ浦近辺だが。 (CARBOY 1990年  一部抜粋) 

1989年11月の報道によると、施設名は「ジャパン・インディ・モータースピードウェイ」となり、長期的なプランとして、インディ500参戦ドライバー、車による「Japan Indy」を毎年開催するという構想だったようだ。

1992年の後半、サーキット計画が宙に浮くという報道があった。
サーキットの予定地としては茨城県小川町(現・茨城県小美玉市)の百里基地の隣接地が計画されており、建設計画を自治体に提出したものの、当時の町側が百里基地の民間乗り入れの計画を推進したことにより計画自体が不受理になったという。
この頃、ちょうど大分県のオートポリスの運営会社が破綻したこともあり、サーキットビジネスそのものにも疑問視が向けられるタイミングであった事も考えられる。
サーキットを計画していた企業も候補地はここ一本で絞っていたようで、計画が頓挫してしまったという。

2010年3月には茨城空港が開港、官民共用が始まった。




80年代終盤、FISA(国際自動車スポーツ連盟、現FIA)がオーバルレースを基本とした世界選手権を行う構想があり、アメリカのオーバルトラックの他にヨーロッパ、日本の未建設のオーバルトラックが開催地の頭数に入っていた。
The loudest shot in the CART-FISA battle was fired Oct. 10, when FISA's World Council, meeting in Paris, announced plans for an international oval-track series, starting in 1992, with races at as-yet-unbuilt tracks in Japan and Europe and, presumably, the speedway. (ニューヨーク・タイムズ 1990年10月29日http://www.nytimes.com/1990/10/29/sports/auto-racing-indy-takes-a-worldwide-view.html )
ちなみに、この件ではCARTはFISAが揉めており、1989年には富士スピードウェイでの開催がFISAの圧力によって中止になる出来事も起きていた。


結果、日本でのアメリカンオーバルレースは約10年後、1998年ツインリンクもてぎにて行われたのであった。

なお、この計画を主導していた企業は十勝スピードウェイなどの建設にも出資をしている。

-参考-
http://www.upi.com/Archives/1989/11/07/Indy-name-to-be-used-in-Japan-racing/9714626418000/
http://www.nytimes.com/1990/10/29/sports/auto-racing-indy-takes-a-worldwide-view.html
百里飛行場 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E9%87%8C%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E5%A0%B4
オートテクニック 1989年12月号
オートテクニック 1990年8月号
オートテクニック 1990年9月号
CARBOY 1990年
日本経済新聞 1992年11月9日

2015年3月7日土曜日

F1 横浜市街地/横浜での市街地レース構想

2015/03/07 記事公開
2020/04/29 一部追記
F1夢のレース横浜で/スリル満点!300キロ市街戦/ 
あのモナコの興奮が…/62年8月に「青年会議所」が誘致/13日に正式提案国際モータースポーツの最高峰「F1グランプリ」を、横浜で開こうと準備が進められている。計画しているのは、あの長島さんを大洋ホエールズの監督にと、熱烈なラブコールを送った横浜青年会議所(浅利治理事長)。十三日の総会で正式に提案されるが、二年後の六十二年八月、横浜スタジアムから、山下公園にかけての市街地道路をコースに組み入れて、港YOKOHAMAにふさわしい世界的イベントにしようと意気込んでいる。(以下略)(東京中日スポーツ 1985年7月6日 1面)

70年代後半、富士スピードウェイで開催された日本でのF1が途絶えたが、その後も諦めずにF1を日本で開催し続けようと努力する動きがあった。
当時は横浜の他、後にF1日本グランプリが開催される鈴鹿サーキットや富士スピードウェイなど日本GPへの誘致は各所で行われていたという。
その中でも、この日本の大都市で行われる市街地レースは関心を引いた。
横浜市街地でのF1日本GP開催は1983年に横浜青年会議所から構想が浮上し、そこから本格的に計画は進行した。
1983年は丁度同時期、別府市街地での全日本F2の開催が検討されていた時期でもある。
同時期に日本の都市での市街地レース開催の機運が一部で高まっていたのである。

横浜青年会議所は当初山下公園前をホームストレートにするレイアウトを構想していた。
しかし、実際には神奈川県警や病院の正面を通っていたり、ピットロードや観客席などの設置が不可能だったようだ。
山下公園の周りで開催するプランはそもそも実現するにはあまりにも困難だった。
横浜市金沢区の工業団地、港北ニュータウン、大黒埠頭などが検討されたが、どれも騒音問題などがネックとなり選定は困難を極めた。

(横浜スタジアム・山下公園周りでの案 [カーグラフィック 2006年1月号])

そこで新たに提案されたのがみなとみらい地区である。
みなとみらい地区は三菱重工の造船所や国鉄の貨物駅、操車場などが存在した埋立地の再開発で建設された街である。
当時は着工されてから間もない頃であり、街どころか土地も全く完成していない状態である。
公道サーキットには様々な条件も求められるが、まっさらな土地では自由度も高いであろう。
事実、みなとみらいでのレイアウトも幾つか思案され、最終的には日本のトップドライバーの監修を受ける予定があったという。

新しい街の発展や、国際都市としての横浜というPRも含めたみなとみらいでの市街地レース開催である。
当時のF1市街地レースへの視察や、横浜でのF1開催での経済効果なども試算され、F1のドン、バーニー・エクレストンとの交渉も進んでいた。

(みなとみらい21での一案 [カーグラフィック 2006年1月号])

しかし、1989年に横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念する博覧会、横浜博覧会の開催が決定。
みなとみらい地区を使用することで、F1開催が不可能になり運営側が延期を決定。
その他、公道を使用する事について警察からの難色も強く、様々な問題が山積みの中、同時期にF1誘致に動いていた鈴鹿サーキットでの日本GP開催が決定し、ついに横浜市街地でのF1レースの計画は潰えた。
(最終案に近いと思われるコース図[Racing On 1987年2月Vol10])

横浜でのF1開催については日本評論社から出版された城島明彦著の"F1の経済学" に顛末が詳しく記載されている。
ここには当時のF1データや、同時に進行していた鈴鹿サーキットのF1誘致などの事も書かれていて興味深いので、絶版本ではあるが興味があればぜひ探してもらいたい。

横浜でのF1開催は消えてしまった。
だが、横浜での市街地レース開催は再び計画された。
2006年にアメリカのオープンホイールシリーズ、チャンプカー開催が計画されているという報道、更に2010年にはALMS(アメリカン・ル・マン・シリーズ)の開催が計画されていたという報道もあった。
チャンプカーに関しては北海道の小樽市での計画とほぼ同時期である。
だが、残念ながらチャンプカーはシリーズ自体がインディカーに吸収され消滅、ALMSについても組織が再編されたりと今となってはカテゴリー自体が消滅してしまっている。
これらに関しては横浜の市議会議員や有志団体によるロングビーチGP、マカオGPへの視察が行われたという。現在も市街地レース開催を目標に掲げ活動しているようだ。

2011年、日本で初めて公道を使ったフォーミュラ1のデモランを行ったのも横浜である。
このイベント開催には当時の横浜市長の後押しもあったという。

ALMSの計画では既にEVカーやHVカーを使ったエコ志向の自動車レースが提言されていた。
そこで時代が追いつくかのように2014年の秋からは電気自動車の世界選手権であるフォーミュラEが始まる。
フォーミュラEは電気自動車で行われるレース故に騒音や公害が少ないレースとして掲げられており、すべてのラウンドが市街地で行われるレースである。
日本に関係の深いチームの参戦や日本国内でのメディア展開から日本でのフォーミュラEレース開催も予想されているが、その中の候補として横浜の名が上がっているのもよく見受けられる。
事実、横浜市の公文書でもフォーミュラEの開催についての提言をしている文面も見受けられ、実際に誘致に向けて動き出しているとも言われている。

幻の横浜市街地グランプリが30年の時を経て現実のものになる…のだろうか。

-参考・関連リンク-
東京中日スポーツ - 1985年7月6日
F1の経済学 - 著:城島明彦 日本評論社)
カーグラフィック - 2006年1月号
Racing On Vol.10 (1987年2月1日)
トーチュウ - CCWSのS・ジョンソン社長に聞く
http://f1express.cnc.ne.jp/interview/index.php?cat_id=241&teiko_id=155838#
タウンニュース - 実現するか「横浜グランプリ」
http://www.townnews.co.jp/0104/2010/04/22/45114.html
(上記記事Internet Archiveのアーカイブ:https://web.archive.org/web/20101101102914/http://www.townnews.co.jp:80/0104/2010/04/22/45114.html)
Wikipedia - 横浜みなとみらい21
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E6%B5%9C%E3%81%BF%E3%81%AA%E3%81%A8%E3%81%BF%E3%82%89%E3%81%8421

はまれぽ.com - かつてみなとみらいで計画されていた幻の「F1」構想とは?
https://hamarepo.com/story.php?story_id=5268

2013年4月19日金曜日

大分県別府市特設コース/別府国際モータースポーツカーニバル(大分県)

ここでは国内モータースポーツ初の市街地レース計画「別府国際モータースポーツカーニバル」について取り上げる。

1982年9月のオートテクニックでは別府市で公道レースが行われ、F2かGCレースが行われるだろうといった趣旨の記事が掲載された。

数カ月後には詳細な計画が掲載され、F2レースを国際格式かつ全日本選手権、もう一つグループC等の耐久レース車両でのスプリントレースの2つがメインイベントとして開催される他、スターレット・パルサー・シビック等のワンメイク車両でのレースなども行われるとされている。

当初の計画では、特設コース内での4輪レースを行った一週間後、別府市から北西にある陸上自衛隊十文字原演習場を使い、4輪によるラリー・ダートトライアル、2輪モトクロスなどを行う計画もあったが、こちらは早い段階で計画から外されている。

他にも別府市内でのパレードや自動車展示会、映画上映、グッズ販売などレース以外にも沢山のイベントが計画されており、正しく「モータースポーツカーニバル」と言った様相であった。

計画では、別府市中心部から北東にある別府国際観光港の埠頭とちょうど目の前を通る国道10号線の一部を使う1周2.5km程度のコースの予定だった。
当時港は造成中であった。

レースコース略図 

メインレースとの一つとなっているのは当時国内で人気を博していた全日本F2選手権である。
当時全日本F2が行われていたのは鈴鹿・富士・西日本(現MINE)の3サーキットで、主に鈴鹿サーキットを中心に開催されていた。
この全日本F2選手権の1戦としてこの別府が組み込まれる予定だった。
国際格式での開催との事で、海外から選手などを招聘する意図もあったのかもしれない。
もう一つ、グループC規定でのレースが始まり、熱も高まってきた耐久レース車でのスプリントレースもメインレースとなっている。
このスプリントレースでは全国のサーキットを耐久・スプリント共に行いながら転戦していく「インタースーパースポーツシリーズ(仮称)」というシリーズ戦の1戦として組み込まれる計画だった。

この別府市街地レースを企画したのは別府市観光課である。
温泉旅行が下火になってきており、別府市への観光客が減ってきているという現状から町興しとしてのレース開催の計画であった。
別府では当時からハングライダー大会やマラソン大会などのスポーツ大会も開催しており、そのような流れでモータースポーツも開催出来ないだろうかという流れになったようだ。
当時の別府市長、脇谷市長も1982年のカーグラフィック12月号では
うちは観光都市ですから、人を集めなければならないわけです。ところが温泉地の全国的な傾向なんですが、若い人がだんだん遠ざかってしまっている。(中略)
特に今度は車、車は誰でも関心を持っているでしょうから、これまで以上に多くのお客さんを呼べるでしょう。6~7万人は期待していますね。もちろん、これは1回限りではなくて、少なくとも5年は続けてやりたい。そのために恒久的なコンクリートフェンスなども、市の予算をちゃんと組んで作らなければならないでしょうね。
と市としてもかなり熱心にイベント開催に取り込んでいる事をインタビューで語っている。

市と共に計画を進めていたのがVICIC(ビクトリー・サークル・クラブ)である
VICICは日本各地でレースのオーガナイザー、プロモーターとして活動しており、当時はWEC(世界耐久選手権)を日本に初めて呼び込み、その勢いで日本初の市街地公道レースを実現させようという流れである。
そこにWECジャパンではラジオやテレビなどのメディアでのプロモーションで関係していた広告代理店の電通も企画に参加している。

しかし、1983年のカーグラフィック3月号では早くもレースを1年延期するという記事が掲載された。
ここでは国道を使うことはやめる事になり、観光港の湾内道路と駐車場を使いコースを構成するのは変わらないが、レースを開催するには十分な敷地が確保出来ないということが分かり、拡張が必要との事で一年延期ということになった。

ここからしばらく計画は表沙汰に上がる事はなく、結局1984年1月のオートテクニックでは公道使用の警察との合意が進んでいなく保留という形になり、そのまま計画は頓挫したと思われる。

しかし、この別府のレースが契機となり様々な都市で市街地レースが企画されたとのことだ。



2013年3月6日水曜日

大朝国際サーキット(広島県)



大朝国際サーキット

広島の新サーキット、92年にオープン予定 サーキットを核としたレジャーおよび健康のための施設「ナムアLAND」の開発準備室として87年10月に設立された㈱ナムアでは、「大朝国際サーキット」を92年10月にオープンする予定との正式発表をした。
計画では、3.7km以上の国際格式サーキットのほか、精神のやすらぎを見つめる「聖地」をはじめ人びとが集い、食べ、遊び、やすらぎを見つける「ナムアハウス」、オートキャンプ場、スキー場、スポーツ村、食べ歩き村、ファッション村、ペンション村、健康村、国際交流学校などの施設を10年計画で進めるとのこと。
すでにサーキット用地の40万ヘクタールについては買収済みで、予算は45億円。最終的には85億円に達するという。
大朝町役場・企画室長の斎藤氏は「まだ協議段階であり、開発申請もまだです。しかし、町としては枚向きに検討を進めています。このような施設の場合、周辺の交通問題も出てきますので、県と共同で検討していきます。現場は森林地帯ですが、周囲に集落がふたつあり、約200人の住民の、騒音問題などこれから調整が進められると思います」といっている。
なお、「大朝サーキットクラブ」の理事長は横浜大洋ホエールズの古葉竹識監督、コース設計アドバイザーは、元レーシングドライバーの藤田直廣氏。「横浜にサーキットを建設するという話で協力しました。安全性が高く、高速コースをと考え、ストレートを長めにしました。アップダウンの関係でまだわかりませんが、平均速度がF3000クラスで180km/hくらい。鈴鹿よりも高速コースですね」と藤田氏はいう。
広島市内から50kmに予定されている「ナムアLAND」が、モータースポーツファンの「楽園」となることを期待したい。
詳細不明




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2013年2月14日木曜日

球磨郡山江村のサーキット(熊本県)


熊本県南部にサーキット建設構想 
九州自動車道の延伸見越して 
 熊本県南部の球磨郡に自動車レース用のサーキットを建設する構想が浮上してきた。このほど株式会社になった地域おこし組織に新相良藩カンパニー(本社熊本県人吉市、社長田中信考氏)が誘致しているもので、レーシングチームを所有している企業に働きかけを強めている。その企業は担当者を球磨郡山江村に派遣して、用地取得の打診を始めた。サーキットは一周4キロメートル程度で、100ha程度の用地を考えている。用地費は約1億5,000万円の見込みだが、関連投資を含めると総事業費は40億~50億に上るとみられている。現在は八代市まで開通している九州自動車道が64年に人吉市まで延びるのを見越した構想で、レースを月に2、3回、1回に2万~3万人の観客を集めたいという。(日経地域情報 1987年8月)



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タチバナサーキット(福岡県)

タチバナ・サーキット

九州に国際サーキットの建設計画が進行中

福岡県立花町辺春に国際サーキット建設の計画が進行中だ。
この「タチバナ・サーキット」(仮名)は、モータースポーツファンの平田博氏が立案したものだ。国道3号線沿いの山林120ヘクタールに、全長4km、コース幅12~15m、5万人の観客スタンドを65年末までに建設の予定。総工費は60億円、レジャー施設などの付帯設備を含めると90億円に達する。
昨年10月にそれまでの会社を退社した平田氏が、企業回りをした結果、日本舗道を始め、地元企業など5社の出資が可能になったとのことだ。
すでに地権者の同意を得ており、立花町役場では調査研究会を設立して協力する方針だ。
熊本、大分などもサーキット建設の計画が進められている九州だが、それぞれが順調に建設されると、まさに九州はモータースポーツ天国となりそうな気配だ。
(オートスポーツ 1988年 8/1号)

詳細不明



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2013年2月12日火曜日

岐阜県可児市オートスポーツセンターのサーキット(岐阜県)


2013/2/12 記事公開
2024/2/9 追記  

 

中京圏に新サーキットが誕生か 
岐阜県の美濃加茂市近くに、いま新サーキット建設の話が具体化している。
これは筑波サーキットのオーナーである(財)オートスポーツセンター(椎名三郎理事長)が、岐阜県可児郡可児町の瀬田地区に計画したもので、現在地元の可児町と話し合いを進めているところ。
関係者の話を総合すると、これは関東に筑波サーキットを建設したのと同じ目的で関西・中京地区の人口を対象にサーキットをつくろうというもの。
その目的とは、公益法人である日本オートスポーツセンターの設立趣旨に沿ったもので、①わが国にはモータースポーツの適切な施設が完備していないため、外国ほどの隆盛をみていない。そこで、公共的施設を設置することによって、国内モータースポーツの普及を図る。②レーシング・マシンなどの性能向上を図ることによって国民の心身の健全な発達と、自動車および関連産業の振興に寄与する―――ということがその主の理由。
すでに10万坪(33万㎡)の用地を手に入れ、今年度から約4億円の予算で第一期工事にとりかかる。完成するのは48~49年度になる予定で、建設費用は15億円の巨額なものになるという。
サーキットの概要は、全長2km強、800mほどの直線を含む高速コースで、ヘヤピンは設けられないもよう。
将来はオーバルコースを付加するもくろみもあるようだ。
高速パターンをとり入れたのは、モータースポーツを盛んにするだけでなく、自動車関連技術のレベルアップを図る目的から、直線にアップダウンを設け、登降坂高速試験路とする構想があるからだという。
いずれにしても、過去の国内になかったようなサーキットが誕生することはまちがいあるまい。むろん、レースもひんぱんに行われるだろうから、中京圏のモータースポーツのメッカになることが期待されている。
もっとも、この建設計画にまったくの問題がない―――というわけではない。
というのは、地元民の一部に騒音や交通公害などを心配する声が出ているからだ。
これにともない、瀬田地区では代表を鈴鹿サーキットに派遣して実情を調べたが、その結果は"条件付きの受入れ"に傾いているという。
その条件とは、交通渋滞や騒音公害の防止と、現在スレちがい不能の取りつけ道路を描幅するぐらいのため、オートスポーツセンター側でも万難を排して取り組むといわれており、関係者は「今度こそ本当にサーキットが出来る」と一様に太鼓判を押している。
(オートスポーツ 1972年2/1号)

財団法人日本オートスポーツセンター(JASC)は一般的には筑波サーキットを運営していると言えば分かりやすい。
1966年に設立されたこの組織は日本のモータースポーツの普及、発展のもとにサーキットを建設した。
1970年の6月、茨城県で筑波サーキットをオープンし、当時としては数少ない首都圏のモータースポーツの中心として使われ続け、現在も人気のサーキットだ。

筑波サーキット開場の2年後、JASCが岐阜県可児(かに)郡(現 可児市)にサーキットを建設する計画を浮上させた。
関東の筑波と同様に関西・中部地区にもサーキットを作ろうという趣旨であった。
サーキットの計画の中では、2kmと筑波サーキットとほぼ同等の大きさではあるものの、筑波サーキットのテクニカルなキャラクターとは別に、オーバルも含む高速コースにする計画だったそうだ。
スポーツ用途だけでなく、試験路としてのテスト用途としても使えるようにする事が記事からも伺える。

この後計画は更に進み、関西の東急グループの不動産会社、東急土地開発と組み、自動車サーキットだけでなく周辺に遊園地やスポーツ施設などを備えたレジャー施設として開発する計画になった。
しかし、用地の保安林の指定解除の手続きに手こずり、さらに県や近隣住民からの騒音問題の反対によりこのサーキット計画は頓挫したという。

現在この瀬田周辺には大きな公園が建設されているが、ここが建設予定地だったのではと推測。

-参考文献-
オートスポーツ 1972年2月1日号
レジャー観光資料 1972年10月号
軍団総帥田中角栄の反攻 : ロッキード裁判傍聴記3 / 著:立花隆


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2013年2月10日日曜日

猿ヶ京サーキット(群馬県)


猿ヶ京サーキット

猿ヶ京サーキット8月オープン
国道17号線猿が京にジムカーナ、カート併用コースがオープンする。
全長約1km、幅6~8mの舗装路、群馬県の三国山の東京より、赤田湖を眼前とする場所にあり、四季を通じて使用できるサーキットである。
この地方のモータースポーツファンは多いところから猿ヶ京レジャーランドに新たに開設されるものである。なお、当サーキットでは会員システムをとり、モータースポーツに力を入れていく方針で、ライセンス取得講習会、公認レースへの参加など企画している。オープンは8月上旬の予定で、仕上げを急いでいる。
群馬県利根郡新治村吹路新三田大橋下
(オートテクニック 1970年8月号より)
(※赤田湖→赤谷湖?)

建設されず?
住所と場所から、恐らくここら辺が建設予定地と推測。
(国土地理院 1971年の航空写真より)



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2013年2月9日土曜日

南国スカイサーキット(高知)

南国スカイサーキット(仮称)

四国高知にサーキット建設計画1周6km、'89年にオープン予定
サーキット建設候補地として上げられているのは高知市内から国道32号線を20kmほど高松方面にむかった高知県香美郡土佐山田町の山間部。サーキット建設を進めているのは大阪の不動産会社「タケモト産業」で、国道32号線から東側の山林52ヘクタールが対処うち。
このうち26ヘクタールが町有地ですでに売却の仮契約は済んでいるとのこと。この土地を選んだことについて同社では、全国的なサーキット不足に加え、本四架橋や四国横断自動車道の建設計画が進み立地条件として土佐山田町が最適だから、というもの。
具体的なコース図はまだ発表されていないが、全長6~7km、5万人規模の観客収容能力を持つ国際公認コースを予定している。このため、同社では南国スカイサーキットという新会社を設立することになっており、総事業費は約60億円、早ければ2年後の89年に完成、オープンさせたいとしている。
地元の土佐山田町は誘致に極めて積極的で、小野進町長も「実現すれば、竜河洞の数倍の人出が予想でき、観光面はもちろん地域活性化などメリットは極めて大きい」と大賛成。
果たしてどのようなサーキットができるのか、今後の動向が注目されるところだ。
(オートスポーツ 1987年7/1号より)


大阪の不動産会社については、倒産したとの情報がある。

大体この辺りの山林ではないかと思われる。



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日本平スピードウェイ(静岡)

2013/2/9 記事公開
2013/2/13 追記  

2024/2/16 追記/修正  

日本平スピードウェイ

距離:オーバル/850m or 870m
        オーバル+インフィールド/約1300m
コース幅:オーバル/18m
             インフィールド8~12m
バンク角:8~12°


日本平スピードウェイは1971年ごろに静岡県静岡市に建設が予定されていたオーバルコースである。
当初は日本平サーキットとして、計画されていた。

(1971年 国土地理院の航空写真より)

日本平サーキットが建設中
 静岡県の日本平に、現在、サーキットが建設されている。サーキット名は"日本平サーキット"といい、久能山のとなりの山の上なので、静岡市街、駿河湾などが一望のもとに見下ろせる風光のすばらしいところ。
 コースの1周は1600mで、外周だけだと約800mのおむすび型。幅はピット前の直線部が12mで、あとは8m。もっとも、直線部がピット、パドックと一体になった平面舗装になるため、ここでジムカーナもおこなえる。オーナーがある建設会社なので、3月末までに完成させ、4月初旬のオープンを目指している。当面は、ミニカー、F-J、カートなどのレースのほか、ジムカーナなどを開催していく予定だが、東名高速道路の静岡インターから10分という至近距離にあり、今後の発展が見込まれている。
(オートスポーツ 1971年3月号)


 当初から、オーバル風の外周コースも計画されていたようだが、後述するNAC代表の塩澤氏の手によって、本格的なアメリカン・オーバルコースとして計画が変更された。

全面バンクつきの"ミニ・デイトナ"日本平スピードウェイ 
先月号のスポーツ短信欄で"日本平サーキット"とおつたえしたが、その後、コース内容が全面バンクつきのアメリカン・タイプに変更されたため、名称も"スピードウェイ"とあらたまった。これにより、完成時期もいくぶんずれ、4月初句のオープン予定が4月18日に順延された。
 コースの外周は、デイトナ・タイプのおむすび型で、1周は850m。ここには80から12oのカ
ントがついており、まったく新しいタイプのストックカー・レースなどが期待されている。インフィールドは、フラットなヨーロッパ・タイプのテクニカル・コース。こちらまでを含めると1.3kmのコースになる。コース幅は、外周部が15mで、インフィールド部が10m。
 なお、カント部の外側には3m、内側には10mの待避ゾーンが設けられ、3mの、ノーンの外側にはコンクリ-トのウォール(外壁)がつくられるところなどもデイトナにそっくり。段のついたメインスタンドはその外側にコースをかこむようなかっこうでつくられるわけだから、まさにスリバチ型になる感じだ。スタンドの収容人数は1万2000人が予定され、駐車場も1700台まで駐車可能。
 4月18日のオープニングにはストックカーのトロフィーダッシュ・レース(日本オートクラブ)とカート・レース(静岡カータース)が予定されているが、5月1日-2日には呼びもののストックカー日本平300マイル(日本オートクラブ)が開催される。もちろん1日が予選で2日が決勝となるが、これにはミニ・セダン・レースも組まれている。
 場所は東名高速道路・静岡インターチェンジの出口から左-左と曲がっていった山の上で、山ののぼりくだりは2本の道路による一方通行路にすることが考えられている。
(※ただし、インフィールド・コースはまだ設計変更される可能性が大きい。また、天候によってはオープンが延期されることもありうる) 


■日本平スピードウェイ
 静岡県日本平の隣に新レース用トラック、日本平スピードウェイが建設されている。このスピードウェイは、わが国では初のオーバルな形状を成すもので、各コーナーには最高12°のカントがつけられている。コース距離はインフィールドを含めて1.3kmとなり、コースの幅員は外周が18mで、インフィールドが8~12mである。観客収容人数は1万2000人で、ピット数は22。
 このスピードウェイのオーナーは、地元の山本開発工業で、4月18日にオープニング・カートレースを行なう予定であり、当面はライセンス講習会、カートレースなどを開催するとのことである。
 なお、ストックカー・レースの主催クラブとして有名なNAC(日本オートクラブ)が5月2日にこの新設スピードウェイでストックカー・レース シリーズ第2戦、ストックカー日本平300を開催する。最初、シリーズ第2戦は全日本選手権シリーズ第4戦と同時に北海道スピードウェイで行なう予定であったが、急遽日本平スピードウェイに変更になった。日本平スピードウェイの12°バンクつきオーバルコースとストックカーのコンビネーションは、きっと本格的なレース内容を展開するに違いない。
(カーグラフィック 1971年 5月号)

オートスポーツ 1971 4月号より
当初からインフィールドのロードコースも作られる事になっていたが、最終的にはこの形になったようだ。

(こんな感じ?)

ストックカーレースはアメリカだけのレースではなかった。60年代~70年代前半にかけて、日本にもストックカーレースが存在した。
そのストックカーレースのシリーズをオーガナイズしていたのが日本オートクラブ(NAC)である。
サーキットが鈴鹿しか存在しなかった最初期は関東のオートレース場で開催されていたが、日本にサーキットが出来るに従い、全国各地様々な場所で開かれた。
しかし、ストックカーレースというアメリカの形式に習い、例えば富士スピードウェイは右回りではなく、左回りのショートコース(30度バンク無し)を使用したり、筑波サーキットも当時存在していた左回り1.3kmショートコース(バックストレート途中から、現バイク用シケイン辺りに繋げる)を使用していた。


その塩澤氏はアメリカ式のレースを日本に導入しようと日本のモータースポーツ初期から活動していた。
富士スピードウェイの最初期に計画されていたオーバルコースや、現在の日本サイクルスポーツセンター近辺に建設が予定されていた"伊豆スピードウェイ"など、様々なオーバルコース計画に関わっている。

塩澤氏の著書"日本モーターレース 創造の軌跡"(ネコ・パブリッシング)にもこの日本平についての記述があるので、いくつか抜粋したい。

9月に入ると待望の私のホームスタジアムが出来る可能性が高くなりました。静岡の日本平の岡のすそに1万5千人収容のグランドスタンドのついた一周870mのオーバルトラックの建設工事が始まりました。
日本平スピードウェイです。レーストラックのデザインをオーナーの山本昭氏が私に一任して下さいました。(日本モーターレース 創造の軌跡より) 

本の内容によると、このサーキット建設は70年の9月頃から始まったようである。
コースのデザインも塩澤氏が担当し、日本最初のオーバルコースとして、産声を上げようとしていた。

が、サーキット周辺にあった静岡大学の寮から騒音等の反対運動が始まり、次第に反対の声が大きくなっていった。
結果、アスファルトを舗装するだけという完成一歩手前でサーキット計画が白紙に戻ってしまったのだ。

オートスポーツ 1971年4月号より

ストッカー日本平300中止
静岡県下に建設中だった日本平スピードウェイは一部地元民の反対運動等の諸事情により一時造成工事を延期することになり、5月2日オープニング記念として開催がよていされていたNAC(日本オートクラブ)主催、ストッカー300キロレースは時期的に開催不能となり、中止となった。
 本レースは5月3日北海道スピードウェイで開催予定のものを急遽、日本平スピードウェイオープニングに合わせて静岡開催に変更、そしてこの中止ということで、関係者に多大のショックを与えている。
 日本平スピードウェイはアメリカで絶大な人気を集める全米ストッカーレースシリーズのレーストラックを模した本格的なオーバルコースとして注目されていたもので、既にグランドスタンド、バンク走路の造成も完了し、2週間を要する舗装工事を残すのみであった。
(オートテクニック 1971年5月号)

 然し舗装用の大型機械のアスファルト フィニッシャーを入れた頃、1000mも離れていた静岡大学の寮の人達が、反対運動を始めたのです。やがて連日、その反対運動を新聞が記事にしました。その結果、市役所が指導に入り計画を諦めることになったのです。その後その場所は9ホールのゴルフ場に転用され現在に到っているのです。
(日本モーターレース 創造の軌跡より)

当時の地元紙記事によると、元々サーキット建設を予定していた丘は宅地造成を主として買収したが、風致地区だった為に宅地造成に適さなかった。 だが、丘の土質がよかったために土砂採集場となった。この際、県が採土の許可を出すにおいて、土砂採集の後は植樹をし、土砂流出などの災害の防止のための工事を実施することという2つの条件が出ていた。
この後、自治体からの要請で防災工事の他に交通公園を作るという事で話が通っていたが、実際は交通公園ではなくサーキットを建設していたという事が雑誌記事で発覚し、県の風致地区条例違反だとして地域住民から県・市・建設業者への抗議運動が起きた。
また地方選挙の政治的駆け引きとして使われたという説も流れている。

コースの廃止後は一度オフロードイベントに使われたようではあるが、詳細は不明。
以上のほか、ことしはSPAC(駿河プレイ・オートクラブ)が静岡市にあるもと日本平スピードウェイの建設予定地近辺でオフロード・トライアルをやるという。
こちらの路面は赤土。
(オートスポーツ 1972年2/1号)
その後は「大谷ゴルフ場」というゴルフ場として利用されている。
現在も現地に行くとうっすらとオーバル跡のようなものが見えるという噂がある。


確認出来る範囲では、74~75年には既にゴルフ場になっている。
(1975年 国土地理院の航空写真より)

-参考文献-
オートスポーツ 
1971年3月号/4月号
1972年2月1日号
オートテクニック
1971年5月号
カーグラフィック 
1971年5月号
静岡年鑑 昭和46年
静岡新聞 1971年3月19日
日本モーターレース創造の軌跡



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2013年2月5日火曜日

都城オートスポーツセンター(宮崎) [追記あり]

都城オートスポーツセンター (仮称)
距離:4.85km
 九州にサーキットふたつ!?
このところ日本各地でサーキット建設計画の噂が絶えないが、最近になって、熊本と鹿児島でも同様の計画が進められている事が明らかになった。
前者は九州産交(本社・熊本市、岡陽一社長)が手掛ける「阿蘇インターナショナル・スピードウェイ」(仮称)。
阿蘇外輪山付近に1周6kmのコースで、レジャー施設を含めた総工費は70~80億円。64年度中に着工し、65年度中にまず東コースを完成させるという。
後者は霧島山麓の山林を利用する「都城オートスポーツセンター」(仮称)。
コースの全長は4.85kmで"阿蘇"と同じくサーキットばかりでなくさまざまな施設を備えた総合レジャーセンターとして建設される。
65年度オープンを目指す計画そのものは関西の企画会社や不動産関係の会社が行なっているが、鹿児島市も全面的に協力する姿勢で、地元、市の資本による新会社も設立され、第3セクター方式で運営されるのが特徴である。
この計画が完成すれば、九州では初のサーキットになる。
(カーグラフィック 1988年 9月号より)
(※昭和64年→平成元年・昭和65年→平成2年) 

宮崎県都城市(みやこのじょうと読む)で計画されていたサーキット計画。
「MAC計画」と呼ばれるレジャー施設の一つだったそうだ。

MAC計画を許可 
 都城にサーキット場やゴルフ場 都城市西岳地区に計画されている総合レクリエーション基地建設(MAC計画)で、都城市は9月30日、大規模開発と林地開発に対する県の許可が同29日付で下りたことを明らかにした。
農地転用の許可を含め、これですべてクリアしたことになり、同市は平成8年度の完成に向け、順次工事に取り掛かる。
総事業費は3百億円以上見込まれ、バブル経済が崩壊した今、資金計画について心配する声も。今後の工事の進ちょくが注目される。
 MAC計画は63年にその内容が発表されたあと、2年9月に同市と山田不動産(大阪市)、大林組(同)が出資した第三セクター「マック開発」(資本金1億円)を設立した。
 計画は同市美川、高野町の山林約330ヘクタールを造成、F1クラスの自動車レースが可能な一周4.7キロのサーキット場をはじめ18ホールの本格的なゴルフ場、ホテルなどを建設する。
(92.10.1 宮日)
(http://miyazaki.4zen.jp/007/19/index.html より)
「レジャー産業 1991年12月号」に掲載されている91年末地点でのサーキットのデータとしては、コース距離4.15km、幅員12~15m、観客収容人数は6万~7万人、ピット数は50。
コースレイアウトに関しては掲載されていないが、コースは2つに分け別々に使用でき、コース内側にはカートコースが設けられているという。
レイアウトに関しては、"コーナーが多すぎて高速ギヤのチャンスが少なく、しかも直線が十分でなくてコーナー間が短い(中略)レーサー群には評価されないだろう。"とボロクソに言われている。
国際公認コースにしてはコーナーが多く、よく言えばテクニカルなレイアウト、悪く言えば平均速度が遅く抜けないサーキット。であったことだろう。

現在は予定跡地が「西岳モトクロス場」というオフロードコースとしてひっそりと使われているそうです。


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※追記2013/04/11

2013年2月2日土曜日

レイトンモーターランド(栃木など)

※追記 13/02/13

バブル期にモータースポーツ界だけでなく、様々な事業によって名を馳せていたレイトンハウスがバブル期に計画していたサーキット計画。

建財グループ(本社東京、赤城明社長)の場合、F1レースのチーム「レイトンハウス」を抱えていることもあり、モータースポーツ施設建設には積極的な姿勢をみせる。構想によると建設予定地は今市市と一部日光市を加えたやく二百ヘクタールで、このうち八十六ヘクタールをサーキット場に充てる。サーキット内部にはゴーカート、変形サイクル向けのミニコースを設置。
このほかモーターファンや児童・生徒が利用できる日本の交通歴史館、世界自動車歴史館など四つの博物館も建設する方針。総事業費は約百五十億円、建設用地の九割に上る地権者から同意を得ており、二月末には地元の今市市、日光市、県の三者と開発のための事前協議をスタート、平成二年着工、平成四年の完成を目指している。
(時事解説 平成元年1月27日号より)
※今市市は現在、市町村合併により日光市となっている。

F1が開催出来る規模のサーキットの他に、自動車に関する博物館やテーマパーク、その他ホテル、スポーツ施設なども備えた総合的なレジャー施設の計画だったという。
その他、同じようなサーキット場計画を栃木県今市市以外にも、北海道千歳市、熊本県産山村にも建設する計画だったそうだ。

レイトンハウスは89年に以前からメインスポンサードしていたマーチを買収し、レイトンハウス・レーシングとしてF1に参戦し、10月には建材をレイトンに改名した。
F1のスポンサードの他にも、様々な不動産でレイトンブランドを展開していったが、91年のバブル崩壊、更に9月12日には富士銀行不正融資事件で社長の赤城明は逮捕。
93年3月に懲役10年の実刑を言い渡された。

この「レイトンモーターランド」もバブル期を象徴する大規模な計画であったが、バブル崩壊に加え社長の逮捕という事もあり、当然ながらこの計画は頓挫したことだろう。

※追記
この計画が発表されてから、約三ヶ月後には付近の交通渋滞等の問題でこの計画は断念された。
その後、1991年に同地にはレイトンハウスによるテーマパーク建設計画が持ち上がったという。