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2021年10月19日火曜日

最初期の日本カートレース

カート(Kart)が発明されたのは1956年8月。
アート・インゲルス(Art Ingels)・ルー・ボレッリ(Lou Borelli)によってアメリカのロサンゼルスで製作された。
インディカーなどのレーシングカービルダーだったアート・インゲルスは後に「カートの父」とも呼ばれている。
その小さなレーシングカーはカリフォルニアのレースですぐにお披露目され、そこから急速に広がっていった。

日本にカートが導入されたのは誕生から意外にも早く3年後の1959年で駐留米軍人が日本に持ってきた。
埼玉県朝霞市にあったキャンプ・ドレイクでカートレースで開催されたのが最初のカートレースだという記述がある。
ちなみにアメリカからヨーロッパにカートが導入されたのもほぼ同時期らしい。
最初は米軍人が中心となってカートレースを楽しんでおり、基本的に各基地内の敷地を使って走行を楽しんだりカート大会を開催したりしていたようだ。
1960年には"関東カーターズ カートクラブ"という関東圏の駐留米軍人や公務員などのカート同好者によるクラブが結成された。

調布飛行場に作られたカートコースの図(モーターファン 1960年6月号)

1960年 関東カーターズによるキャンプ座間でのカートレース
(Pacific Stars And Stripes / 1960-9-13)


同じく1960年には日本人によるカートクラブ"東京カーターズ"が結成。
これらのクラブは"Kart Club of America"を参考にした"日本カートクラブ" (Kart Club of Japan:KCJ)というカートの統括組織を作った。
当時カート国際統括団体としてアメリカで最初に結成されたIKF(International Kart Federation)のレギュレーションに準拠して日本でのカートレースを運営していたという。
他にも在日米国人カートクラブが数団体が存在していた模様。

これらのクラブが定期的にカート場として使われていた場所が朝霞市のキャンプ・ドレイクにあった。
場所はモモテビレッジのモモテ兵器保管庫という場所にあった"朝霞カートウェイ"と呼ばれているカートコース。1961年の9月に作られたという。

朝霞でのカート走行風景
(CARマガジン 1964年10月号)


朝霞カートウェイ (1961年~1969年の航空写真より)



全日本カート大会

1962年5月28日には「第1回全日本カート選手権大会」が開かれている。
場所は神奈川県川崎市の多摩川河川敷にあった東急自動車学校の教習所で、ここはもともと多摩川スピードウェイの跡地である。
多摩川のサーキットが廃止された後は多摩川スピードウェイのオーバル跡地周辺を使って教習所コースが作られていた時期がある。

東急自動車学校(多摩川スピードウェイ跡)
(1963年  国土地理院)

第1回全日本カート選手権大会の様子 
多摩川スピードウェイのスタンド跡が見える
第1回全日本カート選手権大会の様子
(モーターファン 1962年8月号)

このレースについての記録は少ないが、日本で行われた大々的なカート大会としては初めてだと思われる。
参加台数は46台で、半数が駐留している米軍人だったという記述がある。
最終レースは雨のため場所を変えてレースを行ったらしい(場所は不明)。

第1回全日本カート選手権大会 優勝者
クラス1 / クラス2:エラート軍曹
クラス3:バックランド軍曹
クラス4 / ブッシング:植松善雄
女性レース:モートン夫人
ジュニア:ロニー・モートン

2回目の大会は1963年5月12日に富士急ハイランドの前身である富士五湖国際スケートセンターに作られた"富士急行ハイランド・カートトラック"で開催された。
このサーキットはIKFの国際規格に沿って作られた日本最初のカート場とされる。

富士五湖国際スケートセンター(カート場はまだ建設されていない)
(1962年 国土地理院)

富士急行ハイランド・カートトラック
(モーターファン 1963年7月号)

富士急行ハイランド・カートトラック コース図 (同上)

富士急ハイランドのコースはIKFの国際規格に沿っており、"3分の1マイル(約530m)のコースに、60度以上のカーブを9ヵ所以上設け、ストレートは100m内外に押えて最低の安全性を保証するよう義務づけられている"と当時のコース紹介文にある。

第2回全日本カート選手権大会 優勝者
クラス1:ドナルト・エラート / 関東カータス (注:第1回優勝のエラート軍曹か)
クラス2:中村たけ彦 / 新宮商行ク
クラス3:リチャード・ショル / 関東カート
クラス4:マイケル・ルビン / 関東カート
クラス5:藤間吉弘 / 日本カート
ジュニア:藤井憲 / 日本カート
女性:栗田弘子 / 日本カート
第2回日本チャンピオン 中村たけ彦

第2回大会の参加台数は60台で、やはり半数の30台は駐留米軍軍人。
IKFの公認を受けたカート場での大会のため、IKFの公認レースにもなった。
この大会でチャンピオンになった中村選手は同年8月に行われたアメリカ・イリノイ州の世界選手権に日本代表として招待されたそうだが参戦したかは不明。

第2回大会に参戦したカート車両 (モーターファン 1963年7月号)


国際規格になる前のコース?(CARマガジン 1962年2月号)



この後"全日本カート選手権"が何度開催されたかは今の所わからないので、新しい事が分かり次第更新していきたい。

全日本選手権と銘打たれているのに記録が少ないのは、カートレースがJAF管轄になる以前の大会だからである。
カートの統括組織がJAFに移管されたのは1972年の事で、それ以前はアメリカで作られた初のカートの国際統括組織であるIKFの規定に沿った日本カートクラブ(Kart Club of Japan)が日本のカートレースを統括していた。
時が経ち1972年にはむつ湾スピードウェイのカート場で"日本カートプリ"が開かれ、1973年にJAFによるカートの全日本選手権が開かれている。
現在主流になっている統括団体のCIKは1962年に結成されている(2000年からFIA加盟団体になる)

当時日本カートクラブの会報誌があったそうなので、会報誌が今も現存していれば当時の光景がもう少し分かるかもしれない。

-関連文献-
・モーターファン
1960年6月号 
1962年8月号
1963年4月号 / 7月号
・CARマガジン
1963年2月号
・自動車ジュニア
1964年4月号
・Pacific Stars And Stripes
1960年6月24日 / 9月13日
1961年12月30日
1962年1月18日 / 4月12日
1963年1月27日
・国土地理院

-関連リンク-
スケートリンク資料室

2020年1月26日日曜日

50年代初頭の日本のモータースポーツと1952年の茂原国際ロードレース

1945年、第二次大戦の終戦後、日本は連合国軍による占領下におかれ軍人が来日した。
その中で、自動車好きの進駐軍将校が主体となって自動車のクラブ団体が設立され、様々なレースをクラブで開催していた。

日本で戦後初の自動車レースは1951年5月13日に船橋競馬場で行われた「日米対抗レース」と呼ばれるレースだった。
約50台のオートバイと25台の自動車で2輪、4輪あわせて7レースが行われたと言われる。

(日米対抗レースの様子/千葉新聞 昭和26年5月14日)

このレースは日本赤十字社の戦争孤児のためのチャリティレースという側面もあったようだ。
レースには約7万人の観客が集まり、有料・無料の観客が半分半分という事だったらしい。
※3万人という記述もある
(日米対抗レースの様子/モーターファン 1951年12月号)

日本スポーツカークラブ(Sports Car Club of Japan、SCCJ)は日米対抗レースの主催だったMGカークラブ(MGCC)から派生して誕生した団体だという。
SCCJは主にアメリカ、イギリス、オーストラリア、中国など外国人の他、少数の日本人による約70人の会員で構成されていた。

1951年9月28~30日にはSCCJによる東京・京都間の往復ロードレースが開催された。
当時のレース記事には"日本における自動車レースに対する正しい認識と理解を助長するため" というレース開催の名目が書かれている。
日本版ミッレミリアのようなクローズドでない公道を一気に走り抜けるレースと考えていいだろう。
(東京での様子 / モーターファン 1951年11月号)

レース概要としては、9月28日午後8時、東京・日本橋の橋の上からスタートし、大森まで一列で進んだ後に大森でレースがスタート。
ノンストップで公道を駆け抜け、翌日早朝に540km先の京都市役所前のゴールを目指す。
どちらかといえばスピードレースよりも長時間の耐久を目的としたものだった。
行程の半分は舗装、半分が未舗装路だったという。
到着地の京都市役所では東京都知事からのメッセージを京都市長に渡すという事も行われた。
コース沿道では警官がオフィシャルとして手伝っていたそうだ。
復路は29日の午後5時に京都を出発、夜中に東京にたどり着くスケジュールだった。
(京都での様子 /モーターファン 1951年12月号)

往路のレースはMG-TGに乗ったホワイティ・ホワイトステイン/スティーブ・スチアン組が8時間43分で優勝している。
2位に同じくMG-TGに乗るベルト、3位にシトロエンに乗るアーベルス/太田組。※太田祐一氏か
主にMGが多かったようだが、他にもジャガー、ライレー、モーリス等が走行した。
タイヤトラブルやオイルに関してのトラブルが多かったようで、何台か田んぼに飛び込んだという事もあったらしいのだが、どの車もなんとか完走した模様。

東京・京都ロードレースが行われた頃の記事では、1951年11月4日に東京の明治神宮外苑で"グラン・プリックス・スタイル"によるレースを開催するという計画が書かれている。
50周約1時間半の決勝レースが行われる予定で計画されていたようだが、このレースについては何らかの理由で頓挫したものと見られる。

その代案という事なのかはわからないが、千葉県でロードレースが開催された。
「茂原国際ロードレース」というレースで、1952年1月27日に行われた。「69哩ロードレース」とも呼ばれている。
場所は茂原飛行場と呼ばれている滑走路で1941年に作られた。
戦時中は"茂原海軍航空基地"と呼ばれていたこの飛行場は終戦後廃止され、1952年当時ではすでに投棄されたものとなっていた。
※「茂原国際ロードレース」の前年1951年12月にも3時間耐久レースが行われていたようだが詳細は不明。
(1952年の旧茂原飛行場/国土地理院)

SCCJと千葉県庁、千葉新聞社による主催で、当時の地方紙である千葉新聞では紙面にて大々的に「国際ロードレース」の告知記事を掲載している。
※千葉新聞は1956年12月に廃刊
この年の4月には滑走路のある茂原町や東郷村、その他数町村が合併し茂原市となって市政が施行される事になっていたので、町・村総出でレースという大イベントを盛り上げようとする動きがあった。
地元の衆議院議員が優勝カップを寄贈したり、地元の開拓組合がでんぷん粕の乾燥の為に使用していた滑走路を総出で整備したり、茂原町の駅前でも選手や来場者への歓迎ムードを盛り上げる装飾などが行われたという。

レース入場の為には茂原町役場や東郷村役場、その他近辺で購入する事ができる協賛バッジ10円が必要であり、来場者3万人を見込んでバッジが作られたが予想に反して売れたらしく、バッジ増産に追われ最終的には3倍以上の10万とか13万人と言われる観客数が来場したと言われている。
※現在の物価で50円ぐらいらしい
茂原町も近隣の交通機関と協力して臨時列車やバスを増発したが、国鉄茂原駅ではあまりの客の多さに臨時列車に乗り切れない乗客も居たという話がある。

1950年に小型自動車競争法が施行され、公営競技としてのオートレースが始まり、千葉県にも初めてのオートレース場である船橋オートが船橋競馬場内にオープンしていた。
当時の日本では自動車による競争となるとオートレースがポピュラーであった為に、当時の千葉新聞による記事にも
スポーツカーによるレースは営利を目的としたものでなくただアマチュア精神に基いた各種の行事を楽しむのであり、したがって如何なる行事にも金銭的なものは贈呈されることなく、如何なる形式の賭事も許されない
(千葉新聞 昭和27年1月24日)
などと書かれており、観客にオートレースとは性質の違う競技という事を強調しているのが面白い。

レースは滑走路に約2.3マイル(3.7km)のコースを作り、30周合計69マイルの走行距離のタイムを競うレースだった。

(コース図/千葉新聞 昭和27年1月25日)
(推定されるコース)

排気量ごとにクラス分けがされ、Aクラス(無制限)、Bクラス(1000-2000cc)、Cクラス(500-1000cc)と3クラスで混走レースが行われた。
レースは17台が参戦し、ジャガーXK120、MG、モーリス・マイナー、クロスレイの他、国産車ではダットサンが2台参加した。
オオタのミニスター号という200ccのマシンが参加したという記述もある。
(ダットサン/Pacific Stars And Stripes December 17, 1952)

(スタートの様子/千葉新聞 昭和27年1月)

Aクラスはフランク・アントンがジャガーXK120を駆り78分30秒で優勝、20秒遅れてBクラスのスティーブ・スチアン(MG)、85分0秒でCクラスのクロスレイを駆るH.ホールがそれぞれクラス優勝した。
(おそらくアントンのジャガー、観客の多さが伺える /モーターファン1952年3月号 )

当時の新聞のレースレポートを読むと、アントンが排気量の利を生かしレースを独走していたが、後半24-5周ほどで下位クラスのスチアンのMGがコーナーリングで迫ってくるという展開だった。しかし、レース残り2周でスチアンがコーナリングでミス。勝負が決まった。
(優勝したアントン/モーターファン1952年3月号)

レース後の新聞取材でも当時のSCCJ会長であった片山豊氏も予想以上の盛り上がりに驚きと喜びのコメントを残している。

この他、茂原飛行場では前述の3時間耐久レースの他にもいくつかレースが行われたようである。
「茂原国際ロードレース」は翌年1953年1月にも開催の予定があったが開催されたかは不明。

当時SCCJはFIAに公認された四輪モータースポーツ統括団体(Authority Sport Nationale,ASN)を目指していたという。
日本自動車協会(JAA)という団体がFIAに加盟していたが、ASNに関しては存在していなかったようだ。
そこでJAAと協力してSCCJがFIAに公認されたASNとなり、各種リザルトや世界記録などが公認される組織になりたいと共に、自動車と歩行者の交通安全の啓蒙とモータースポーツの啓蒙に努めたいと当時SCCJメンバーが語っている。
先の話になるがJAAは実際には実質的な活動はなく1963年に行われた第1回の日本グランプリはJAAから分裂したJASA(日本自動車スポーツ協会)という団体が主催しているが、その後はJAF(日本自動車連盟)が日本のASNになり現在に至っている。

茂原ロードレースの3ヶ月後、1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が結ばれ、日本国の主権が回復した。
そのため日本に駐留していた連合国軍の軍人も帰国することとなりSCCJメンバーも続々と帰国、1953年頃にSCCJという団体は自然消滅してしまったという事だ。

茂原飛行場の敷地は再開発され、現在は三井化学株式会社の工場となっており、飛行場の跡は失われているが現在でも海軍航空基地時代の戦争遺跡が残っている。


なお、元クラブ会員だった日本人の有志が1955年に同団体を再発足させている。
関連:国内モータースポーツ初のヒルクライムレース/伊豆長岡 (静岡県)

SCCJのレースの他にも、各大学の自動車部が主体となり学生による様々なレースが開催されていた事も注目すべきである。
これらのレースや活動はいずれにせよ公認レースではなかったが、1963年に初開催された日本グランプリを発端とした近代的なモータースポーツに向けた戦後のモータースポーツ史の流れとして重要な出来事だろう。


-関連文献-
・千葉新聞
昭和26年5月14日
昭和27年1月20日/22日/24日/25日/26日/27日/28日/29日
・Pacific Stars And Stripes
April 28, 1951 / December 17, 1952/ 
・モーターファン
1951年11月号/12月号
1952年3月号
・日本の名レース100選 Vol.061
・サーキットの夢と栄光―日本の自動車レース史

-関連リンク-
・SCCJ ヒストリー
http://www.sccj.gr.jp/history.htm
・Motor Sports World / January 4, 1952
※東京・京都ロードレースで優勝したホワイティ・ホワイトステイン氏の日本の自動車レースに関する寄稿文
・Steve L. Suddjian (スティーブ・スチアン氏)
・日本自動車レースの始まりーWWⅡ以後 - Car&レジャーWeb

2019年8月9日金曜日

アメリカ統治下の沖縄で開催された「沖縄グランプリ」

沖縄グランプリ / Okinawa Grand Prix

戦後、1945年から1972年5月まで沖縄県はアメリカ合衆国によって統治されていた。
アメリカ統治下の中、沖縄に駐留していた自動車愛好家の米軍人が主だって沖縄スポーツカークラブ(Okinawa Sports Car Club / OSCC)という団体が1950年代に設立されている。
OSCCではモータースポーツの催事も度々開いており、ラリーやジムカーナ、オートクロスなども行なっていたという。
OSCCのメンバーの中にはフォーミュラジュニアのBrabham BT2を沖縄に持ち込み、マカオグランプリに出場したという記録もある。

そんな中「沖縄グランプリ」と名打たれたロードレースのイベントで何度か開かれた。
1963年に初めて鈴鹿サーキットで四輪の「日本グランプリ」が開催されたので、それよりも早い「グランプリ」と言える。
(ただし、FIAに公認されたレースではないことに注意)

1962年の沖縄グランプリ

1962年、沖縄グランプリと呼ばれるロードレースイベントは読谷飛行場(よみたんと読む)で初めて行なわれた。
5万人を超える観客がレース観戦に訪れたという。(2万5千人という記述もある)
コースは読谷飛行場に作られた2.65マイルのコース。
レース距離は26マイルのレースと、78マイルのレースが行なわれた他、オートバイのレース、ドラッグレースなども行なわれた。

1962年8月18日(土)、予選が行なわれた。
予選ではジャガーEタイプに乗るビル・バクスター選手が平均時速67.82マイルでポールポジションを獲得、オースチンヒーレーに乗るチャールズ・レーバー選手、同じくオースチンに乗るドイル・カトン選手が2位、3位を獲得した。
(おそらく78マイルの予選結果)

翌日19日(日)決勝の予定だったが、台風13号(米国名Sarah)が沖縄を直撃、決勝レースは延期となってしまった。

(読谷飛行場の航空写真 1970年 https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=10318)
延期された決勝の日時は記録が少なくはっきりしないのだが、おそらく8月26日(日)に開催された。
26マイルのレースではジョン・アダムス選手がトライアンフ TR4を駆り優勝した。
78マイルレースでは平均時速62マイルで1時間以上のレースを走りきり、ビル・バクスター選手が優勝した。

オートバイレースの方では、大排気量クラスはジェームズ・シェルトン選手が優勝、小排気量クラスはトシマ・カワグチ選手(表記不明)が勝った。

1971年の沖縄グランプリ

沖縄グランプリ開催要綱 
 日本グランプリも無事終了したところだが、海をへだてた沖縄でもグランプリが開かれる。主催をするのは沖縄スポーツカークラブ(OSCC)で、主に沖縄の基地に勤めるアメリカ人を主体としたクラブである。 
 レースは5月30~31日にカデナ基地の飛行場を特設サーキットとして行なわれ、コースの型状は飛行場という立地条件からほぼ菱形をしたものである。参加するドライバーはアメリカ人ドライバーが大多数をしめており、参加資格はOSCCの発行したライセンスを必要とする。 
 参加台数は60台程度で日本人ドライバーも現地でレンタカー会社を経営する野崎真広氏がスクーデリアニッサンでチューンされた240Zで出場することになっている。 
 車両規定はアメリカのSCCA規定に準じて行なわれ出場車種も米車が大多数を占めており、クラス分けはツーリングレースGTSを主とするグランプリレースである。 
(オートテクニック 1971年6月号)
オートテクニックの記事中では嘉手納基地と紹介されているが、実際には1962年と同じ読谷飛行場でレースが行なわれた。
9年ぶりに沖縄グランプリと銘打たれたレースがOSCCによって開催された。

計62台、車種は大小様々な排気量の車がエントリー。
こちらのレースも1962年と同じく2.65マイルのコースで行なわれた。
15周する決勝レースが予定されていた。
レース当日は2万5千人を超える観客が飛行場に訪れたという。

(1971年の沖縄グランプリ、予選レースの様子 / Pacific Stars And Stripes 1971年6月5日)

予選レースでは沖縄のBellet Racing Teamに属する野崎真広氏がいすゞ自動車のサポートを受け、(おそらく)いすゞベレットで予選レースを優勝した。
また、非公式ではあるがファステストラップも記録したと当時の新聞記事には紹介されている。
予選レースではシボレー・ノヴァに乗る選手が横転クラッシュしたという。

前述の通りかなりの観客がコースに集まった結果、観客が溢れてしまいコース上などを歩行しており、警察も人手不足でコントロールできなくなってしまったため、15周の決勝2レースはキャンセルとなってしまったようだ。
そのため予選レースを優勝した野崎氏が優勝となった。
ただ、レースの合間にも2輪のクラブ団体がドラッグレースなどを行ない観客を盛り上げた。

読谷飛行場は2006年、沖縄に全面返還された。
現在は跡地が開発され飛行場は存在しない。



参考
沖縄グランプリを企画したTed Carter氏のブログ、グランプリに関する事やブラバムBT2についての事が読める
https://www.theamazinglifeandtimesofedwardcarter-uniqueentrepreneur.com/chapter_two_-_1958_-_1962.html
1962年の台風13号 "Sarah"
https://en.wikipedia.org/wiki/1962_Pacific_typhoon_season#Typhoon_Sarah
読谷補助飛行場
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%AD%E8%B0%B7%E8%A3%9C%E5%8A%A9%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E5%A0%B4
Pacific Stars And Stripes - 1962年8月20日 / 1962年8月28日 / 1971年6月5日

2019年7月24日水曜日

マキシムスピードウェイ (沖縄県)

2019/07/24 記事公開
2021/02/18 記事追記

マキシムスピードウェイ
所在地:沖縄県中頭郡読谷村(よみたんそん)楚辺
全長:1.2km

(コース図 オートテクニック 1975年2月号)
沖縄にサーキット誕生、75年3月にオープニングレース
 日本の最南端の沖縄県にレーシングコースが誕生する。名称はマキシムスピードウェイ、場所は沖縄本島の中央部にある読谷(ヨミタン)村辺で1周は1.2km、幅員はストレートが11m、コーナーが9mというもの。30RのヘアピンS字コーナーなど大小9つのコーナーのあるテクニカルコースで、最高スピードは150㎞/hの設計になっているとのこと。左右のグリーン地帯はそれぞれ4mづつあり、将来はコース幅員を広げる計画がある。
 沖縄県の場合、モータースポーツはまだ盛んとはいえないが、主要交通機関は自動車なので18才以上の自動車免許取得率は高いという。現在レーシングチームマキシム(RTMー森田耕司会長)がJAF加盟クラブとして160人の会員をようして活動している。75年3月に予定されているオープニングレースもRTM主催で行なわれることになっている。現在Aライセンスを取得している者は30名ほどとのことで、今後講習会を開催して、有資格者をふやしていくことになっている。同時にレーシング仕様のツーリングカーの中古車などが入ってきているとのこと。75年レースカレンダーには5月、12月にマキシムスピードウェイのレースが登録されているが、現在は臨時トラックで、できるだけ早い期間に公認をとりつける意向だ。 (オートテクニック 1975年1月号 p13)

アメリカ統治下の沖縄では50~60年代、在日米軍人を中心に嘉手納基地などで自動車レースが行なわれていたという。
アメリカ統治下の沖縄で開催された「沖縄グランプリ」

1972年に沖縄県が日本に復帰してから3年後、小規模ながらサーキットが作られた。
建設の主体となったレーシングチームマキシムは沖縄内でラリーなどを開催していたようだが、このサーキットでサーキットレースやジムカーナ競技などを行なったようだ。
1975年には6レースがJAFのカレンダーに登録されていた。

(1975年5/25のマキシムグレーテッドドライバーカーレースの様子 オートテクニック 1975年7月号)

ただし、サーキットはかなり短命だったようで1977年の国土地理院による航空写真を見ると、サーキットの姿が無く跡地ですでに宅地開発が始まっており、サーキットの形がしっかりと確認出来るものはおそらくない。

(推定地 https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=1085798)

なお、JAFのリザルト記録には1976年7月25日に"スポーツランドオキナワ"という開催地で「マキシムツーリングカーレース」というレースが行なわれている記録がある。
実際のところ、このスポーツランドオキナワがマキシムスピードウェイを指しているかは定かではないが、レース名にクラブ団体の名前も入っている事からサーキットが改名されて使用されていたのではないかと思われる。
http://www.jaf.or.jp/CGI/msports/results/race/result.cgi?race_id=1976000177

2016年8月22日月曜日

びわ湖スピードランド / レークビワハイランド (滋賀県)

びわ湖スピードランド / レークビワハイランド
外周コース約700m (750mという表記もある)

元々は始まりは琵琶湖大橋たもとにあったドライブイン、「ビック」の広場を借用してジムカーナ競技を始めたのがきっかけだったようだ。
8月4日OCCKが、琵琶湖大橋のたもとにあるドライブインの広場――ビワ湖スピードランド――を借りて開催したのがきっかけとなって、今後、ここでのハイスピード・ジムカーナが盛んになりそうだ。 (JAFスポーツ 1967年)
当時ドライブイン広場はダートになっており、当時のジムカーナレイアウトが掲載されている。
当時開催されたジムカーナのレイアウト例

広場時代の写真 土煙をあげている事からダートだという事がわかる

そのドライブインを経営していた名神観光㈱がサーキット建設を決定、広場をサーキットとして改築することとなった。
9月末完成を目指し、現在舗装工事中。これが完成すれば、約26,400㎡の競技コース、付帯設備としてガードレール(コース周囲全部)、フェンス、パドックスペース、クラブハウスなどもある一大ジムカーナコースとなる。 (JAFスポーツ 1967年)

1972年の航空写真より

こうして、完成されたびわ湖スピードランドは外周700mのオーバル状コースからインフィールドに様々な浮島が設置されたようなジムカーナコースとなっている。
一番緩いコーナーが48R、キツいコーナーが1.5R、コース幅は9~21mである。
なお、中央の島には鳥居のマークがあるので、何かが祀られていたのではないかと思われる。

詳細なコース図(オートテクニックより)

コース写真(オートテクニックより)

貴重な当時のサーキット映像がYouTubeにアップロードされていたので紹介したい。


途中から南側に遊園地ができ、「レークビワハイランド」という遊園地としてオープンしていたようである。
パドックスペースも一部遊具に潰されたようだ。

1975年の航空写真より 南側に遊園地が出来た

主にジムカーナ競技が行われているが、その他、ゴーカート、そしてストックカーレースも外周コースで開催された。
特筆すべき点としては、日本で初めてスリックタイヤが導入されたのがこのレークビワハイランドで行われたストックカーレースであった。
ただし、レースはかなりの大雨に見舞われ、レースが途中で中断、終了されるという程だったので、実際レースにスリックタイヤは投入されていないと思われる。
http://www.jaf.or.jp/CGI/msports/results/n-race/detail-result.cgi?race_id=1711


サーキットとして、いつまで存在していたかは定かではないが、ゴーカート場としては使われていた様子である。
しかし、1982年の航空写真では既にサーキットの一部がテニスコートによって潰されている様子が見られる。
遊園地のゴーカート場としては最後まで使われていたようだ。

1982年の航空写真 何らかの用途では使われているように見える

その後、別のテーマパークに転用されるなどして、サーキットは駐車場となってしまったという。
現在は、不名誉にも開店休業状態でネット上で有名となってしまったショッピングモール「ピエリ守山」の駐車場となっている。



※カート場「琵琶湖スポーツランド」とは別である

2013年4月10日水曜日

船橋サーキット (千葉)

船橋サーキット

距離:1.8km/2.4km/3.1km 左回り

コース幅:15.75m~9m(スクールコース 60m)

船橋サーキットは当時千葉県船橋市に存在していたレジャーパーク、船橋ヘルスセンター内の施設として存在したサーキットである。

(国土地理院 1966年の航空写真より)

コースのレイアウトは元F1ドライバーで、優勝経験もあるイタリア人のピエロ・タルッフィ。
タルッフィは当時、日通が建設を計画していた伊豆韮山サーキットのアドバイザーとして来日していたが、諸般の理由で頓挫し、その後すぐに船橋に来たようだ。
ファルッフィは他にもドライビングテクニックの講師として来日したり、ドライビングテクニック本が日本で翻訳されたりと日本に馴染みが深い。

(鎖線が3.1km/点線が2.4km/実戦が1.8km)
タルッフィのアドバイス通りに設計されたサーキットは埋立地をフルに使われたコンパクトでテクニカルなレイアウトである。
サーキットは主に外周コースと、インフィールドに設けられた60mもの幅を持つ舗装路のスクール・コースで成り立っている。この2つのセクションを組み合わせて主に3種類のレイアウトを作ることが出来た。

外周コースはホームストレートから多少下りつつ1コーナーを抜け、飛行場沿いにある約550mのストレートを進む。
その後S字カーブを抜け、靴下の様な形をしている事から名付けられたソックスカーブを抜ける。
ヘルスセンター名物の一つでもある「ゴールデン・ビーチ」と呼ばれる人工海岸を横目にダンロップブリッジをくぐり、最終コーナーを抜けて一周となる。 これが1.8kmのレイアウトである。

2.4km/3.1kmのレイアウトを使用する場合は、ダンロップブリッジ前の分岐を左に曲がり、スクールコースをそれぞれ抜けてからホームストレートと互い違いになっているピット前のストレートに進む。
そこから右コーナー、左ヘアピンと進み、元の外周に戻ってくる。
このレイアウトの場合はグランドスタンド前を2度通って1周してくることになる。

スクール・コースではジムカーナ等が開催され、やろうと思えば外周コースとスクール・コースでそれぞれ2つのイベントを開催することも出来た。

(勾配表 殆んど平坦である)
当時は鈴鹿サーキットが1962年に開場し、近代的なサーキットとしては日本2番目に開場した。
ちなみに富士スピードウェイは1966年開場である。

(建設中の船橋サーキット)

1965年の7月1日に船橋サーキットが開場した。
船橋サーキット最初にして最大のレースイベントとなったのが、船橋サーキットのオープニングイベントにもなった全日本自動車クラブ選手権レース大会通称、船橋CCCレースである。
7月17-18日に開かれたこのレースは、当初5月に鈴鹿サーキットで開催予定だった第3回日本グランプリが急遽中止になったために開かれた代替レースだった。
自動車クラブ対抗戦として行われたこのイベントだが、このイベントが船橋サーキットを語る上で欠かせないイベントになっている。
その中でも、浮谷東次郎の駆るトヨタスポーツ800、ロータス・エランでの雨中の激走が今でも語り草になっている。
詳細は船橋CCCレースに関するWebページや「日本のレース100戦」などを参考にして貰いたい。

船橋CCCレースの様子
都内から近い地の利を生かし、レースイベントの他にも自動車クラブの練習場として使われたり、レンタカーでの走行なども人気を博していたという。 ちなみに当時の記録によると、スポーツ走行が1時間1500円、レンタカーは1周180円である。(1965年の参考:ビール120円、たばこ30円)
しかし、開場から3年ほどになる1967年の春頃からサーキットがオートレース場になるという噂が立った。
当初は否定していたものの結局はサーキットは閉鎖され、オートレース場として転用されることになった。
当時、船橋オートレース場は北東にある船橋競馬場の内側にダートコースとして存在していた。
ちなみに日本最初のオートレースが開催された由緒正しき場所でもある。 しかし、オートレースが舗装化されることにより、代替地の検討が始まっていた。 そこで船橋サーキット側の方からサーキット敷地を移転先として提案したそうだ。 その背景には、サーキット経営での採算が取れないという問題や、イベント開催に関してJAFとの確執などもあったという。 結果、1967年7月31日をもって船橋サーキットは閉鎖される事になった。 3年間の間に三十数レースが開催された。 その後、サーキット跡地に建設された船橋オートレース場はサーキットの丁度ホームストレート・ピット辺りにコースが出来ている。 開場当初からしばらくは船橋サーキットのグランドスタンドがそのまま利用されていたようだ。 現在は船橋ヘルスセンターも閉場し、跡地はららぽーとTOKYO-BAYとなった。 サーキットの跡形はなく、オートレース場のコース、駐車場、一般道になっている。 ソックスカーブ辺りは京葉線・東関東自動車道が通っている。 辛うじて当時のプールに沿った辺りの駐車場の形状でサーキットの形が多少分かる程度である。 噂では駐車場の舗装が剥がれている所から当時のサーキットの舗装が覗いているとの事もあるそうだ。 東京から1時間以内で行ける本格的サーキットとして2年のわずかな期間のみ使用された幻のサーキット。 その2年の間に当時のライセンス保持者の1/3がこの船橋サーキットで取得したと言われている。 現在に繋がる日本モータースポーツ史の中でも重要な場所の一つであることは間違いないだろう。 大きな地図で見る


YouTubeにアップロードされている船橋サーキット関連の映像まとめ

2013年2月19日火曜日

SSPジムカーナ場(神奈川県)


SSP(セントミ・スピード・パラダイス)ジムカーナ場
(※一部にサカイ・スピード・パラダイスとの表記もある)

(オートスポーツ 1970年2月号より)

外周230m
幅員:最大 6.5m
        最小 5.5m















東京近郊にジムカーナ場出現!! 
船橋サーキットが閉鎖されて以来、東京近郊には適当なコースがなかったが、このほど千富美観光㈱が、神奈川県川崎市鉄(くろがね)町にジムカーナ場(名称SSP)の建設を進めている。国道246号線から少しわきにはいったところで、二子玉川より車で15分、コースはリトルFISCOのようで、全長330mだから規模は大きくないが、将来拡張も考えられるということだ。オープンは10月中旬の予定。ここがオープンされれば、関西びわ湖スピードランドと並んで、関東のジムカーナのメッカになるだろう。 
(オートテクニック 創刊号より)
(1970年の航空写真より)

1970年12月14日にオープンしたジムカーナ場がこのSSPジムカーナ場である。
神奈川県横浜市緑区の田園の中を入った場所にあったこのコースの規模かなり小さく、用途通りジムカーナ以外には使えないような小さなサーキットであった。
それでも、当時としては都心に近くリーズナブルで騒音問題にも影響されないコースとして、関東のジムカーナ同好者にはかなり重宝されていたようだ。

外周の大きな円を描く30Rコーナーは14度のカントが付けられており、小さな円とそれを突っ切る十字、S字が組み合わされている。

千富美観光(株)が所有しており、代表の酒井氏がジムカーナによる自動車運転技術の向上をかかげ、酒井氏の弟とともに田んぼを潰して整地作業に励んだという。
その後、聞きつけたジムカーナフリークが共に整地作業に参加し、コース基礎、舗装、パドック以外はすべて自分でこしらえたという。

少なくとも2-3年は関東のジムカーナの拠点の一つとして毎月盛んにイベントが開催されていた。
しかし、1974年頃に地域の開発に巻き込まれ取り壊されてしまったようで、住宅地となり跡形も無い。
現在は横浜市青葉区すすき野という地名になっている。



※大体の位置

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2013年1月21日月曜日

道川サーキット (秋田)

道川サーキット
距離:約700m
コース幅最大:12m
コース幅最小:6m

バーダルハイスピードジムカーナ東北シリーズ 秋田県岩城町道川サーキットで行われた4月25日のオープニングレースは大々的に催され、1000人以上の観客が集まりました。地元の全面的な協力で、レストハウス、宿泊設備もととのっています。今後一層盛んになる可能性大です。 
(オートテクニック 1971年 7月号)






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2013年1月20日日曜日

むつ湾・インターナショナル・スピードウェイ (青森県)

2013/1/20記事公開
2021/10/22 追記 

むつ湾・インターナショナル・スピードウェイ

所在地:青森県上北郡野辺地(のへじ)町
距離: 4.5km/4.8km(いくつか表記がある) 実測約3.8km  / ショートコース 約3km
ホームストレート:1600m
コース幅:20m
コーナー数:4(公称値)
4輪 左回り / 2輪 右回り 

(国土地理院 70年代の航空写真より)


青森県の上北郡野辺地町に存在したサーキット。
サーキットレイアウトは1.6kmのホームストレートを有しており、コーナーのRも比較的大きく超高速レイアウトである。
しかし、コース脇がすぐ海な為、砂や海水がコースに入り込み、水没することもあった。

オープニングレースとなった1972年ストックカーレースの際は、突貫工事の末に行われたためコース上もコンクリートウォールの代わりに土のうが積まれたり、路面のアスファルトが1層で下地の砂利が出てきたり、当時の写真を見ても建設途中のような様子が見受けられる。

オープニングレース
1972年 第1回むつ湾国際級ストックカー300kmレース大会


実際、開催当初の72年7月の時点では未完成だったようで、JAF公認はオープン後から少々遅れた模様。
その際にコースレイアウトについて"出来ればもっとテクニカルなものにするように"という指導がJAFから入ったということもあったようだ。
1973年のむつ湾グランド200マイルレースでは、もう1層アスファルトが追加されたようだがそれでも路面の凹凸はひどかったという。

(コース図、ただし実際のコースの形と異なる オートテクニック 1972年8月号)

(コース案の一つ? AS 1972/6/15)



現在の国土地理院の地図サイトで距離を測ると、メインのコースは約3.8km程度だったと推定される。
海沿いの1.6km(※)のホームストレートを抜けると、1コーナーは左125R、5度のバンクの上りのコーナー。
2コーナーは公称400Rとされているが、それ以下の2つのRのコーナーが組み合わされていると言われている。
3コーナーは右の400R、コース中間がくびれのような形になっている。
最終コーナーである4コーナーは入り口で右に少しターンしたあと、125R(公称)・バンク15度の左コーナー。外側はJR大湊線の線路と面している。
4コーナー出口付近は狭くなり20Rの下りコーナーである。
3コーナー辺り、最終コーナーから約500mの辺りにショートカットコースも作られる予定だったが、オープニングレースの時点では作られていなかった。 最終的に作られたかどうかも不明。
(※一部ホームストレート1.8kmという記述もあるが1.6kmが正しいと思われる)

(コース写真 オートテクニック 1972年8月号)
 

サーキットのオーナーは農事組合で元々「むつ湾観光牧場」という牧場を経営しており、その中には遊園地、動物園などがあったが隣接した土地にサーキットを建設するという流れになった。
コース設計は立原義次氏。
当時東北にサーキットが無く貴重な存在であった他、更に北海道スピードウェイが閉鎖された事もあり、北海道のドライバーが海を渡って本州のむつ湾に遠征しにくる事も多かったようだ。

(むつ湾グランド200マイルレースの様子  オートテクニック 1973年10月号)

超高速レイアウトであったが、二輪のオートバイレースも開催されている。
1972年の「第1回むつ湾オートバイグランプリ」はロードレース日本選手権の1戦として行われている。
オートバイレースでは右周りで使用された。 順走左回りの最終コーナー出口付近は下り坂になっているため、逆走にすると上り坂になって減速しやすいというのが理由だったようだ。
四輪のGCレースでも右回りやホームストレート上のシケインなどが検討されたようだが、本来の左回りのまま変更なしで行った模様。

1973年むつ湾グランド200マイルレースの様子

1973年のレースは8月で終わってしまったという。というのも9月は雨が多く、更に海岸沿いのためコースが使用不能になることが多かったようだ。
このような地理的な不利に加えオイルショックも相まって1973年で閉鎖されてしまったようだ。
現在コースの跡のようなものがうっすら残っている他、グランドスタンドの廃墟が残っている。

むつ湾・インターナショナル・カートウェイ

(国土地理院 70年代の航空写真より)
(以下オートテクニック 1972年11月号)


むつ湾スピードウェイに併設されたカートコース。
スピードウェイが閉鎖された後も使用されていたが、動物園閉鎖と共に閉鎖された模様。

オープニングレースは
「むつ湾スピードウェイ開場記念ねぶたまつり '72日本カートプリ大会」(1972/8/5-6)が青森県、青森ねぶたまつり協賛で開催されたという。
これがJAFが開催する日本初の"カートプリ"である。
1972年(昭和47)には国際交流の一環として'72日本カートプリが開催され、1973年(昭和48)には全日本カート競技選手権が開始されています。
http://www.jaf.or.jp/msports/intro/his_j.htm 







(カートプリ リザルト)



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-関連文献-
オートスポーツ 
1972 6月15日/10月15日
1973 9月1日/10月15日
オートテクニック 
1972 6月号/7月号/8月号/9月号/11月号 
1973 10月号
1974 3月号/4月号
日本の名レース100選 '72 むつ湾ストックカー
日本モーターレース創造の軌跡


-関連リンク-
二輪文化を伝える会  - むつ湾インターナショナルスピードウェイ
ヤマハニュース 1972年10月号 / 第1回むつ湾オートバイグランプリ