その名も「八王子レース・コース」またの名を「東京サーキット」と言うらしい。
当時のオートスポーツを読むと
"八王子市と西多摩郡秋多町にまたがる秋川の河原一帯約215万平方メートルが建設予定地。外苑タクシーの張煥慶社長が目論んでいるものだが、イースタン観光系の資本も導入して来春までに一周5.5kmのサーキットを完成させたい意向だ。将来はこれにストックカー用の楕円コースも加えて総合的なモータースポーツ・センターを建設するという。"(AUTOSPORTS 1965年4月号)とある。
この記事では「花ざかりのレース場建設計画」として、前回紹介した「NAC箱根スピードウェイ(伊豆スピードウェイ)」や現在も存在するスズキの竜洋町のテストコースを国際サーキットにする事など興味深い項目が並んでいる。
まだ日本には鈴鹿しかオープンしていない時代。
1年後のオートスポーツには「第4のレース・コース "東京サーキット"建設計画の全貌」と題して4Pの記事が掲載されている。
(この記事が掲載されているオートスポーツ1966年4月号は電子書籍化して販売しているので、興味がある方は買ってみるといいかも。http://www.as-books.jp/books/info.php?no=AST19660401)
第4のレース・コースというのは、この時点で既に鈴鹿に加え、船橋・富士がオープンしているから四番目という事である。
この記事では、これら3つのコースのレイアウトと一緒に「東京サーキット」のレイアウトが掲載されている。
レイアウトの基本設計を簡単にまとめると
- おむすび型のオーバルのインフィールドにヘアピンやスプーンカーブを含んでいる。
- 外周オーバルが3.2km、インフィールドを加えると4km
- 幅員は12m
- エレベーションは最高8%
- オーバルのバンク角は8°~10°
コースの西側から西南側にかけて、一部が山林にかかっており、高低差のあるオーバルになるという。
ちなみにテクニカルコースとして知られるもてぎのオーバルも高低差があるそうだ。
それでも、最大8%勾配のあるオーバルというのはかなり特殊なのでは…
オーバルコースはシャーロットと同様の「おむすび型」のオーバルコースとして紹介されているが、絵は右コーナーが存在する豆の様な形をしている。
かつてアメリカには「Trenton Speedway」というオーバルコース(1980年閉鎖)があり、オーバルの中に右コーナーがあったが、東京サーキットでは実際に右コーナーを作る予定だったのか、それともポンチ絵がへろへろなだけだったのかどうかは定かではない。
ただ、これはあくまとして基本設計の段階なので、ごく初期段階であろう。
※Trenton Speedway
”<東京サーキット>の建設計画が世に出たのはいまから2年まえ。東京・千駄ヶ谷でハイヤー・タクシー会社を経営する張煥慶氏が提唱したものだった。さらに資金面で、イースタン観光(本社、東京・佐久間町)の藤本威宏社長が計画に参加、電通の島崎千里専務やJAF(日本自動車連盟)の竜村徳理事らが設立発起人、あるいはアドバイザーとして名を連ねるに及んでしだいに具体性をおびてきた。藤本威宏氏は一つ橋大出身のインテリジェンス経営者、父親の軍治氏は日本のオート・レース界の草分けとあって、<東京サーキット>にイースタン観光の資本が投入されることになったのは偶然とはいえないようだ。PR面は電通が担当し、強力な組織力にものをいわせてマスコミ対策を推進するであろうことは想像に難くない。”
(オートスポーツ 1966年 4月号より)
ここで更にポイントなのが、イースタン観光の藤本威宏社長という人物がこの東京サーキットの方向性を決定づけたのではないかと思われる。
電子書籍化した関連の記事として、この号と連動したオートスポーツwebの記事の中でもこの藤本威宏氏の父親、藤本軍治氏の解説をしている。
http://as-web.jp/as_feature/info.php?no=44#11_0
"1922年(大正11年)から1926年(大正15年)まで11回の日本自動車レースが開催されているが、日本に自動車レースを始めさせる強力な推進力となった人はジョージ藤本こと藤本軍次だった。藤本は昭和に入り、多摩川スピードウェイを実現させるのに力を尽くした人でもある。と、日本初の常設サーキットである「多摩川スピードウェイ」建設にも関わっている。
6歳のときに渡米し、1910年(明治43年)頃からポンコツ車を改造してレーサーに仕立て、全米各地を巡業してまわっていたが、1922年(大正11年)にハドソン・レーサーを持って帰国。早速、当時の有力な新聞だった報知新聞社の煙山二郎企画部長を訪ねて自動車レースの必要性を説き始めた。 "
”常設の自動車レース場をつくらなければいつまでたっても会場難は解消しないと、大正時代の日本自動車レースを推進した藤本軍次と当時報知新聞社企画部にいた金子常雄が目をつけたのは多摩川沿いにあったオリンピア球場跡地だった。日本スピードウェイ協会を推進母体につくり、敷地の所有者だった東横電鉄(現在の東急)を口説き落として、1936年(昭和11年)5月9日、日本で初めての本格的なサーキットである多摩川スピードウェイが誕生した。"(日本モーターレース史/桂木 洋二 より)
アメリカのモータースポーツを見てきた人間が多少なりとも関わっていると思えば、この「東京サーキット」をオーバルコースとして設計されるのも納得ができる。
レイアウトは純国産の設計が自慢だという。
当時存在した鈴鹿・船橋・富士には大小なりとも必ずは外国人のアドバイスや設計が入っている。
"既存のサーキットのうち鈴鹿はモンツア(イタリア)を設計したハウゲンホルツの手が加わっているし、船橋はピエロ・タルフィ、富士はスターリング・モスの助言を得てそれぞれ設計されている。いずれも国際的レーシング・ドライバーや有名なサーキット設計者の名前を使うことによって、ある意味ではコースを権威づけているわけだが、いっさいを国内技術者の手でまかなっている。"
(オートスポーツ 1966年 4月号より)(この辺の考察も先ほどのオートスポーツwebの記事が面白いです。)
しかし、純国産設計というのは別の記事を読むと少々疑問に思うが、これに関しては後々。
ここでポイントなのがサーキットの立地。
"西多摩郡秋多町まで、現在は甲州街道を西へ進み立川市のさき(日野橋)から右へ折れてざっと20km。将来は日本道路公団が建設する国土縦貫道路の中央道・八王子インターチェンジからサーキットまで都道を直結することにしている。そうなると都心の京橋からサーキットまで法定速度で32分で直結されるわけだ、"(オートスポーツ 1966年 4月号より)現在は圏央道のあきる野インターチェンジもすぐ隣にあるので、都心からのアクセスは抜群である。
"総工費は20億円以上。既存のサーキットと同様莫大な建設費だ。サーキットを建設することは、将来日本のモーター・スポーツがさかんになるのを見越しての先行投資という性格が強いが、<東京サーキット>ではレース・コースと合わせてレジャー・センターを同地につくって、家族で楽しめる、いわゆるファミリー・ランドを設ける予定でいる。"(オートスポーツ 1966年 4月号より)
本格的なサーキットが東京近郊に建設されようとしていたというのは驚きである。
都心近くからすぐに通えるサーキットがあったとすれば、関東の人々にもモータースポーツが親しみのあるものとなっていたのかもしれない。
1966年7月の「実業の日本」という雑誌でも、東京サーキットが取り上げられている。
"社名は「東京サーキット」(資本金六億円、社長、藤本威宏氏)、三月二十二日に設立され、さる五月二十七日、現地で起工式が行われた。"1966年の3月には「東京サーキット」という会社が設立され、これは先のオートスポーツにもオフィスの写真が映っている。
実際5月27日には現地で起工式が行なわれたということで、多少なりとも何らかの建設が始まったであろう。
"サーキットを、東京に至近の地に経営するというのは、各社の夢であり、東急、西武などの大資本もさかんに土地を物色していたが、地価の点で東京近郊はひじょうなコスト高になり、結局、あきらめざるをえなかったといわれる。この点、東京サーキットは、三年半ほど前から、東京一円を探し回り、秋多町に白羽の矢をたてたわけ。秋多町は農村人口の若い層が土地を出て、サラリーマン化し、収穫量も減るなど、将来に問題をかかえていた。ところが、サーキット進出の話があったので、町側も地域開発ということで、全面的にバックアップし、町有地の三分の一で提供してくれたことが、まず成功の第一歩となったという。全面積の七割が町有地で、のこりの三割が私有地、その地主二百六十人との交渉が、三月中にまとまり、こんどの起工式となったわけだ。 "当時の日本では、鈴鹿で開催された日本GPの成功を受け、レースイベントを日本各地で開催し、レジャー施設としての一環として様々な資本が様々な場所で建設計画を立ち上げたという。
前回紹介した「伊豆韮山サーキット」も日通の観光部門が立ち上げた計画だったし、船橋も巨大レジャーランド「船橋ヘルスセンター」内の一つの施設としてサーキットがあった。
鶏が先か卵が先かという差はあるが、鈴鹿・船橋には既に遊園地などレジャー施設など平行した経営も同時に行なっている。
サーキットだけでは採算が取れないというのは、今も変わらないだろうが、そういった事情があるのだと思う。
それにしても東急や西武のサーキット計画も知りたい。
"もう一つ、東京サーキットの計画は、レース場だけではなく、総合レジャーランド的な構想を含んでいることが注目される。東京にいまやただ一つ残された清流といわれる、秋川渓谷の河原ぞいに、長さ二百メートル、幅八十メートル、高さ二十七メートルのサマーランドと称する構造物を建て、冬でも二十八度℃の気温に保っておく。ちょうど常磐炭坑の温泉を利用して、熱帯樹を植え、話題になった「常磐ハワイアンセンター」と同じ着想だが、このサマーランドは規模的に約二倍の広さで、プールや演芸場などをつくり、都民のいこいの場所にしたい、というもの。もっともこちらは温泉ではないので、ボイラーでスチーム暖房というわけ。このサマーランドはことし十二月中にオープンされるという。すでにASWEBの記事でネタバレしているかもしれないが、結論を言うと「サマーランド」、東京サーキットの正体はまさに現在の「東京サマーランド」なのである。
このほか、自然美をいかした公園、多摩テックのような遊園地、あるいはサンケイ・アトムズのファームグランドを作るなど、多彩な計画がある。
大株主に電通、TBS、フジテレビ、ブリヂストンタイヤ、トヨタ、日産、帝王帝都電鉄などの有名会社が参加しており、資金力も充分、現在、総工費二十五億円の計画予定で、建設がはじまっている。 "
東京サマーランドのサイトにある沿革を見ると
http://www.summerland.co.jp/corporate/enkaku.html
"1966年(昭和41年3月)3月健全で、健康的な娯楽の提供を目的としたレジャーランド開設のため、現在の東京サマーランドの前身である(株)東京サーキットを設立。"
と東京サーキットの名前を見つけることが出来る。
では、どの段階でサーキット計画は頓挫したのか。
詳しいことはわからないが、もう少しサーキットを追ってみたい。
一方、CARグラフィック 1966年 9月号ではこう紹介されている。
"名称は"東京サーキット"でスポーツ・センター計画の一環として造られるもので、この東京サーキット建設予定地には、中央高速道路が42年6月開通予定で工事が進められており、サーキット完成時期も同時期になるみこみ。フーゲンホルツ他4人! 全然純国産設計じゃないじゃん!ってツッコみたくなる。
東京サーキットの設計は世界的に有名なコース設計者であるフーゲン・ホルツの他4人で、コースも大変おもしろくできておりスピードとテクニックの両コースをそなえた本格的なものである。 "
そして、先ほどの基本設計から多少進歩したであろうサーキットのデータも掲載されている。
<コース内容>
スピード・コース(外周) 3km
テクニック・コース(内周) 1km
幅 12~15m
登り最大勾配8%
下り最大勾配10%
カント 最大16度
カーブ:スピード・コース9カ所 最小半径70m
:テクニック・コース7カ所 最小半径25m
観客席 6000人収容
そして、続報がCARグラフィック1966年12月号に「着工まじかの東京サーキット」として報じられている。
"鈴鹿、船橋、富士につぐわが国4番目の東京サーキットが、東京西多摩の秋川ぞいの丘陵地帯に作られると聞いてすでに久しい。正式の名は「トウキョウ・インターナショナル・モーター・スピード・ウェイ」(資本金6億、藤本威宏社長)でサーキットの設計をフーゲン・ホルツ、P・タルフィ、マネー・ペニィ、バッチャ・カルトらに依頼中であったが、このほどそのデザインがほぼ決定した。
スピード用のアウト・コースはマネー・ペニィが担当(彼はデイトナ・ビーチ・スピード・ウェイを設計し、現在オクラホマ・テルサのサーキットを設計中のサーキット・コンサルタントである)、アウトコース内側のテクニック用イン・コースは、スターリング・モスがロドリグェス・サーキットを参考として設計をアドバイスしたという。最終的名設計図はまだ発表されていないが、アウトコースは全長2.4km、幅16~23m、最高エレベーション2.5%、登り下りとも各々1カ所ずつで、ほとんどフラットにちかい。高度差は10m、バンクは最高18%である。
イン・コースは全長1.2km、幅12m、最高カント5%以内。特徴は直角コーナー3カ所を有すること、400mのモーターサイクル用コースが続くなどである。
アウトとイン・コースは延べ4kmで、国際公認2輪コースとしての資格も可能である。
サーキットはインディアナポリスよりやや遅いが270~300kmのスピードが可能で、フォーミュラ・クラスも可能。アウト・コースにはガードレールは使用せず、コンクリート・ウォールによる幅30mのセイフティ・ゾーンをつくるという。コース以外の諸設備もまったくシンプルなものとなり、またサーキット周辺の交通などにもかなりの配慮が見られる。
来年8月オープン予定は、土工費が大幅に増えたため、やや遅れそうである。 "
正式名称としては「トウキョウ・インターナショナル・モーター・スピードウェイ」と非常にアメリカ然とした名称になっている。
それもその筈、外周のオーバルコースはチャールズ・マネー・ペニー氏が設計している。
このマネー・ペニー氏は記事の紹介通り、デイトナのオーバルを設計した人である。
そして、何より日本では富士スピードウェイの初期段階、オーバルコースとして計画されていた頃オーバルコースをデザインしたのもこのマネー・ペニー氏である。
※オーバル時代の富士スピードウェイ |
このオーバルコースは2.4km=約1.5マイル、バンク角18%=約10°、最高高低差2.5%となんともオーバルらしいオーバルが設計されている。
しかも、インフィールドはあのスターリング・モスがメキシコのエルマノス・ロドリゲスサーキットを参考にしたであろうレイアウトが設計されていたという。
スターリング・モスの日本での関わりといえば、またも富士スピードウェイが思い浮かぶ。
日本ナスカー時代に視察に来たスターリング・モスは富士スピードウェイの土地を見て、「オーバルは無理だ、ロードコースにすべき。」と原型となるコースを設計したという。 それを元に富士スピードウェイが設計されたのは有名な話である。
何かの繋がりを感じさせずには居られない。
※富士スピードウェイの完成予想イラスト |
そして、間は飛ぶが1967年の7月8日に屋内型レジャーランド「サマーランド」がオープン
どの様な経緯があったかどうかは分からないが、サーキット計画のみは頓挫し、サマーランドを始めとするレジャー施設はオープンし、現在に至る。
GoogleMapで現在のサマーランド周辺を見ると、屋内プール施設のある東側と、グラウンドなどがある西側に分かれている。
コースの西側から西南側が海抜200mの山林とあるとなると、現在グラウンドがある西側がサーキット建設予定地だったのかもしれない。
そう思うと、オートスポーツに載っていた変な形のオーバルコースの形も見えてくるのではないかと思う。
結果的に形は変わっていたかもしれないが。
「トウキョウ・インターナショナル・モーター・スピードウェイ」と呼ばれるオーバルコースはどういうレイアウトだったのかというのは、恐らく当時計画に関わっていた人々のみでしか見ることが出来なかっただろうが、おそらく立派でエキサイティングなものだったのだろうと思いたい。
東京サマーランドに出かけた際はこの幻のサーキットに少しでも思いを馳せてみてはいかがだろうか。
もし、今存在していたら自分はよく通っているだろうな…というしょうもない結論でした。
[追記]
2つ上、CARグラフィック 9月号と同じ頃、バイク雑誌であるモーターサイクリスト 1966年8月号には当時のレイアウト案を見つけることが出来たので、掲載したい。
コースの内容としては、CARグラフィック 9月号に掲載されていたデータを参照してもらいたい。
一番はじめに掲載されたオートスポーツ1966年4月号のレイアウトと比べると、インフィールドセクションの場所は多少変化しているが、外周オーバルコースの形はほぼ変わらないでいる。
ひょうたん型の様なオーバルコースになるのだろうかと疑問に思っていたが、どうやらこの形はほぼ決定していたようだ。
改めて考えると、これは土地の問題もありそうで、サマーランドの横を流れている秋川に沿ったレイアウトになるのは既に決定していた事なのかもしれない。
ちなみに、ここでも来年夏オープンとされている。
※こんな感じ?
オートスポーツ 1967年8月号の船橋サーキット閉鎖に関する記事の末尾にも東京サーキットに関する記述が多少ある。
"いっぽう東京の西郊に建設が予定されている東京サーキットは、この7月オープンしたサマー・ランドの収益を建設費に当てることにしており、オープンは早くとも来年の秋という見通しだ。"
この頃既にオープンしていたサマーランドの収益を建設費に回すという事で、サマーランドがオープンした当初でも、サーキット建設の計画は進んでいたという事が分かる。
この記事では船橋サーキットの閉鎖に伴い、大きく開いていたモータースポーツの間口を再び狭めてしまうのではないか、という趣旨の記事である。
当時は鈴鹿、富士、船橋しかオープンしていなく、関東で活動しているドライバーにとって船橋サーキットというのはとてもありがたい存在であったのは確かだろう。 当然ながら筑波はまだ無く、3年後の1970年にオープンする。
その船橋に代わるサーキットとして、関東のドライバーに東京サーキットは当時大きく期待されていたのではないだろうか。
余談ではあるが、2輪でお馴染みのヨシムラだが、60年代には自動車のチューニングにも乗り出している。
そのため、工場を1966年に現あきる野市、つまり西多摩郡秋多町に移転したそうだ。
これはつまり東京サーキット完成を見越しての工場移転だったのではないだろうか。
前述の通り、東京サーキットにはオーバルコースだけでなく2輪車用のオートバイコースが計画されていた。
当時純粋に"2輪車にも"目を向けて設計されたサーキットは鈴鹿サーキットしか無く、富士で初めて2輪のWGPが開催された際も、30度バンクの使用に関して危険を訴えたホンダがボイコットするという事件も起きた。
そういう点を考えると、関東かつメーカーの縛りがない2輪サーキットというのはとても貴重である。
当然サーキット自体が少なかった時代ではあるが。
そういう事で、東京サーキット近辺が現在の富士スピードウェイ周辺のように関東のモータースポーツの拠点になり得た可能性もあったわけだ。
トウキョウ・インターナショナル・モーター・スピードウェイ/
東京サーキット/八王子レース・コースの流れ
1964 ?月 東京サーキット計画が立ち上がる
1964-5 ?月 東京八王子市から西多摩郡秋多町の建設予定地が決定
1966年 3月中 地主260人との交渉がまとまる
1966年 3月22日 ㈱東京サーキット設立
1966年 5月27日 起工式
1966年 11-12月 サーキットデザインがほぼ決定
間もなく着工
1967年 7月8日 東京サマーランドオープン
(1968年 秋以降 トウキョウ・インターナショナル・モーター・スピードウェイ完成予定)
1970年 9月 ㈱東京サマーランド設立(東京都競馬株式会社 全額出資)
東京サーキット/八王子レース・コースの流れ
1964 ?月 東京サーキット計画が立ち上がる
1964-5 ?月 東京八王子市から西多摩郡秋多町の建設予定地が決定
1966年 3月中 地主260人との交渉がまとまる
1966年 3月22日 ㈱東京サーキット設立
1966年 5月27日 起工式
1966年 11-12月 サーキットデザインがほぼ決定
間もなく着工
1967年 7月8日 東京サマーランドオープン
(1968年 秋以降 トウキョウ・インターナショナル・モーター・スピードウェイ完成予定)
1970年 9月 ㈱東京サマーランド設立(東京都競馬株式会社 全額出資)
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