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2018年8月8日水曜日

国内モータースポーツ初のヒルクライムレース/伊豆長岡 (静岡県)

2017/06/25 記事公開
2018/08/08 一部追記
2019/06/26 関連リンクのURLを修正

ここ数年でぐぐっと開催が増え、イベントの露出も増えてきた自動車のヒルクライムレース。
モータースポーツの歴史の中でも、山や丘を登りタイムを競う競技形式はモータースポーツの中でも単純かつ歴史ある競技。
そんな自動車ヒルクライムレースが記録上日本で初めて行われたとされる場所を紹介したい。

第二次大戦後まもなく、駐留米軍将校が中心となって、1951年に「Sports Car Club of Japan(SCCJ)」という国内初のモータースポーツ愛好団体が創立され、戦後の日本モータースポーツ黎明期が始まった。
もちろん、現代的な常設サーキットは未だ日本にはなく、船橋のオートレース場(2016年まで存在した場所とは異なる)での競技や茂原飛行場での3時間耐久レース、更に東京・京都間の公道ロードレース(!)などが開催され、日本に様々な形のモータースポーツがもたらされた。
関連:50年代初頭の日本のモータースポーツと1952年の茂原国際ロードレース

その後、米軍人が続々帰国した後にSCCJは休会になったものの、日本人の有志が1955年に同団体を再発足させた。
 この当時の発起人には、現在、伊藤忠自動車相談役の野沢三喜三氏、アメリカ日産社長の片山豊氏、自動車評論家として、またモータースポーツ界に欠くべからず存在である大和通考氏、佐藤健司氏が顔を並べていました。
(JAFスポーツ 1967年8月号)
また、旧SCCJ所属の米軍人が創立した東京スポーツカークラブ(TSCC)なども誕生し、共同で米軍基地の飛行場でジムカーナやオートクロス競技が行われていたという。

そのSCCJが主催した日本初のヒルクライムレースが1956年7月15日に静岡県の伊豆長岡の私道で開催された。
この我国初のヒルクライムの記録を見ると、ベストレコードは、ホリス氏のオースチンヒーレーが38.5秒でベストタイム、中村正三郎氏がフォードで47秒といった成績でした。
(JAFスポーツ 1967年8月号)
伊豆長岡でのヒルクライム競技はこの後SCCJとTSCCが交互に主催し、競技には米軍人が持ってくる最新のスポーツカーが多数揃った。
ル・マンで使われた中古のアストンマーティンがヒルクライムに参加した事もあったという。
オースチンヒーレー、MG-TD、TF、MGA、トライアンフ、ジャガー、ベンツ190SL、ポルシェ、コルベット、それにアストンマーチンなど当時数少ないスポーツカーが41台も集まり壮観であったと記録されております。
(JAFスポーツ 1967年8月号)

戦後初の近代的な常設サーキットである鈴鹿サーキットが完成した後も、このヒルクライムコースでの競技は行われた。
1964年には日本グランプリの直後に公認競技としてのヒルクライムが開催され、グランプリに参戦したワークスマシンが多数持ち込まれたという。

開催地である道であるが、1967年のJAFスポーツに回顧録として書かれた記事を参考に伊豆長岡、距離約400m、全面舗装の坂、大小7箇所のコーナーという特徴から、ここがコースだったと思われる。
(1962年 国土地理院の航空写真より)


Google Mapのストリートビューでは現在コースだった場所の一部が確認出来るので、当時の写真と比較してもらいたい。
(写真はすべてCARマガジン 1965年2月号 "第1回マークエイトヒルクライム"の様子)











こちらに掲載されているコラムでは、このヒルクライムコースに関する記述を読むことが出来る。
【車屋四六】第486話JAFとオ医者とMGA
https://car-l.co.jp/2016/06/28/%e3%80%90%e8%bb%8a%e5%b1%8b%e5%9b%9b%e5%85%ad%e3%80%91jaf%e3%81%a8%e3%82%aa%e5%8c%bb%e8%80%85%e3%81%a8mga/
1967年の時点で既にこのヒルクライムコースは周囲が住宅になり使用できなくなったとの記述がある。

鈴鹿サーキットが出来る以前でも黎明期のモータースポーツフリークは様々な形でモータースポーツを楽しんでいた。
そこから日本のモータースポーツの基礎が築かれていった。
現在においても日本モータースポーツ史において重要な場所の一つであった事は間違いないだろう。

一般的には知られていなかったが、日本におけるヒルクライム競技の歴史は既に60年を越えていたのだった。

(Google Mapより)





-参考-
JAFスポーツ 1967年 8月号 「楽しきかなヒルクライム」
CARマガジン 1964年 12月号、1965年 2月号
http://www.iom1960.com/history-suzuka/hs-history-suzuka.html
http://www.sccj.gr.jp/history.htm

-関連リンク-
【車屋四六】第486話JAFとオ医者とMGA - Car&レジャーWeb
https://car-l.co.jp/2016/06/28/3369/
【車屋四六】第339話 ロータス・エラン - Car&レジャーWeb
https://car-l.co.jp/2016/01/23/4131/
【車屋四六】波嵯栄のブガッティT50 - Car&レジャーWeb
https://car-l.co.jp/2017/01/22/2326/

M-BASE 街角のクルマたちAtoZ  第12回 A項・11 アストンマーチン(2)
http://www.mikipress.com/m-base/2013/11/post-53.html
伊豆長岡のヒルクライムを実際に走ったアストンマーチンの車両の現在の写真が見られる。
((写真06-2) 1952 DB3 Open 2-Seater (2010-06 グッドウッド/イギリス) という車両)
「UPL-4」- Ultimatecarpage.com
https://www.ultimatecarpage.com/chassis/368/Aston-Martin-DB3-Spider-DB3-5.html

2015年3月7日土曜日

F1 横浜市街地/横浜での市街地レース構想

2015/03/07 記事公開
2020/04/29 一部追記
F1夢のレース横浜で/スリル満点!300キロ市街戦/ 
あのモナコの興奮が…/62年8月に「青年会議所」が誘致/13日に正式提案国際モータースポーツの最高峰「F1グランプリ」を、横浜で開こうと準備が進められている。計画しているのは、あの長島さんを大洋ホエールズの監督にと、熱烈なラブコールを送った横浜青年会議所(浅利治理事長)。十三日の総会で正式に提案されるが、二年後の六十二年八月、横浜スタジアムから、山下公園にかけての市街地道路をコースに組み入れて、港YOKOHAMAにふさわしい世界的イベントにしようと意気込んでいる。(以下略)(東京中日スポーツ 1985年7月6日 1面)

70年代後半、富士スピードウェイで開催された日本でのF1が途絶えたが、その後も諦めずにF1を日本で開催し続けようと努力する動きがあった。
当時は横浜の他、後にF1日本グランプリが開催される鈴鹿サーキットや富士スピードウェイなど日本GPへの誘致は各所で行われていたという。
その中でも、この日本の大都市で行われる市街地レースは関心を引いた。
横浜市街地でのF1日本GP開催は1983年に横浜青年会議所から構想が浮上し、そこから本格的に計画は進行した。
1983年は丁度同時期、別府市街地での全日本F2の開催が検討されていた時期でもある。
同時期に日本の都市での市街地レース開催の機運が一部で高まっていたのである。

横浜青年会議所は当初山下公園前をホームストレートにするレイアウトを構想していた。
しかし、実際には神奈川県警や病院の正面を通っていたり、ピットロードや観客席などの設置が不可能だったようだ。
山下公園の周りで開催するプランはそもそも実現するにはあまりにも困難だった。
横浜市金沢区の工業団地、港北ニュータウン、大黒埠頭などが検討されたが、どれも騒音問題などがネックとなり選定は困難を極めた。

(横浜スタジアム・山下公園周りでの案 [カーグラフィック 2006年1月号])

そこで新たに提案されたのがみなとみらい地区である。
みなとみらい地区は三菱重工の造船所や国鉄の貨物駅、操車場などが存在した埋立地の再開発で建設された街である。
当時は着工されてから間もない頃であり、街どころか土地も全く完成していない状態である。
公道サーキットには様々な条件も求められるが、まっさらな土地では自由度も高いであろう。
事実、みなとみらいでのレイアウトも幾つか思案され、最終的には日本のトップドライバーの監修を受ける予定があったという。

新しい街の発展や、国際都市としての横浜というPRも含めたみなとみらいでの市街地レース開催である。
当時のF1市街地レースへの視察や、横浜でのF1開催での経済効果なども試算され、F1のドン、バーニー・エクレストンとの交渉も進んでいた。

(みなとみらい21での一案 [カーグラフィック 2006年1月号])

しかし、1989年に横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念する博覧会、横浜博覧会の開催が決定。
みなとみらい地区を使用することで、F1開催が不可能になり運営側が延期を決定。
その他、公道を使用する事について警察からの難色も強く、様々な問題が山積みの中、同時期にF1誘致に動いていた鈴鹿サーキットでの日本GP開催が決定し、ついに横浜市街地でのF1レースの計画は潰えた。
(最終案に近いと思われるコース図[Racing On 1987年2月Vol10])

横浜でのF1開催については日本評論社から出版された城島明彦著の"F1の経済学" に顛末が詳しく記載されている。
ここには当時のF1データや、同時に進行していた鈴鹿サーキットのF1誘致などの事も書かれていて興味深いので、絶版本ではあるが興味があればぜひ探してもらいたい。

横浜でのF1開催は消えてしまった。
だが、横浜での市街地レース開催は再び計画された。
2006年にアメリカのオープンホイールシリーズ、チャンプカー開催が計画されているという報道、更に2010年にはALMS(アメリカン・ル・マン・シリーズ)の開催が計画されていたという報道もあった。
チャンプカーに関しては北海道の小樽市での計画とほぼ同時期である。
だが、残念ながらチャンプカーはシリーズ自体がインディカーに吸収され消滅、ALMSについても組織が再編されたりと今となってはカテゴリー自体が消滅してしまっている。
これらに関しては横浜の市議会議員や有志団体によるロングビーチGP、マカオGPへの視察が行われたという。現在も市街地レース開催を目標に掲げ活動しているようだ。

2011年、日本で初めて公道を使ったフォーミュラ1のデモランを行ったのも横浜である。
このイベント開催には当時の横浜市長の後押しもあったという。

ALMSの計画では既にEVカーやHVカーを使ったエコ志向の自動車レースが提言されていた。
そこで時代が追いつくかのように2014年の秋からは電気自動車の世界選手権であるフォーミュラEが始まる。
フォーミュラEは電気自動車で行われるレース故に騒音や公害が少ないレースとして掲げられており、すべてのラウンドが市街地で行われるレースである。
日本に関係の深いチームの参戦や日本国内でのメディア展開から日本でのフォーミュラEレース開催も予想されているが、その中の候補として横浜の名が上がっているのもよく見受けられる。
事実、横浜市の公文書でもフォーミュラEの開催についての提言をしている文面も見受けられ、実際に誘致に向けて動き出しているとも言われている。

幻の横浜市街地グランプリが30年の時を経て現実のものになる…のだろうか。

-参考・関連リンク-
東京中日スポーツ - 1985年7月6日
F1の経済学 - 著:城島明彦 日本評論社)
カーグラフィック - 2006年1月号
Racing On Vol.10 (1987年2月1日)
トーチュウ - CCWSのS・ジョンソン社長に聞く
http://f1express.cnc.ne.jp/interview/index.php?cat_id=241&teiko_id=155838#
タウンニュース - 実現するか「横浜グランプリ」
http://www.townnews.co.jp/0104/2010/04/22/45114.html
(上記記事Internet Archiveのアーカイブ:https://web.archive.org/web/20101101102914/http://www.townnews.co.jp:80/0104/2010/04/22/45114.html)
Wikipedia - 横浜みなとみらい21
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E6%B5%9C%E3%81%BF%E3%81%AA%E3%81%A8%E3%81%BF%E3%82%89%E3%81%8421

はまれぽ.com - かつてみなとみらいで計画されていた幻の「F1」構想とは?
https://hamarepo.com/story.php?story_id=5268

2013年1月19日土曜日

木更津飛行場特設サーキット (千葉)

(※ 2013/02/19 追加)

(オートスポーツ 170年2月号より)
(1970年の航空写真)


木更津の米軍飛行場(現・陸上自衛隊木更津駐屯地)の滑走路を使った特設コース。

以前からもジムカーナなどでのモータースポーツイベントで使用されていたが、当時の米軍飛行場の司令官がモータースポーツファンだった為に、この計画も軌道に乗ったようである。
コースは右回りの全長3.5kmだが、西のヘアピン部分の直線を増やすことによって、もっと長い距離にすることもできた。

1970年5月10日には、レース開催を計画していたグループ・オブ・スピード・スポーツ(GSS)による練習会も開催され、ポルシェ・カレラ6で1分29秒というラップタイムを記録していたようだ。

70年の夏ごろに、GSSは"東京湾100マイル"という160km程度のレースを開催しようと計画していたが、開催されていたかは不明。

(オートスポーツ 1970年2月号より)




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