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2019年8月9日金曜日

アメリカ統治下の沖縄で開催された「沖縄グランプリ」

沖縄グランプリ / Okinawa Grand Prix

戦後、1945年から1972年5月まで沖縄県はアメリカ合衆国によって統治されていた。
アメリカ統治下の中、沖縄に駐留していた自動車愛好家の米軍人が主だって沖縄スポーツカークラブ(Okinawa Sports Car Club / OSCC)という団体が1950年代に設立されている。
OSCCではモータースポーツの催事も度々開いており、ラリーやジムカーナ、オートクロスなども行なっていたという。
OSCCのメンバーの中にはフォーミュラジュニアのBrabham BT2を沖縄に持ち込み、マカオグランプリに出場したという記録もある。

そんな中「沖縄グランプリ」と名打たれたロードレースのイベントで何度か開かれた。
1963年に初めて鈴鹿サーキットで四輪の「日本グランプリ」が開催されたので、それよりも早い「グランプリ」と言える。
(ただし、FIAに公認されたレースではないことに注意)

1962年の沖縄グランプリ

1962年、沖縄グランプリと呼ばれるロードレースイベントは読谷飛行場(よみたんと読む)で初めて行なわれた。
5万人を超える観客がレース観戦に訪れたという。(2万5千人という記述もある)
コースは読谷飛行場に作られた2.65マイルのコース。
レース距離は26マイルのレースと、78マイルのレースが行なわれた他、オートバイのレース、ドラッグレースなども行なわれた。

1962年8月18日(土)、予選が行なわれた。
予選ではジャガーEタイプに乗るビル・バクスター選手が平均時速67.82マイルでポールポジションを獲得、オースチンヒーレーに乗るチャールズ・レーバー選手、同じくオースチンに乗るドイル・カトン選手が2位、3位を獲得した。
(おそらく78マイルの予選結果)

翌日19日(日)決勝の予定だったが、台風13号(米国名Sarah)が沖縄を直撃、決勝レースは延期となってしまった。

(読谷飛行場の航空写真 1970年 https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=10318)
延期された決勝の日時は記録が少なくはっきりしないのだが、おそらく8月26日(日)に開催された。
26マイルのレースではジョン・アダムス選手がトライアンフ TR4を駆り優勝した。
78マイルレースでは平均時速62マイルで1時間以上のレースを走りきり、ビル・バクスター選手が優勝した。

オートバイレースの方では、大排気量クラスはジェームズ・シェルトン選手が優勝、小排気量クラスはトシマ・カワグチ選手(表記不明)が勝った。

1971年の沖縄グランプリ

沖縄グランプリ開催要綱 
 日本グランプリも無事終了したところだが、海をへだてた沖縄でもグランプリが開かれる。主催をするのは沖縄スポーツカークラブ(OSCC)で、主に沖縄の基地に勤めるアメリカ人を主体としたクラブである。 
 レースは5月30~31日にカデナ基地の飛行場を特設サーキットとして行なわれ、コースの型状は飛行場という立地条件からほぼ菱形をしたものである。参加するドライバーはアメリカ人ドライバーが大多数をしめており、参加資格はOSCCの発行したライセンスを必要とする。 
 参加台数は60台程度で日本人ドライバーも現地でレンタカー会社を経営する野崎真広氏がスクーデリアニッサンでチューンされた240Zで出場することになっている。 
 車両規定はアメリカのSCCA規定に準じて行なわれ出場車種も米車が大多数を占めており、クラス分けはツーリングレースGTSを主とするグランプリレースである。 
(オートテクニック 1971年6月号)
オートテクニックの記事中では嘉手納基地と紹介されているが、実際には1962年と同じ読谷飛行場でレースが行なわれた。
9年ぶりに沖縄グランプリと銘打たれたレースがOSCCによって開催された。

計62台、車種は大小様々な排気量の車がエントリー。
こちらのレースも1962年と同じく2.65マイルのコースで行なわれた。
15周する決勝レースが予定されていた。
レース当日は2万5千人を超える観客が飛行場に訪れたという。

(1971年の沖縄グランプリ、予選レースの様子 / Pacific Stars And Stripes 1971年6月5日)

予選レースでは沖縄のBellet Racing Teamに属する野崎真広氏がいすゞ自動車のサポートを受け、(おそらく)いすゞベレットで予選レースを優勝した。
また、非公式ではあるがファステストラップも記録したと当時の新聞記事には紹介されている。
予選レースではシボレー・ノヴァに乗る選手が横転クラッシュしたという。

前述の通りかなりの観客がコースに集まった結果、観客が溢れてしまいコース上などを歩行しており、警察も人手不足でコントロールできなくなってしまったため、15周の決勝2レースはキャンセルとなってしまったようだ。
そのため予選レースを優勝した野崎氏が優勝となった。
ただ、レースの合間にも2輪のクラブ団体がドラッグレースなどを行ない観客を盛り上げた。

読谷飛行場は2006年、沖縄に全面返還された。
現在は跡地が開発され飛行場は存在しない。



参考
沖縄グランプリを企画したTed Carter氏のブログ、グランプリに関する事やブラバムBT2についての事が読める
https://www.theamazinglifeandtimesofedwardcarter-uniqueentrepreneur.com/chapter_two_-_1958_-_1962.html
1962年の台風13号 "Sarah"
https://en.wikipedia.org/wiki/1962_Pacific_typhoon_season#Typhoon_Sarah
読谷補助飛行場
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%AD%E8%B0%B7%E8%A3%9C%E5%8A%A9%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E5%A0%B4
Pacific Stars And Stripes - 1962年8月20日 / 1962年8月28日 / 1971年6月5日

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