//---FB----
ラベル 70年代 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 70年代 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2026年6月3日水曜日

日本ナスカー (1968年)

オートスポーツ 1968年8月号を読むと、当時日本で計画されていた数々のサーキット計画の中に興味深いものを見つけることができた

ストックカーの"メッカ"を

日本ナスカー 

まだ公表されていないが、日米合弁会社の日本ナスカーが近く"旗あげ"する予定だ。社長は元運輸大臣の楢橋渡氏。副社長には、楢橋渡氏の長男・氏と在日米人のドン・ニコルズ氏が就任することになっている。

アメリカのNASCAR(ナショナル・アソシェーション・フォア・ストックカー・オートモビル・レーシング)と手を結んで、NASCARのストックカー・レースを日本で開催しようというのが日本ナスカーのねらいである。

日本国内の4ヵ所(札幌、関東、関西、九州)にレース・コースを設け、それぞれ札幌ナスカー、関東ナスカー、関西ナスカー、九州ナスカーーーという別会社を設けて直接の管理・運営をあたらせる、そして、日本ナスカーがこれらの地方各社を統括する。レース・コースは札幌が2.5kmのほか、関東、関西、九州は4km。いずれもナスカーの規格にあわせた楕円形コースだが、具体的な建設地域はまだ明かにされていない。しかし、国有地、あるいは公社や公団などの土地を借りる計画もあるようだ。 (オートスポーツ 1968年8月号 新設サーキットをめぐる噂と真相) 

日本ナスカーと言えば、すぐに思いつくのは富士スピードウェイの前身にあたる日本ナスカー社であろう。
日本ナスカー社は現在の富士スピードウェイの地に2.5マイルのオーバルを建設し、アメリカ・NASCARの方式に則ったストックカーレースを開催しようとしていた。
しかし、この話は1968年。すでに富士スピードウェイがオープンした後の話である。

楢橋渡は、福岡県久留米市出身の政治家・弁護士で、戦後には内閣書記官長や運輸大臣を務めた人物である。
楢橋氏は1968年2月のデイトナ500を視察し、NASCARのビル・フランス社長と会談したうえで、日本ナスカー設立に至ったとされる。つまりこれは、富士スピードウェイ建設時の日本ナスカーの関連というわけではなく、楢橋氏を中心に改めてNASCAR本体と結び直そうとした計画だったように見える。

また、ドン・ニコルズが計画に参画しているのも興味深いポイントである。
ドン・ニコルズは富士スピードウェイ前史の日本ナスカー社の計画にも大きく関わった人物であり、後の富士スピードウェイが静岡県の小山町に決まった際もコース設計のチャールズ・マネーペニー、アドバイザーのスターリング・モスとともに小山町の原野を視察している姿が見られる。
参考: https://www.motorsportmagazine.com/articles/single-seaters/stirling-moss-shadowman-tokyos-nightlife-the-creation-of-fuji-speedway/

この新しい日本ナスカー計画でも、ニコルズは単に名前だけの副社長ではなかったようだ。オートスポーツでは、7月中旬時点でニコルズがアメリカとヨーロッパを回り、カーオーナーやドライバーと「日本遠征」の交渉をしているとされている。つまり、海外側の実務交渉を担うキーパーソンだったと見てよさそうである。

突然再浮上した日本ナスカー計画だが、自動車・モータースポーツ誌での続報は見当たらなかった。しかし、「高度経済成長期における民間大企業による大規模開発構想とその展開経過 : 岡山県久米郡久米町と川上郡備中町の場合」という1985年に発行された書籍に関連すると思われる記述があった。
これは岡山県久米郡久米町(現:岡山県津山市の久米地区)という地域の開発について書かれた書籍だが、その中に、なんと顛末が書かれていた

元運輸大臣楢橋渡氏が加藤知事に会い、同氏はアメリカに世界本部のある自動車競走ギャンブルの日本代表権を有していて、国内に適地を調査中である旨を述べた。同じ頃、彼と関係のある神戸の某キャバレー主が自動車レースに興味を有し、久米町に適地があると聞いた旨を県に告げた。

久米町長藪木久太郎氏はこれに乗り気になったが、町単独での交渉は困難と見て、県に仲介を求めた。しかし自治省はギャンブル増設を認めない方針であり、 特に自動車レースはわが国では前例がなく許可見込はないとの見解を示した。 このため楢橋氏は消極的となったが、 キャバレー主は単独ででもサーキットを建設したい意向を変えず 現地での用地買収交渉に入った。しかし価格が折合わず 久米町、県、キャバレー主の三者の話合いの結果、この件は実現を見ないままに終った。( 高度経済成長期における民間大企業による大規模開発構想とその展開経過 : 岡山県久米郡久米町と川上郡備中町の場合)

これはまさしく、日本ナスカーの計画であろう。
オートスポーツの記事中でも、1970年の万博に向けて関西を舞台にストックカーの国際イベントを開催すると息巻いていた。 久米町は現在の岡山県津山市西隣の地域で、厳密には関西ではないが、中国自動車道によって阪神圏からのアクセスが期待されていた地域でもあり、関西方面の候補地として浮上していた可能性は十分ある。

気になるのが、「自動車競走ギャンブル」という表現である。NASCARそのものはアメリカのストックカーレースの統括・興行団体であり、少なくとも通常は「ギャンブル団体」として語られるものではない。
どうやら楢橋氏は競馬や競輪、競艇やオートレースなどと同様の公営競技(ギャンブル)としてストックカーレースを開催しようとしていたようだ。
よくよく考えてみれば地域ごとに運営会社を分けて運営されるというのも、公営競技の形に近いものが初めから提示されている。
そもそも、日日本で行われている公営競技という仕組みは、日本と韓国でしか行われておらず、現在でも海外ではNASCARのレースを対象としたスポーツベッティングというギャンブルが行われているが、NASCARはあくまでも賭けの対象であり、胴元はNASCARではなくブック業者である。そのため、日本とは仕組みが大きく異なる。

新たに公営競技を増設するという流れは1940~1950年代に競艇、ドッグレース、ハイアライが法案成立を争い、1951年にモーターボート競走法が可決して競艇が公営ギャンブルになって以来、新たな公営競技は生まれていない。

ちなみにこの時期のオートレースでは、現在も行われているオートバイによる2輪レースのほかに、小型の4輪車によるレース、「オート4輪」も行われていた。(1973年廃止)

当然、ここでも新たな公営競技を増やすという部分で却下されており、そこで日本ナスカーの計画はトーンダウンしてしまったようだ。

もしも公営競技としてストックカーレースが行われるとなると公正確保などが難しそうに感じる。現在見られる一般的なストックカーレースとは全く違う競技になっていそうな気がしないでもない。

また、楢橋氏から「神戸の某キャバレー主」へ、サーキット建設の話が個人的に引き継がれたが、そこも頓挫している様子がわかる。単なる仲介者ではなく、かなり前のめりな事業者だったようだ。

別の資料では、1968年の暮れにはすでにサーキット計画は撤回されていたとされている。
同地の開発計画は、三菱商事・三菱地所による遊園地やスポーツ施設、キャンプ地、別荘地などの大規模なレジャー施設や工場誘致などの計画になっていた。
が、実際に建設されたのは1978年にオープンした久米カントリークラブというゴルフ場のみだったという。

-参考文献-
オートスポーツ 1968年8月号
朝日ジャーナル 1972年11月3日号
「高度経済成長期における民間大企業による大規模開発構想とその展開経過」 / 由比浜省吾[著]
https://dl.ndl.go.jp/pid/11975968/1/21

2019年8月12日月曜日

野呂山スピードパーク (広島県)

野呂山スピードパーク
所在地:広島県呉市安浦町大字中畑
全長: 1.38km ・ 1.75km (右回り) /0.89km(ストックカー / 左回り)
※のろさん と読む

(1975年1月の国土地理院の航空写真、時期的に閉鎖された直後かもしれない。https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=863219)

野呂山スピードパークの案内
広島の国立公園野呂山(のろさん)にできた野呂山スピードパークは直線部300m、すり鉢を思わすバンク、それに続くヘアピン・カーブ等、変化に富んだ1周1700m(幅員15m)コースである。
各イベントをはじめ平日もスポーツ走行、カート走行などができる。
(オートテクニック 1970年1月号)

(野呂山スピードウェイのマップ(1.38kmのレイアウト) オートテクニック)

野呂山スピードパーク(通称:NSP)は広島県呉市の野呂山にかつて存在したサーキット。
オープン日は1969年10月19日だという。
鈴鹿・富士・船橋(既に閉鎖)の次、近代的な4輪レースが始まってから4つめに作られた常設サーキットとなる。
NSPがオープンする前、中国地方のモータースポーツフリークは鈴鹿・富士と遠くへの遠征を強いられた他、埋立地や河原の土手などで行なわれた年2度ほどのジムカーナしか参加出来なかったという。

終戦後、国有地だった野呂山は引揚者に土地を開放し農地開拓が行なわれたが、後に観光地としての開発が始まり遊園地などが出来、その一環でサーキットもオープンされた。
サーキットになった土地も元々は畑だったという。
サーキットを作るきっかけになったのも、当時野呂山の林道などで行なわれていたモトクロスのコースを作ろうという事が発展して四輪用のサーキットになったという。

コースは山の斜面をつづら折りに下り、再びつづら折りに登っていくというテクニカルなレイアウト。
一番長いストレートでもホームストレートが約300mほどしかない。
上り下りもかなり激しく、6-10%の上り下りの勾配は当たり前に存在し、特に最終コーナーからフィニッシュラインにまで至る最後のストレートは約15%ほどの上り勾配がある他、コースアウト防止のため随所のコーナーに2段階のカントが付けられている。

左から1.75km / 1.32km / 0.89km

NSPのオープニングレースは1970年5月15日に行なわれた。
ストックカーレースを開催していた日本オートクラブ(NAC)が「全日本ストッカー呉200kmレース」を開催。
アメリカ式のレースらしく、左回りで行なわれたレースは一番短いレイアウトが使用された。
このレイアウトでは本コースとショートカットコースの交差の段差が大きく派手なジャンピングスポットが存在した他、ターン1となる最終コーナーの手前はかなりの下り坂となる。
第1ヒート、レースは雨と霧に祟られ、濃霧で2時間あまりスタートがディレイ。
霧が一瞬晴れた瞬間になんとかスタートさせたが、その後もすぐに霧が発生してしまった。
1kmもないレイアウトのため、3周目にはラップダウンのマシンが出始めたという。
100周の第1ヒートは1/3程がイエローコーションだった上、ディレイの影響で第2ヒートはキャンセルとなってしまった。
優勝はセドリックに乗る寺西考利選手。


「全日本ストッカー呉200kmレース」の当時の動画、雨と霧の中を疾走するストックカー。

NSPでは主にツーリングカーレースや当時流行っていたミニカーレース、軽自動車のエンジンを使ったFLマシン等のレースも行なわれていた他、ジムカーナ競技やカートでの走行もあった。
GCマシンのエキシビジョンランというイベントも行なわれたようだが、参加車のほぼすべてがトラブルにより満足に走れたマシンは1台だけだったという。


当時の遠景の動画、オープンから2-3年は経過していそうだ


1974年頃の雑誌には、サーキットが閉鎖されるという噂が流れ、それを否定する旨の記事が掲載されていた。
実際、サーキットから発せられる騒音について近隣地域からの苦情もあった他、モータースポーツならずとも社会的問題となっていたオイルショックも経営に大きな影響を与えた。そして、経営難に陥り運営会社を畳んだという。
野呂山スピードパークが閉鎖
広島県の野呂山スピードパークが閉鎖、モトクロスコースに改修中である。1970年にオープンした同サーキットはアップダウンの激しいコースとして知られていたが、経営不振のためモトクロスコースに変えられたもの。
(オートテクニック 1975年4月号)
記事の通り四輪コースとしては閉鎖されてしまったが、一部舗装を剥がしてモトクロスコースに転用されたとの事。
広島県の2輪レースの歴史をまとめた「広島モーターサイクル全史」によると
800mもの高い標高が災いしてライダーはキャブレターセッティングに苦労し評判は芳しいものではなかったようである。
という当時のライダーの評判が聞こえる。
(1981年の航空写真、一部舗装が剥がされている
https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=877732)

その後モトクロスコースとしても廃止され、跡地はしばらく休眠地となっていたが、1997年頃にオートキャンプ場として転用された。
この頃までにコントロールタワーは撤去されていたが、ピットとして使われていた建物は残っていたようである。
現在はオートキャンプ場も閉鎖されている。

ネット上では2000年代に入り、サーキットを復活させようとした動きもあったようだが、詳細は不明。

今、航空写真を見ると緑に覆われた中にコースの形が見える。
しかし、現在はピットも撤去され、事務所だったという大きい建物、REXOL(オイル)の缶を模した看板の骨組み、そして当時出光のGSだった建物だけが廃墟となって残っている。



参考資料
JAFリザルト "全日本ストッカー呉200kmレース"
http://www.jaf.or.jp/CGI/msports/results/n-race/detail-result.cgi?race_id=1754&window_flg=1
オートテクニック
オートスポーツ
JAFスポーツ
F1倶楽部 Vol24 特集グランプリサーキット
広島モーターサイクル全史

2019年7月24日水曜日

マキシムスピードウェイ (沖縄県)

2019/07/24 記事公開
2021/02/18 記事追記

マキシムスピードウェイ
所在地:沖縄県中頭郡読谷村(よみたんそん)楚辺
全長:1.2km

(コース図 オートテクニック 1975年2月号)
沖縄にサーキット誕生、75年3月にオープニングレース
 日本の最南端の沖縄県にレーシングコースが誕生する。名称はマキシムスピードウェイ、場所は沖縄本島の中央部にある読谷(ヨミタン)村辺で1周は1.2km、幅員はストレートが11m、コーナーが9mというもの。30RのヘアピンS字コーナーなど大小9つのコーナーのあるテクニカルコースで、最高スピードは150㎞/hの設計になっているとのこと。左右のグリーン地帯はそれぞれ4mづつあり、将来はコース幅員を広げる計画がある。
 沖縄県の場合、モータースポーツはまだ盛んとはいえないが、主要交通機関は自動車なので18才以上の自動車免許取得率は高いという。現在レーシングチームマキシム(RTMー森田耕司会長)がJAF加盟クラブとして160人の会員をようして活動している。75年3月に予定されているオープニングレースもRTM主催で行なわれることになっている。現在Aライセンスを取得している者は30名ほどとのことで、今後講習会を開催して、有資格者をふやしていくことになっている。同時にレーシング仕様のツーリングカーの中古車などが入ってきているとのこと。75年レースカレンダーには5月、12月にマキシムスピードウェイのレースが登録されているが、現在は臨時トラックで、できるだけ早い期間に公認をとりつける意向だ。 (オートテクニック 1975年1月号 p13)

アメリカ統治下の沖縄では50~60年代、在日米軍人を中心に嘉手納基地などで自動車レースが行なわれていたという。
アメリカ統治下の沖縄で開催された「沖縄グランプリ」

1972年に沖縄県が日本に復帰してから3年後、小規模ながらサーキットが作られた。
建設の主体となったレーシングチームマキシムは沖縄内でラリーなどを開催していたようだが、このサーキットでサーキットレースやジムカーナ競技などを行なったようだ。
1975年には6レースがJAFのカレンダーに登録されていた。

(1975年5/25のマキシムグレーテッドドライバーカーレースの様子 オートテクニック 1975年7月号)

ただし、サーキットはかなり短命だったようで1977年の国土地理院による航空写真を見ると、サーキットの姿が無く跡地ですでに宅地開発が始まっており、サーキットの形がしっかりと確認出来るものはおそらくない。

(推定地 https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=1085798)

なお、JAFのリザルト記録には1976年7月25日に"スポーツランドオキナワ"という開催地で「マキシムツーリングカーレース」というレースが行なわれている記録がある。
実際のところ、このスポーツランドオキナワがマキシムスピードウェイを指しているかは定かではないが、レース名にクラブ団体の名前も入っている事からサーキットが改名されて使用されていたのではないかと思われる。
http://www.jaf.or.jp/CGI/msports/results/race/result.cgi?race_id=1976000177

2016年8月22日月曜日

びわ湖スピードランド / レークビワハイランド (滋賀県)

びわ湖スピードランド / レークビワハイランド
外周コース約700m (750mという表記もある)

元々は始まりは琵琶湖大橋たもとにあったドライブイン、「ビック」の広場を借用してジムカーナ競技を始めたのがきっかけだったようだ。
8月4日OCCKが、琵琶湖大橋のたもとにあるドライブインの広場――ビワ湖スピードランド――を借りて開催したのがきっかけとなって、今後、ここでのハイスピード・ジムカーナが盛んになりそうだ。 (JAFスポーツ 1967年)
当時ドライブイン広場はダートになっており、当時のジムカーナレイアウトが掲載されている。
当時開催されたジムカーナのレイアウト例

広場時代の写真 土煙をあげている事からダートだという事がわかる

そのドライブインを経営していた名神観光㈱がサーキット建設を決定、広場をサーキットとして改築することとなった。
9月末完成を目指し、現在舗装工事中。これが完成すれば、約26,400㎡の競技コース、付帯設備としてガードレール(コース周囲全部)、フェンス、パドックスペース、クラブハウスなどもある一大ジムカーナコースとなる。 (JAFスポーツ 1967年)

1972年の航空写真より

こうして、完成されたびわ湖スピードランドは外周700mのオーバル状コースからインフィールドに様々な浮島が設置されたようなジムカーナコースとなっている。
一番緩いコーナーが48R、キツいコーナーが1.5R、コース幅は9~21mである。
なお、中央の島には鳥居のマークがあるので、何かが祀られていたのではないかと思われる。

詳細なコース図(オートテクニックより)

コース写真(オートテクニックより)

貴重な当時のサーキット映像がYouTubeにアップロードされていたので紹介したい。


途中から南側に遊園地ができ、「レークビワハイランド」という遊園地としてオープンしていたようである。
パドックスペースも一部遊具に潰されたようだ。

1975年の航空写真より 南側に遊園地が出来た

主にジムカーナ競技が行われているが、その他、ゴーカート、そしてストックカーレースも外周コースで開催された。
特筆すべき点としては、日本で初めてスリックタイヤが導入されたのがこのレークビワハイランドで行われたストックカーレースであった。
ただし、レースはかなりの大雨に見舞われ、レースが途中で中断、終了されるという程だったので、実際レースにスリックタイヤは投入されていないと思われる。
http://www.jaf.or.jp/CGI/msports/results/n-race/detail-result.cgi?race_id=1711


サーキットとして、いつまで存在していたかは定かではないが、ゴーカート場としては使われていた様子である。
しかし、1982年の航空写真では既にサーキットの一部がテニスコートによって潰されている様子が見られる。
遊園地のゴーカート場としては最後まで使われていたようだ。

1982年の航空写真 何らかの用途では使われているように見える

その後、別のテーマパークに転用されるなどして、サーキットは駐車場となってしまったという。
現在は、不名誉にも開店休業状態でネット上で有名となってしまったショッピングモール「ピエリ守山」の駐車場となっている。



※カート場「琵琶湖スポーツランド」とは別である

2013年2月19日火曜日

SSPジムカーナ場(神奈川県)


SSP(セントミ・スピード・パラダイス)ジムカーナ場
(※一部にサカイ・スピード・パラダイスとの表記もある)

(オートスポーツ 1970年2月号より)

外周230m
幅員:最大 6.5m
        最小 5.5m















東京近郊にジムカーナ場出現!! 
船橋サーキットが閉鎖されて以来、東京近郊には適当なコースがなかったが、このほど千富美観光㈱が、神奈川県川崎市鉄(くろがね)町にジムカーナ場(名称SSP)の建設を進めている。国道246号線から少しわきにはいったところで、二子玉川より車で15分、コースはリトルFISCOのようで、全長330mだから規模は大きくないが、将来拡張も考えられるということだ。オープンは10月中旬の予定。ここがオープンされれば、関西びわ湖スピードランドと並んで、関東のジムカーナのメッカになるだろう。 
(オートテクニック 創刊号より)
(1970年の航空写真より)

1970年12月14日にオープンしたジムカーナ場がこのSSPジムカーナ場である。
神奈川県横浜市緑区の田園の中を入った場所にあったこのコースの規模かなり小さく、用途通りジムカーナ以外には使えないような小さなサーキットであった。
それでも、当時としては都心に近くリーズナブルで騒音問題にも影響されないコースとして、関東のジムカーナ同好者にはかなり重宝されていたようだ。

外周の大きな円を描く30Rコーナーは14度のカントが付けられており、小さな円とそれを突っ切る十字、S字が組み合わされている。

千富美観光(株)が所有しており、代表の酒井氏がジムカーナによる自動車運転技術の向上をかかげ、酒井氏の弟とともに田んぼを潰して整地作業に励んだという。
その後、聞きつけたジムカーナフリークが共に整地作業に参加し、コース基礎、舗装、パドック以外はすべて自分でこしらえたという。

少なくとも2-3年は関東のジムカーナの拠点の一つとして毎月盛んにイベントが開催されていた。
しかし、1974年頃に地域の開発に巻き込まれ取り壊されてしまったようで、住宅地となり跡形も無い。
現在は横浜市青葉区すすき野という地名になっている。



※大体の位置

大きな地図で見る

2013年2月12日火曜日

岐阜県可児市オートスポーツセンターのサーキット(岐阜県)


2013/2/12 記事公開
2024/2/9 追記  

 

中京圏に新サーキットが誕生か 
岐阜県の美濃加茂市近くに、いま新サーキット建設の話が具体化している。
これは筑波サーキットのオーナーである(財)オートスポーツセンター(椎名三郎理事長)が、岐阜県可児郡可児町の瀬田地区に計画したもので、現在地元の可児町と話し合いを進めているところ。
関係者の話を総合すると、これは関東に筑波サーキットを建設したのと同じ目的で関西・中京地区の人口を対象にサーキットをつくろうというもの。
その目的とは、公益法人である日本オートスポーツセンターの設立趣旨に沿ったもので、①わが国にはモータースポーツの適切な施設が完備していないため、外国ほどの隆盛をみていない。そこで、公共的施設を設置することによって、国内モータースポーツの普及を図る。②レーシング・マシンなどの性能向上を図ることによって国民の心身の健全な発達と、自動車および関連産業の振興に寄与する―――ということがその主の理由。
すでに10万坪(33万㎡)の用地を手に入れ、今年度から約4億円の予算で第一期工事にとりかかる。完成するのは48~49年度になる予定で、建設費用は15億円の巨額なものになるという。
サーキットの概要は、全長2km強、800mほどの直線を含む高速コースで、ヘヤピンは設けられないもよう。
将来はオーバルコースを付加するもくろみもあるようだ。
高速パターンをとり入れたのは、モータースポーツを盛んにするだけでなく、自動車関連技術のレベルアップを図る目的から、直線にアップダウンを設け、登降坂高速試験路とする構想があるからだという。
いずれにしても、過去の国内になかったようなサーキットが誕生することはまちがいあるまい。むろん、レースもひんぱんに行われるだろうから、中京圏のモータースポーツのメッカになることが期待されている。
もっとも、この建設計画にまったくの問題がない―――というわけではない。
というのは、地元民の一部に騒音や交通公害などを心配する声が出ているからだ。
これにともない、瀬田地区では代表を鈴鹿サーキットに派遣して実情を調べたが、その結果は"条件付きの受入れ"に傾いているという。
その条件とは、交通渋滞や騒音公害の防止と、現在スレちがい不能の取りつけ道路を描幅するぐらいのため、オートスポーツセンター側でも万難を排して取り組むといわれており、関係者は「今度こそ本当にサーキットが出来る」と一様に太鼓判を押している。
(オートスポーツ 1972年2/1号)

財団法人日本オートスポーツセンター(JASC)は一般的には筑波サーキットを運営していると言えば分かりやすい。
1966年に設立されたこの組織は日本のモータースポーツの普及、発展のもとにサーキットを建設した。
1970年の6月、茨城県で筑波サーキットをオープンし、当時としては数少ない首都圏のモータースポーツの中心として使われ続け、現在も人気のサーキットだ。

筑波サーキット開場の2年後、JASCが岐阜県可児(かに)郡(現 可児市)にサーキットを建設する計画を浮上させた。
関東の筑波と同様に関西・中部地区にもサーキットを作ろうという趣旨であった。
サーキットの計画の中では、2kmと筑波サーキットとほぼ同等の大きさではあるものの、筑波サーキットのテクニカルなキャラクターとは別に、オーバルも含む高速コースにする計画だったそうだ。
スポーツ用途だけでなく、試験路としてのテスト用途としても使えるようにする事が記事からも伺える。

この後計画は更に進み、関西の東急グループの不動産会社、東急土地開発と組み、自動車サーキットだけでなく周辺に遊園地やスポーツ施設などを備えたレジャー施設として開発する計画になった。
しかし、用地の保安林の指定解除の手続きに手こずり、さらに県や近隣住民からの騒音問題の反対によりこのサーキット計画は頓挫したという。

現在この瀬田周辺には大きな公園が建設されているが、ここが建設予定地だったのではと推測。

-参考文献-
オートスポーツ 1972年2月1日号
レジャー観光資料 1972年10月号
軍団総帥田中角栄の反攻 : ロッキード裁判傍聴記3 / 著:立花隆


大きな地図で見る

2013年2月10日日曜日

猿ヶ京サーキット(群馬県)


猿ヶ京サーキット

猿ヶ京サーキット8月オープン
国道17号線猿が京にジムカーナ、カート併用コースがオープンする。
全長約1km、幅6~8mの舗装路、群馬県の三国山の東京より、赤田湖を眼前とする場所にあり、四季を通じて使用できるサーキットである。
この地方のモータースポーツファンは多いところから猿ヶ京レジャーランドに新たに開設されるものである。なお、当サーキットでは会員システムをとり、モータースポーツに力を入れていく方針で、ライセンス取得講習会、公認レースへの参加など企画している。オープンは8月上旬の予定で、仕上げを急いでいる。
群馬県利根郡新治村吹路新三田大橋下
(オートテクニック 1970年8月号より)
(※赤田湖→赤谷湖?)

建設されず?
住所と場所から、恐らくここら辺が建設予定地と推測。
(国土地理院 1971年の航空写真より)



大きな地図で見る

2013年2月9日土曜日

日本平スピードウェイ(静岡)

2013/2/9 記事公開
2013/2/13 追記  

2024/2/16 追記/修正  

日本平スピードウェイ

距離:オーバル/850m or 870m
        オーバル+インフィールド/約1300m
コース幅:オーバル/18m
             インフィールド8~12m
バンク角:8~12°


日本平スピードウェイは1971年ごろに静岡県静岡市に建設が予定されていたオーバルコースである。
当初は日本平サーキットとして、計画されていた。

(1971年 国土地理院の航空写真より)

日本平サーキットが建設中
 静岡県の日本平に、現在、サーキットが建設されている。サーキット名は"日本平サーキット"といい、久能山のとなりの山の上なので、静岡市街、駿河湾などが一望のもとに見下ろせる風光のすばらしいところ。
 コースの1周は1600mで、外周だけだと約800mのおむすび型。幅はピット前の直線部が12mで、あとは8m。もっとも、直線部がピット、パドックと一体になった平面舗装になるため、ここでジムカーナもおこなえる。オーナーがある建設会社なので、3月末までに完成させ、4月初旬のオープンを目指している。当面は、ミニカー、F-J、カートなどのレースのほか、ジムカーナなどを開催していく予定だが、東名高速道路の静岡インターから10分という至近距離にあり、今後の発展が見込まれている。
(オートスポーツ 1971年3月号)


 当初から、オーバル風の外周コースも計画されていたようだが、後述するNAC代表の塩澤氏の手によって、本格的なアメリカン・オーバルコースとして計画が変更された。

全面バンクつきの"ミニ・デイトナ"日本平スピードウェイ 
先月号のスポーツ短信欄で"日本平サーキット"とおつたえしたが、その後、コース内容が全面バンクつきのアメリカン・タイプに変更されたため、名称も"スピードウェイ"とあらたまった。これにより、完成時期もいくぶんずれ、4月初句のオープン予定が4月18日に順延された。
 コースの外周は、デイトナ・タイプのおむすび型で、1周は850m。ここには80から12oのカ
ントがついており、まったく新しいタイプのストックカー・レースなどが期待されている。インフィールドは、フラットなヨーロッパ・タイプのテクニカル・コース。こちらまでを含めると1.3kmのコースになる。コース幅は、外周部が15mで、インフィールド部が10m。
 なお、カント部の外側には3m、内側には10mの待避ゾーンが設けられ、3mの、ノーンの外側にはコンクリ-トのウォール(外壁)がつくられるところなどもデイトナにそっくり。段のついたメインスタンドはその外側にコースをかこむようなかっこうでつくられるわけだから、まさにスリバチ型になる感じだ。スタンドの収容人数は1万2000人が予定され、駐車場も1700台まで駐車可能。
 4月18日のオープニングにはストックカーのトロフィーダッシュ・レース(日本オートクラブ)とカート・レース(静岡カータース)が予定されているが、5月1日-2日には呼びもののストックカー日本平300マイル(日本オートクラブ)が開催される。もちろん1日が予選で2日が決勝となるが、これにはミニ・セダン・レースも組まれている。
 場所は東名高速道路・静岡インターチェンジの出口から左-左と曲がっていった山の上で、山ののぼりくだりは2本の道路による一方通行路にすることが考えられている。
(※ただし、インフィールド・コースはまだ設計変更される可能性が大きい。また、天候によってはオープンが延期されることもありうる) 


■日本平スピードウェイ
 静岡県日本平の隣に新レース用トラック、日本平スピードウェイが建設されている。このスピードウェイは、わが国では初のオーバルな形状を成すもので、各コーナーには最高12°のカントがつけられている。コース距離はインフィールドを含めて1.3kmとなり、コースの幅員は外周が18mで、インフィールドが8~12mである。観客収容人数は1万2000人で、ピット数は22。
 このスピードウェイのオーナーは、地元の山本開発工業で、4月18日にオープニング・カートレースを行なう予定であり、当面はライセンス講習会、カートレースなどを開催するとのことである。
 なお、ストックカー・レースの主催クラブとして有名なNAC(日本オートクラブ)が5月2日にこの新設スピードウェイでストックカー・レース シリーズ第2戦、ストックカー日本平300を開催する。最初、シリーズ第2戦は全日本選手権シリーズ第4戦と同時に北海道スピードウェイで行なう予定であったが、急遽日本平スピードウェイに変更になった。日本平スピードウェイの12°バンクつきオーバルコースとストックカーのコンビネーションは、きっと本格的なレース内容を展開するに違いない。
(カーグラフィック 1971年 5月号)

オートスポーツ 1971 4月号より
当初からインフィールドのロードコースも作られる事になっていたが、最終的にはこの形になったようだ。

(こんな感じ?)

ストックカーレースはアメリカだけのレースではなかった。60年代~70年代前半にかけて、日本にもストックカーレースが存在した。
そのストックカーレースのシリーズをオーガナイズしていたのが日本オートクラブ(NAC)である。
サーキットが鈴鹿しか存在しなかった最初期は関東のオートレース場で開催されていたが、日本にサーキットが出来るに従い、全国各地様々な場所で開かれた。
しかし、ストックカーレースというアメリカの形式に習い、例えば富士スピードウェイは右回りではなく、左回りのショートコース(30度バンク無し)を使用したり、筑波サーキットも当時存在していた左回り1.3kmショートコース(バックストレート途中から、現バイク用シケイン辺りに繋げる)を使用していた。


その塩澤氏はアメリカ式のレースを日本に導入しようと日本のモータースポーツ初期から活動していた。
富士スピードウェイの最初期に計画されていたオーバルコースや、現在の日本サイクルスポーツセンター近辺に建設が予定されていた"伊豆スピードウェイ"など、様々なオーバルコース計画に関わっている。

塩澤氏の著書"日本モーターレース 創造の軌跡"(ネコ・パブリッシング)にもこの日本平についての記述があるので、いくつか抜粋したい。

9月に入ると待望の私のホームスタジアムが出来る可能性が高くなりました。静岡の日本平の岡のすそに1万5千人収容のグランドスタンドのついた一周870mのオーバルトラックの建設工事が始まりました。
日本平スピードウェイです。レーストラックのデザインをオーナーの山本昭氏が私に一任して下さいました。(日本モーターレース 創造の軌跡より) 

本の内容によると、このサーキット建設は70年の9月頃から始まったようである。
コースのデザインも塩澤氏が担当し、日本最初のオーバルコースとして、産声を上げようとしていた。

が、サーキット周辺にあった静岡大学の寮から騒音等の反対運動が始まり、次第に反対の声が大きくなっていった。
結果、アスファルトを舗装するだけという完成一歩手前でサーキット計画が白紙に戻ってしまったのだ。

オートスポーツ 1971年4月号より

ストッカー日本平300中止
静岡県下に建設中だった日本平スピードウェイは一部地元民の反対運動等の諸事情により一時造成工事を延期することになり、5月2日オープニング記念として開催がよていされていたNAC(日本オートクラブ)主催、ストッカー300キロレースは時期的に開催不能となり、中止となった。
 本レースは5月3日北海道スピードウェイで開催予定のものを急遽、日本平スピードウェイオープニングに合わせて静岡開催に変更、そしてこの中止ということで、関係者に多大のショックを与えている。
 日本平スピードウェイはアメリカで絶大な人気を集める全米ストッカーレースシリーズのレーストラックを模した本格的なオーバルコースとして注目されていたもので、既にグランドスタンド、バンク走路の造成も完了し、2週間を要する舗装工事を残すのみであった。
(オートテクニック 1971年5月号)

 然し舗装用の大型機械のアスファルト フィニッシャーを入れた頃、1000mも離れていた静岡大学の寮の人達が、反対運動を始めたのです。やがて連日、その反対運動を新聞が記事にしました。その結果、市役所が指導に入り計画を諦めることになったのです。その後その場所は9ホールのゴルフ場に転用され現在に到っているのです。
(日本モーターレース 創造の軌跡より)

当時の地元紙記事によると、元々サーキット建設を予定していた丘は宅地造成を主として買収したが、風致地区だった為に宅地造成に適さなかった。 だが、丘の土質がよかったために土砂採集場となった。この際、県が採土の許可を出すにおいて、土砂採集の後は植樹をし、土砂流出などの災害の防止のための工事を実施することという2つの条件が出ていた。
この後、自治体からの要請で防災工事の他に交通公園を作るという事で話が通っていたが、実際は交通公園ではなくサーキットを建設していたという事が雑誌記事で発覚し、県の風致地区条例違反だとして地域住民から県・市・建設業者への抗議運動が起きた。
また地方選挙の政治的駆け引きとして使われたという説も流れている。

コースの廃止後は一度オフロードイベントに使われたようではあるが、詳細は不明。
以上のほか、ことしはSPAC(駿河プレイ・オートクラブ)が静岡市にあるもと日本平スピードウェイの建設予定地近辺でオフロード・トライアルをやるという。
こちらの路面は赤土。
(オートスポーツ 1972年2/1号)
その後は「大谷ゴルフ場」というゴルフ場として利用されている。
現在も現地に行くとうっすらとオーバル跡のようなものが見えるという噂がある。


確認出来る範囲では、74~75年には既にゴルフ場になっている。
(1975年 国土地理院の航空写真より)

-参考文献-
オートスポーツ 
1971年3月号/4月号
1972年2月1日号
オートテクニック
1971年5月号
カーグラフィック 
1971年5月号
静岡年鑑 昭和46年
静岡新聞 1971年3月19日
日本モーターレース創造の軌跡



大きな地図で見る


2013年1月24日木曜日

東原セーフティ・サーキット・イン・カナザワ (石川)


金沢市に3.5kmのサーキット
現在、金沢市東原町で測量を開始しているこのサーキットは"東原セーフティ・サーキット・イン・カナザワ"という名称をもつ。
国鉄金沢駅から国道305号線で17km。いままでのサーキットのように人里離れた不便な場所ではなく、市街地が至近距離にある点で画期的なもの。
筑波サーキット以上に屈折の多いテクニカルコースで全長3.5km(ショートコース1.8km)。
名称が示すように9m~30mのコース幅に沿ったグリーンは5m~40mと広く安全性が高い。
パドックは1700平方メートルでスズカ並み。収容人数はグランドスタンド2000人で、その他は周囲のどこからでも観戦が出来るように原っぱが広がっている。
イギリスのブランズハッチと似たようなレース風景になる。
完成は来年5月の予定。レースはアマチュア中心に考えてオーガナイズしていく方針で、準国内以下のレースが多くなるようだ。また冬期のシーズンオフには、スノーモビル・レースを行う予定である。
(オートスポーツ 1972年 10月15日号より)

予定地であると思われる場所は現在「金沢モトランド」 というモトクロスコースになっている。

原っぱで丘になってる所から観戦出来るサーキットは素敵ですね。


大きな地図で見る

日本海間瀬サーキット (新潟) -未完

日本海間瀬サーキット


大きな地図で見る


日本海間瀬サーキットの歴史は、1967年8月から始まる。
新潟県オート・クラブ(ACNP)というクラブの代表が建設したこのサーキットは、当初はジープなどが走行するダートコースだったという。
国土地理院の航空写真では、1967年9月に撮影された完成したてのコースを見ることが出来る。
この頃は高低差が30m、コーナーの数は22あったという。

1967年9月の航空写真


日本海に面した間瀬サーキットは盆地であるゆえに、集中豪雨などでしばしばコースが水没してしまうという事があった。
その後、1968年6月には片側半分を簡単な舗装にし、株式会社日本海間瀬サーキットを立ち上げた。
そして、1970年5月からサーキット用の特殊アスファルトの舗装工事を始め、ロードコースに生まれ変わった。
ここで、注意したいのは当初は左回りのサーキットだったという。
70年代の航空写真

1971年のオートテクニックには当時の日本海間瀬サーキットの走り方を解説した詳細な記事が掲載されている。
当時のコースデータ



74年と75年には当時大人気だった富士グランチャンピオンレースの車両を持込み、レースをしている。
富士GCのそうそうたるメンバーがこの狭いサーキットを駆けまわったのは新潟の人々にはかなりの衝撃を残したのではないだろうか。
今で言うとSGTの車両が来た感じかもしれない。
75年のレースでは、マーチ73Sを駆る長谷見昌弘が予選で58.9秒のタイムをたたき出し、そのままポールトゥウィンを飾っている。
http://www.jaf.or.jp/CGI/msports/results/n-race/detail-result.cgi?race_id=3131



2013年1月21日月曜日

道川サーキット (秋田)

道川サーキット
距離:約700m
コース幅最大:12m
コース幅最小:6m

バーダルハイスピードジムカーナ東北シリーズ 秋田県岩城町道川サーキットで行われた4月25日のオープニングレースは大々的に催され、1000人以上の観客が集まりました。地元の全面的な協力で、レストハウス、宿泊設備もととのっています。今後一層盛んになる可能性大です。 
(オートテクニック 1971年 7月号)






大きな地図で見る

2013年1月20日日曜日

むつ湾・インターナショナル・スピードウェイ (青森県)

2013/1/20記事公開
2021/10/22 追記 

むつ湾・インターナショナル・スピードウェイ

所在地:青森県上北郡野辺地(のへじ)町
距離: 4.5km/4.8km(いくつか表記がある) 実測約3.8km  / ショートコース 約3km
ホームストレート:1600m
コース幅:20m
コーナー数:4(公称値)
4輪 左回り / 2輪 右回り 

(国土地理院 70年代の航空写真より)


青森県の上北郡野辺地町に存在したサーキット。
サーキットレイアウトは1.6kmのホームストレートを有しており、コーナーのRも比較的大きく超高速レイアウトである。
しかし、コース脇がすぐ海な為、砂や海水がコースに入り込み、水没することもあった。

オープニングレースとなった1972年ストックカーレースの際は、突貫工事の末に行われたためコース上もコンクリートウォールの代わりに土のうが積まれたり、路面のアスファルトが1層で下地の砂利が出てきたり、当時の写真を見ても建設途中のような様子が見受けられる。

オープニングレース
1972年 第1回むつ湾国際級ストックカー300kmレース大会


実際、開催当初の72年7月の時点では未完成だったようで、JAF公認はオープン後から少々遅れた模様。
その際にコースレイアウトについて"出来ればもっとテクニカルなものにするように"という指導がJAFから入ったということもあったようだ。
1973年のむつ湾グランド200マイルレースでは、もう1層アスファルトが追加されたようだがそれでも路面の凹凸はひどかったという。

(コース図、ただし実際のコースの形と異なる オートテクニック 1972年8月号)

(コース案の一つ? AS 1972/6/15)



現在の国土地理院の地図サイトで距離を測ると、メインのコースは約3.8km程度だったと推定される。
海沿いの1.6km(※)のホームストレートを抜けると、1コーナーは左125R、5度のバンクの上りのコーナー。
2コーナーは公称400Rとされているが、それ以下の2つのRのコーナーが組み合わされていると言われている。
3コーナーは右の400R、コース中間がくびれのような形になっている。
最終コーナーである4コーナーは入り口で右に少しターンしたあと、125R(公称)・バンク15度の左コーナー。外側はJR大湊線の線路と面している。
4コーナー出口付近は狭くなり20Rの下りコーナーである。
3コーナー辺り、最終コーナーから約500mの辺りにショートカットコースも作られる予定だったが、オープニングレースの時点では作られていなかった。 最終的に作られたかどうかも不明。
(※一部ホームストレート1.8kmという記述もあるが1.6kmが正しいと思われる)

(コース写真 オートテクニック 1972年8月号)
 

サーキットのオーナーは農事組合で元々「むつ湾観光牧場」という牧場を経営しており、その中には遊園地、動物園などがあったが隣接した土地にサーキットを建設するという流れになった。
コース設計は立原義次氏。
当時東北にサーキットが無く貴重な存在であった他、更に北海道スピードウェイが閉鎖された事もあり、北海道のドライバーが海を渡って本州のむつ湾に遠征しにくる事も多かったようだ。

(むつ湾グランド200マイルレースの様子  オートテクニック 1973年10月号)

超高速レイアウトであったが、二輪のオートバイレースも開催されている。
1972年の「第1回むつ湾オートバイグランプリ」はロードレース日本選手権の1戦として行われている。
オートバイレースでは右周りで使用された。 順走左回りの最終コーナー出口付近は下り坂になっているため、逆走にすると上り坂になって減速しやすいというのが理由だったようだ。
四輪のGCレースでも右回りやホームストレート上のシケインなどが検討されたようだが、本来の左回りのまま変更なしで行った模様。

1973年むつ湾グランド200マイルレースの様子

1973年のレースは8月で終わってしまったという。というのも9月は雨が多く、更に海岸沿いのためコースが使用不能になることが多かったようだ。
このような地理的な不利に加えオイルショックも相まって1973年で閉鎖されてしまったようだ。
現在コースの跡のようなものがうっすら残っている他、グランドスタンドの廃墟が残っている。

むつ湾・インターナショナル・カートウェイ

(国土地理院 70年代の航空写真より)
(以下オートテクニック 1972年11月号)


むつ湾スピードウェイに併設されたカートコース。
スピードウェイが閉鎖された後も使用されていたが、動物園閉鎖と共に閉鎖された模様。

オープニングレースは
「むつ湾スピードウェイ開場記念ねぶたまつり '72日本カートプリ大会」(1972/8/5-6)が青森県、青森ねぶたまつり協賛で開催されたという。
これがJAFが開催する日本初の"カートプリ"である。
1972年(昭和47)には国際交流の一環として'72日本カートプリが開催され、1973年(昭和48)には全日本カート競技選手権が開始されています。
http://www.jaf.or.jp/msports/intro/his_j.htm 







(カートプリ リザルト)



大きな地図で見る


-関連文献-
オートスポーツ 
1972 6月15日/10月15日
1973 9月1日/10月15日
オートテクニック 
1972 6月号/7月号/8月号/9月号/11月号 
1973 10月号
1974 3月号/4月号
日本の名レース100選 '72 むつ湾ストックカー
日本モーターレース創造の軌跡


-関連リンク-
二輪文化を伝える会  - むつ湾インターナショナルスピードウェイ
ヤマハニュース 1972年10月号 / 第1回むつ湾オートバイグランプリ