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2019年8月12日月曜日

野呂山スピードパーク (広島県)

野呂山スピードパーク
所在地:広島県呉市安浦町大字中畑
全長: 1.38km ・ 1.75km (右回り) /0.89km(ストックカー / 左回り)
※のろさん と読む

(1975年1月の国土地理院の航空写真、時期的に閉鎖された直後かもしれない。https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=863219)

野呂山スピードパークの案内
広島の国立公園野呂山(のろさん)にできた野呂山スピードパークは直線部300m、すり鉢を思わすバンク、それに続くヘアピン・カーブ等、変化に富んだ1周1700m(幅員15m)コースである。
各イベントをはじめ平日もスポーツ走行、カート走行などができる。
(オートテクニック 1970年1月号)

(野呂山スピードウェイのマップ(1.38kmのレイアウト) オートテクニック)

野呂山スピードパーク(通称:NSP)は広島県呉市の野呂山にかつて存在したサーキット。
オープン日は1969年10月19日だという。
鈴鹿・富士・船橋(既に閉鎖)の次、近代的な4輪レースが始まってから4つめに作られた常設サーキットとなる。
NSPがオープンする前、中国地方のモータースポーツフリークは鈴鹿・富士と遠くへの遠征を強いられた他、埋立地や河原の土手などで行なわれた年2度ほどのジムカーナしか参加出来なかったという。

終戦後、国有地だった野呂山は引揚者に土地を開放し農地開拓が行なわれたが、後に観光地としての開発が始まり遊園地などが出来、その一環でサーキットもオープンされた。
サーキットになった土地も元々は畑だったという。
サーキットを作るきっかけになったのも、当時野呂山の林道などで行なわれていたモトクロスのコースを作ろうという事が発展して四輪用のサーキットになったという。

コースは山の斜面をつづら折りに下り、再びつづら折りに登っていくというテクニカルなレイアウト。
一番長いストレートでもホームストレートが約300mほどしかない。
上り下りもかなり激しく、6-10%の上り下りの勾配は当たり前に存在し、特に最終コーナーからフィニッシュラインにまで至る最後のストレートは約15%ほどの上り勾配がある他、コースアウト防止のため随所のコーナーに2段階のカントが付けられている。

左から1.75km / 1.32km / 0.89km

NSPのオープニングレースは1970年5月15日に行なわれた。
ストックカーレースを開催していた日本オートクラブ(NAC)が「全日本ストッカー呉200kmレース」を開催。
アメリカ式のレースらしく、左回りで行なわれたレースは一番短いレイアウトが使用された。
このレイアウトでは本コースとショートカットコースの交差の段差が大きく派手なジャンピングスポットが存在した他、ターン1となる最終コーナーの手前はかなりの下り坂となる。
第1ヒート、レースは雨と霧に祟られ、濃霧で2時間あまりスタートがディレイ。
霧が一瞬晴れた瞬間になんとかスタートさせたが、その後もすぐに霧が発生してしまった。
1kmもないレイアウトのため、3周目にはラップダウンのマシンが出始めたという。
100周の第1ヒートは1/3程がイエローコーションだった上、ディレイの影響で第2ヒートはキャンセルとなってしまった。
優勝はセドリックに乗る寺西考利選手。


「全日本ストッカー呉200kmレース」の当時の動画、雨と霧の中を疾走するストックカー。

NSPでは主にツーリングカーレースや当時流行っていたミニカーレース、軽自動車のエンジンを使ったFLマシン等のレースも行なわれていた他、ジムカーナ競技やカートでの走行もあった。
GCマシンのエキシビジョンランというイベントも行なわれたようだが、参加車のほぼすべてがトラブルにより満足に走れたマシンは1台だけだったという。


当時の遠景の動画、オープンから2-3年は経過していそうだ


1974年頃の雑誌には、サーキットが閉鎖されるという噂が流れ、それを否定する旨の記事が掲載されていた。
実際、サーキットから発せられる騒音について近隣地域からの苦情もあった他、モータースポーツならずとも社会的問題となっていたオイルショックも経営に大きな影響を与えた。そして、経営難に陥り運営会社を畳んだという。
野呂山スピードパークが閉鎖
広島県の野呂山スピードパークが閉鎖、モトクロスコースに改修中である。1970年にオープンした同サーキットはアップダウンの激しいコースとして知られていたが、経営不振のためモトクロスコースに変えられたもの。
(オートテクニック 1975年4月号)
記事の通り四輪コースとしては閉鎖されてしまったが、一部舗装を剥がしてモトクロスコースに転用されたとの事。
広島県の2輪レースの歴史をまとめた「広島モーターサイクル全史」によると
800mもの高い標高が災いしてライダーはキャブレターセッティングに苦労し評判は芳しいものではなかったようである。
という当時のライダーの評判が聞こえる。
(1981年の航空写真、一部舗装が剥がされている
https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=877732)

その後モトクロスコースとしても廃止され、跡地はしばらく休眠地となっていたが、1997年頃にオートキャンプ場として転用された。
この頃までにコントロールタワーは撤去されていたが、ピットとして使われていた建物は残っていたようである。
現在はオートキャンプ場も閉鎖されている。

ネット上では2000年代に入り、サーキットを復活させようとした動きもあったようだが、詳細は不明。

今、航空写真を見ると緑に覆われた中にコースの形が見える。
しかし、現在はピットも撤去され、事務所だったという大きい建物、REXOL(オイル)の缶を模した看板の骨組み、そして当時出光のGSだった建物だけが廃墟となって残っている。



参考資料
JAFリザルト "全日本ストッカー呉200kmレース"
http://www.jaf.or.jp/CGI/msports/results/n-race/detail-result.cgi?race_id=1754&window_flg=1
オートテクニック
オートスポーツ
JAFスポーツ
F1倶楽部 Vol24 特集グランプリサーキット
広島モーターサイクル全史

2019年8月9日金曜日

アメリカ統治下の沖縄で開催された「沖縄グランプリ」

沖縄グランプリ / Okinawa Grand Prix

戦後、1945年から1972年5月まで沖縄県はアメリカ合衆国によって統治されていた。
アメリカ統治下の中、沖縄に駐留していた自動車愛好家の米軍人が主だって沖縄スポーツカークラブ(Okinawa Sports Car Club / OSCC)という団体が1950年代に設立されている。
OSCCではモータースポーツの催事も度々開いており、ラリーやジムカーナ、オートクロスなども行なっていたという。
OSCCのメンバーの中にはフォーミュラジュニアのBrabham BT2を沖縄に持ち込み、マカオグランプリに出場したという記録もある。

そんな中「沖縄グランプリ」と名打たれたロードレースのイベントで何度か開かれた。
1963年に初めて鈴鹿サーキットで四輪の「日本グランプリ」が開催されたので、それよりも早い「グランプリ」と言える。
(ただし、FIAに公認されたレースではないことに注意)

1962年の沖縄グランプリ

1962年、沖縄グランプリと呼ばれるロードレースイベントは読谷飛行場(よみたんと読む)で初めて行なわれた。
5万人を超える観客がレース観戦に訪れたという。(2万5千人という記述もある)
コースは読谷飛行場に作られた2.65マイルのコース。
レース距離は26マイルのレースと、78マイルのレースが行なわれた他、オートバイのレース、ドラッグレースなども行なわれた。

1962年8月18日(土)、予選が行なわれた。
予選ではジャガーEタイプに乗るビル・バクスター選手が平均時速67.82マイルでポールポジションを獲得、オースチンヒーレーに乗るチャールズ・レーバー選手、同じくオースチンに乗るドイル・カトン選手が2位、3位を獲得した。
(おそらく78マイルの予選結果)

翌日19日(日)決勝の予定だったが、台風13号(米国名Sarah)が沖縄を直撃、決勝レースは延期となってしまった。

(読谷飛行場の航空写真 1970年 https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=10318)
延期された決勝の日時は記録が少なくはっきりしないのだが、おそらく8月26日(日)に開催された。
26マイルのレースではジョン・アダムス選手がトライアンフ TR4を駆り優勝した。
78マイルレースでは平均時速62マイルで1時間以上のレースを走りきり、ビル・バクスター選手が優勝した。

オートバイレースの方では、大排気量クラスはジェームズ・シェルトン選手が優勝、小排気量クラスはトシマ・カワグチ選手(表記不明)が勝った。

1971年の沖縄グランプリ

沖縄グランプリ開催要綱 
 日本グランプリも無事終了したところだが、海をへだてた沖縄でもグランプリが開かれる。主催をするのは沖縄スポーツカークラブ(OSCC)で、主に沖縄の基地に勤めるアメリカ人を主体としたクラブである。 
 レースは5月30~31日にカデナ基地の飛行場を特設サーキットとして行なわれ、コースの型状は飛行場という立地条件からほぼ菱形をしたものである。参加するドライバーはアメリカ人ドライバーが大多数をしめており、参加資格はOSCCの発行したライセンスを必要とする。 
 参加台数は60台程度で日本人ドライバーも現地でレンタカー会社を経営する野崎真広氏がスクーデリアニッサンでチューンされた240Zで出場することになっている。 
 車両規定はアメリカのSCCA規定に準じて行なわれ出場車種も米車が大多数を占めており、クラス分けはツーリングレースGTSを主とするグランプリレースである。 
(オートテクニック 1971年6月号)
オートテクニックの記事中では嘉手納基地と紹介されているが、実際には1962年と同じ読谷飛行場でレースが行なわれた。
9年ぶりに沖縄グランプリと銘打たれたレースがOSCCによって開催された。

計62台、車種は大小様々な排気量の車がエントリー。
こちらのレースも1962年と同じく2.65マイルのコースで行なわれた。
15周する決勝レースが予定されていた。
レース当日は2万5千人を超える観客が飛行場に訪れたという。

(1971年の沖縄グランプリ、予選レースの様子 / Pacific Stars And Stripes 1971年6月5日)

予選レースでは沖縄のBellet Racing Teamに属する野崎真広氏がいすゞ自動車のサポートを受け、(おそらく)いすゞベレットで予選レースを優勝した。
また、非公式ではあるがファステストラップも記録したと当時の新聞記事には紹介されている。
予選レースではシボレー・ノヴァに乗る選手が横転クラッシュしたという。

前述の通りかなりの観客がコースに集まった結果、観客が溢れてしまいコース上などを歩行しており、警察も人手不足でコントロールできなくなってしまったため、15周の決勝2レースはキャンセルとなってしまったようだ。
そのため予選レースを優勝した野崎氏が優勝となった。
ただ、レースの合間にも2輪のクラブ団体がドラッグレースなどを行ない観客を盛り上げた。

読谷飛行場は2006年、沖縄に全面返還された。
現在は跡地が開発され飛行場は存在しない。



参考
沖縄グランプリを企画したTed Carter氏のブログ、グランプリに関する事やブラバムBT2についての事が読める
https://www.theamazinglifeandtimesofedwardcarter-uniqueentrepreneur.com/chapter_two_-_1958_-_1962.html
1962年の台風13号 "Sarah"
https://en.wikipedia.org/wiki/1962_Pacific_typhoon_season#Typhoon_Sarah
読谷補助飛行場
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%AD%E8%B0%B7%E8%A3%9C%E5%8A%A9%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E5%A0%B4
Pacific Stars And Stripes - 1962年8月20日 / 1962年8月28日 / 1971年6月5日