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2026年6月3日水曜日

日本ナスカー (1968年)

オートスポーツ 1968年8月号を読むと、当時日本で計画されていた数々のサーキット計画の中に興味深いものを見つけることができた

ストックカーの"メッカ"を

日本ナスカー 

まだ公表されていないが、日米合弁会社の日本ナスカーが近く"旗あげ"する予定だ。社長は元運輸大臣の楢橋渡氏。副社長には、楢橋渡氏の長男・氏と在日米人のドン・ニコルズ氏が就任することになっている。

アメリカのNASCAR(ナショナル・アソシェーション・フォア・ストックカー・オートモビル・レーシング)と手を結んで、NASCARのストックカー・レースを日本で開催しようというのが日本ナスカーのねらいである。

日本国内の4ヵ所(札幌、関東、関西、九州)にレース・コースを設け、それぞれ札幌ナスカー、関東ナスカー、関西ナスカー、九州ナスカーーーという別会社を設けて直接の管理・運営をあたらせる、そして、日本ナスカーがこれらの地方各社を統括する。レース・コースは札幌が2.5kmのほか、関東、関西、九州は4km。いずれもナスカーの規格にあわせた楕円形コースだが、具体的な建設地域はまだ明かにされていない。しかし、国有地、あるいは公社や公団などの土地を借りる計画もあるようだ。 (オートスポーツ 1968年8月号 新設サーキットをめぐる噂と真相) 

日本ナスカーと言えば、すぐに思いつくのは富士スピードウェイの前身にあたる日本ナスカー社であろう。
日本ナスカー社は現在の富士スピードウェイの地に2.5マイルのオーバルを建設し、アメリカ・NASCARの方式に則ったストックカーレースを開催しようとしていた。
しかし、この話は1968年。すでに富士スピードウェイがオープンした後の話である。

楢橋渡は、福岡県久留米市出身の政治家・弁護士で、戦後には内閣書記官長や運輸大臣を務めた人物である。
楢橋氏は1968年2月のデイトナ500を視察し、NASCARのビル・フランス社長と会談したうえで、日本ナスカー設立に至ったとされる。つまりこれは、富士スピードウェイ建設時の日本ナスカーの関連というわけではなく、楢橋氏を中心に改めてNASCAR本体と結び直そうとした計画だったように見える。

また、ドン・ニコルズが計画に参画しているのも興味深いポイントである。
ドン・ニコルズは富士スピードウェイ前史の日本ナスカー社の計画にも大きく関わった人物であり、後の富士スピードウェイが静岡県の小山町に決まった際もコース設計のチャールズ・マネーペニー、アドバイザーのスターリング・モスとともに小山町の原野を視察している姿が見られる。
参考: https://www.motorsportmagazine.com/articles/single-seaters/stirling-moss-shadowman-tokyos-nightlife-the-creation-of-fuji-speedway/

この新しい日本ナスカー計画でも、ニコルズは単に名前だけの副社長ではなかったようだ。オートスポーツでは、7月中旬時点でニコルズがアメリカとヨーロッパを回り、カーオーナーやドライバーと「日本遠征」の交渉をしているとされている。つまり、海外側の実務交渉を担うキーパーソンだったと見てよさそうである。

突然再浮上した日本ナスカー計画だが、自動車・モータースポーツ誌での続報は見当たらなかった。しかし、「高度経済成長期における民間大企業による大規模開発構想とその展開経過 : 岡山県久米郡久米町と川上郡備中町の場合」という1985年に発行された書籍に関連すると思われる記述があった。
これは岡山県久米郡久米町(現:岡山県津山市の久米地区)という地域の開発について書かれた書籍だが、その中に、なんと顛末が書かれていた

元運輸大臣楢橋渡氏が加藤知事に会い、同氏はアメリカに世界本部のある自動車競走ギャンブルの日本代表権を有していて、国内に適地を調査中である旨を述べた。同じ頃、彼と関係のある神戸の某キャバレー主が自動車レースに興味を有し、久米町に適地があると聞いた旨を県に告げた。

久米町長藪木久太郎氏はこれに乗り気になったが、町単独での交渉は困難と見て、県に仲介を求めた。しかし自治省はギャンブル増設を認めない方針であり、 特に自動車レースはわが国では前例がなく許可見込はないとの見解を示した。 このため楢橋氏は消極的となったが、 キャバレー主は単独ででもサーキットを建設したい意向を変えず 現地での用地買収交渉に入った。しかし価格が折合わず 久米町、県、キャバレー主の三者の話合いの結果、この件は実現を見ないままに終った。( 高度経済成長期における民間大企業による大規模開発構想とその展開経過 : 岡山県久米郡久米町と川上郡備中町の場合)

これはまさしく、日本ナスカーの計画であろう。
オートスポーツの記事中でも、1970年の万博に向けて関西を舞台にストックカーの国際イベントを開催すると息巻いていた。 久米町は現在の岡山県津山市西隣の地域で、厳密には関西ではないが、中国自動車道によって阪神圏からのアクセスが期待されていた地域でもあり、関西方面の候補地として浮上していた可能性は十分ある。

気になるのが、「自動車競走ギャンブル」という表現である。NASCARそのものはアメリカのストックカーレースの統括・興行団体であり、少なくとも通常は「ギャンブル団体」として語られるものではない。
どうやら楢橋氏は競馬や競輪、競艇やオートレースなどと同様の公営競技(ギャンブル)としてストックカーレースを開催しようとしていたようだ。
よくよく考えてみれば地域ごとに運営会社を分けて運営されるというのも、公営競技の形に近いものが初めから提示されている。
そもそも、日日本で行われている公営競技という仕組みは、日本と韓国でしか行われておらず、現在でも海外ではNASCARのレースを対象としたスポーツベッティングというギャンブルが行われているが、NASCARはあくまでも賭けの対象であり、胴元はNASCARではなくブック業者である。そのため、日本とは仕組みが大きく異なる。

新たに公営競技を増設するという流れは1940~1950年代に競艇、ドッグレース、ハイアライが法案成立を争い、1951年にモーターボート競走法が可決して競艇が公営ギャンブルになって以来、新たな公営競技は生まれていない。

ちなみにこの時期のオートレースでは、現在も行われているオートバイによる2輪レースのほかに、小型の4輪車によるレース、「オート4輪」も行われていた。(1973年廃止)

当然、ここでも新たな公営競技を増やすという部分で却下されており、そこで日本ナスカーの計画はトーンダウンしてしまったようだ。

もしも公営競技としてストックカーレースが行われるとなると公正確保などが難しそうに感じる。現在見られる一般的なストックカーレースとは全く違う競技になっていそうな気がしないでもない。

また、楢橋氏から「神戸の某キャバレー主」へ、サーキット建設の話が個人的に引き継がれたが、そこも頓挫している様子がわかる。単なる仲介者ではなく、かなり前のめりな事業者だったようだ。

別の資料では、1968年の暮れにはすでにサーキット計画は撤回されていたとされている。
同地の開発計画は、三菱商事・三菱地所による遊園地やスポーツ施設、キャンプ地、別荘地などの大規模なレジャー施設や工場誘致などの計画になっていた。
が、実際に建設されたのは1978年にオープンした久米カントリークラブというゴルフ場のみだったという。

-参考文献-
オートスポーツ 1968年8月号
朝日ジャーナル 1972年11月3日号
「高度経済成長期における民間大企業による大規模開発構想とその展開経過」 / 由比浜省吾[著]
https://dl.ndl.go.jp/pid/11975968/1/21

2026年5月26日火曜日

厚木サーキット(神奈川県)

厚木サーキット 海老名に建設計画
地元PTA猛反対 "騒音"、青少年に悪影響
相模川河川敷き利用 地主側に賛成の声も 町当局の構え慎重

高座郡海老名町中新田の相模川河川敷きを利用して「日本カーレース会社」(仮称)=本社・東京都渋谷区神宮前五丁目四六ノ一八、発起人代表・加賀山之雄元国鉄総裁=が「厚木サーキット」(仮称)を建設する計画をたて、このほど発起人の中村年郎氏(鹿島建設顧問)らが海老名町を訪れ、田野口町長にサーキット建設の同意を求めた。これを聞いた海老名町PTA連絡協議会(七PTA、大野新一会長)は二十日緊急役員会を開き、サーキット建設には絶対反対の態度を申し合わせ、二十一日町、町議会へ建設に反対するよう陳情した。河川敷きの高度利用と騒音、教育現場の悪化とが真っ向から対立し、地元PTAは高座郡PTA連絡協議会にも呼びかけるなど態度を硬化させているが、地主のなかには賛成派もあり、町当局もサーキット進出には慎重な構えを見せている。
(神奈川新聞 1965年9月22日)
厚木サーキットは、神奈川県高座郡海老名町、現在の神奈川県海老名市に計画されたサーキットである。
計画地は厚木駅から約1km南に位置する河川敷と民有地で、現在の海老名インターチェンジ付近の河川敷だと思われる。計画当時は荒れ地だったという。
事業計画では、中新田地内46万4千平方メートル、うち河川敷21万4千平方メートルを利用し、一次建設資金13億8921万8千円を投じる大規模なものだった。コースは幅10~15m、全長3.2kmで、8万2500平方メートルの駐車場、収容能力10万人のスタンド、自動車整備工場、クラブハウスなどが計画されていた。

「日本カーレース会社」の発起人に連ねる一人として、元国鉄総裁の加賀山之雄がおり、それに関連してか国鉄相模線の厚木駅と社家駅の間に「厚木サーキット駅」を設置する計画も描かれていた。
また、発起人の一人に山西喜一郎という人物がおり、山西氏は1963年には㈱日本ストックカー協会の代表としても名が見え、同協会は箱根国際自動車レース場の計画に関係していた団体である。

なお、記事中にもある通り計画地の近隣にある7つの小学校・中学校のPTAによる猛反対を受けており、すぐに神奈川県議会に議題として上げられている。
PTA側の反対理由も、単なる騒音問題にとどまらず、陳情書では「見知らぬ多くの人たちの出入り」「はでな服装」「向こう見ずな行動」「一発勝負的な考え」「危険を無視したスピード」「耳をおおう騒音」などが青少年に悪影響を及ぼすとしており、当時の自動車レースに対する社会的な警戒感も見て取れる。

「厚木サーキット」 県で不許可
騒音の被害大きい 河川敷き"公共利用"にも反する 今後も認めない

県は「日本カーレース会社」(仮称)=発起人代表・加賀山之雄元国鉄総裁=が高座郡海老名の相模川河川敷きを利用して建設しようとする「厚木サーキット」に対して、土地利用対策委員会で河川敷き占用許可を与えるかどうか検討していたが、公害、教育、衛生などあらゆる行政分野で好ましくないとの結論に達し、三十日までに加賀山発起人代表、海老名町など関係者に通告した。県では同様に、今後、場所のいかんを問わず、県内にはサーキット建設を許可しない方針を決定した。
(神奈川新聞 1965年10月1日)
このサーキット計画については、当初一部地主が土地売り渡しへ同意する動きもあったが、最終的には地主の大部分や砂利採掘権を持つ組合も反対に回ったと報じられている。

県は船橋サーキットや鈴鹿サーキットへの現地調査も行ったうえで、厚木サーキットに河川敷き占用許可を与えない方針を決定した。理由としては、騒音、し尿処理、交通渋滞、農地・県蚕業試験場への影響、そして河川敷きの公共利用方針に反することなどが挙げられている。
結果として(当時の)神奈川県の方針としてサーキット建設については今後も一切の計画を認めない方針を定めた。
この計画は神奈川県におけるサーキット建設そのものへの姿勢を決定づけた事例だったともいえる。

ちなみにこの記事では以前に津久井町の計画(現、相模原市緑区。おそらく力道山のサーキットか)を却下した前例があるという記載がある。

-参考文献-
神奈川新聞
1965年9月22日/10月1日
昭和40年9月30日 神奈川県議会9月定例会議事録第5号