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2013年4月19日金曜日

大分県別府市特設コース/別府国際モータースポーツカーニバル(大分県)

ここでは国内モータースポーツ初の市街地レース計画「別府国際モータースポーツカーニバル」について取り上げる。

1982年9月のオートテクニックでは別府市で公道レースが行われ、F2かGCレースが行われるだろうといった趣旨の記事が掲載された。

数カ月後には詳細な計画が掲載され、F2レースを国際格式かつ全日本選手権、もう一つグループC等の耐久レース車両でのスプリントレースの2つがメインイベントとして開催される他、スターレット・パルサー・シビック等のワンメイク車両でのレースなども行われるとされている。

当初の計画では、特設コース内での4輪レースを行った一週間後、別府市から北西にある陸上自衛隊十文字原演習場を使い、4輪によるラリー・ダートトライアル、2輪モトクロスなどを行う計画もあったが、こちらは早い段階で計画から外されている。

他にも別府市内でのパレードや自動車展示会、映画上映、グッズ販売などレース以外にも沢山のイベントが計画されており、正しく「モータースポーツカーニバル」と言った様相であった。

計画では、別府市中心部から北東にある別府国際観光港の埠頭とちょうど目の前を通る国道10号線の一部を使う1周2.5km程度のコースの予定だった。
当時港は造成中であった。

レースコース略図 

メインレースとの一つとなっているのは当時国内で人気を博していた全日本F2選手権である。
当時全日本F2が行われていたのは鈴鹿・富士・西日本(現MINE)の3サーキットで、主に鈴鹿サーキットを中心に開催されていた。
この全日本F2選手権の1戦としてこの別府が組み込まれる予定だった。
国際格式での開催との事で、海外から選手などを招聘する意図もあったのかもしれない。
もう一つ、グループC規定でのレースが始まり、熱も高まってきた耐久レース車でのスプリントレースもメインレースとなっている。
このスプリントレースでは全国のサーキットを耐久・スプリント共に行いながら転戦していく「インタースーパースポーツシリーズ(仮称)」というシリーズ戦の1戦として組み込まれる計画だった。

この別府市街地レースを企画したのは別府市観光課である。
温泉旅行が下火になってきており、別府市への観光客が減ってきているという現状から町興しとしてのレース開催の計画であった。
別府では当時からハングライダー大会やマラソン大会などのスポーツ大会も開催しており、そのような流れでモータースポーツも開催出来ないだろうかという流れになったようだ。
当時の別府市長、脇谷市長も1982年のカーグラフィック12月号では
うちは観光都市ですから、人を集めなければならないわけです。ところが温泉地の全国的な傾向なんですが、若い人がだんだん遠ざかってしまっている。(中略)
特に今度は車、車は誰でも関心を持っているでしょうから、これまで以上に多くのお客さんを呼べるでしょう。6~7万人は期待していますね。もちろん、これは1回限りではなくて、少なくとも5年は続けてやりたい。そのために恒久的なコンクリートフェンスなども、市の予算をちゃんと組んで作らなければならないでしょうね。
と市としてもかなり熱心にイベント開催に取り込んでいる事をインタビューで語っている。

市と共に計画を進めていたのがVICIC(ビクトリー・サークル・クラブ)である
VICICは日本各地でレースのオーガナイザー、プロモーターとして活動しており、当時はWEC(世界耐久選手権)を日本に初めて呼び込み、その勢いで日本初の市街地公道レースを実現させようという流れである。
そこにWECジャパンではラジオやテレビなどのメディアでのプロモーションで関係していた広告代理店の電通も企画に参加している。

しかし、1983年のカーグラフィック3月号では早くもレースを1年延期するという記事が掲載された。
ここでは国道を使うことはやめる事になり、観光港の湾内道路と駐車場を使いコースを構成するのは変わらないが、レースを開催するには十分な敷地が確保出来ないということが分かり、拡張が必要との事で一年延期ということになった。

ここからしばらく計画は表沙汰に上がる事はなく、結局1984年1月のオートテクニックでは公道使用の警察との合意が進んでいなく保留という形になり、そのまま計画は頓挫したと思われる。

しかし、この別府のレースが契機となり様々な都市で市街地レースが企画されたとのことだ。



2013年4月10日水曜日

船橋サーキット (千葉)

船橋サーキット

距離:1.8km/2.4km/3.1km 左回り

コース幅:15.75m~9m(スクールコース 60m)

船橋サーキットは当時千葉県船橋市に存在していたレジャーパーク、船橋ヘルスセンター内の施設として存在したサーキットである。

(国土地理院 1966年の航空写真より)

コースのレイアウトは元F1ドライバーで、優勝経験もあるイタリア人のピエロ・タルッフィ。
タルッフィは当時、日通が建設を計画していた伊豆韮山サーキットのアドバイザーとして来日していたが、諸般の理由で頓挫し、その後すぐに船橋に来たようだ。
ファルッフィは他にもドライビングテクニックの講師として来日したり、ドライビングテクニック本が日本で翻訳されたりと日本に馴染みが深い。

(鎖線が3.1km/点線が2.4km/実戦が1.8km)
タルッフィのアドバイス通りに設計されたサーキットは埋立地をフルに使われたコンパクトでテクニカルなレイアウトである。
サーキットは主に外周コースと、インフィールドに設けられた60mもの幅を持つ舗装路のスクール・コースで成り立っている。この2つのセクションを組み合わせて主に3種類のレイアウトを作ることが出来た。

外周コースはホームストレートから多少下りつつ1コーナーを抜け、飛行場沿いにある約550mのストレートを進む。
その後S字カーブを抜け、靴下の様な形をしている事から名付けられたソックスカーブを抜ける。
ヘルスセンター名物の一つでもある「ゴールデン・ビーチ」と呼ばれる人工海岸を横目にダンロップブリッジをくぐり、最終コーナーを抜けて一周となる。 これが1.8kmのレイアウトである。

2.4km/3.1kmのレイアウトを使用する場合は、ダンロップブリッジ前の分岐を左に曲がり、スクールコースをそれぞれ抜けてからホームストレートと互い違いになっているピット前のストレートに進む。
そこから右コーナー、左ヘアピンと進み、元の外周に戻ってくる。
このレイアウトの場合はグランドスタンド前を2度通って1周してくることになる。

スクール・コースではジムカーナ等が開催され、やろうと思えば外周コースとスクール・コースでそれぞれ2つのイベントを開催することも出来た。

(勾配表 殆んど平坦である)
当時は鈴鹿サーキットが1962年に開場し、近代的なサーキットとしては日本2番目に開場した。
ちなみに富士スピードウェイは1966年開場である。

(建設中の船橋サーキット)

1965年の7月1日に船橋サーキットが開場した。
船橋サーキット最初にして最大のレースイベントとなったのが、船橋サーキットのオープニングイベントにもなった全日本自動車クラブ選手権レース大会通称、船橋CCCレースである。
7月17-18日に開かれたこのレースは、当初5月に鈴鹿サーキットで開催予定だった第3回日本グランプリが急遽中止になったために開かれた代替レースだった。
自動車クラブ対抗戦として行われたこのイベントだが、このイベントが船橋サーキットを語る上で欠かせないイベントになっている。
その中でも、浮谷東次郎の駆るトヨタスポーツ800、ロータス・エランでの雨中の激走が今でも語り草になっている。
詳細は船橋CCCレースに関するWebページや「日本のレース100戦」などを参考にして貰いたい。

船橋CCCレースの様子
都内から近い地の利を生かし、レースイベントの他にも自動車クラブの練習場として使われたり、レンタカーでの走行なども人気を博していたという。 ちなみに当時の記録によると、スポーツ走行が1時間1500円、レンタカーは1周180円である。(1965年の参考:ビール120円、たばこ30円)
しかし、開場から3年ほどになる1967年の春頃からサーキットがオートレース場になるという噂が立った。
当初は否定していたものの結局はサーキットは閉鎖され、オートレース場として転用されることになった。
当時、船橋オートレース場は北東にある船橋競馬場の内側にダートコースとして存在していた。
ちなみに日本最初のオートレースが開催された由緒正しき場所でもある。 しかし、オートレースが舗装化されることにより、代替地の検討が始まっていた。 そこで船橋サーキット側の方からサーキット敷地を移転先として提案したそうだ。 その背景には、サーキット経営での採算が取れないという問題や、イベント開催に関してJAFとの確執などもあったという。 結果、1967年7月31日をもって船橋サーキットは閉鎖される事になった。 3年間の間に三十数レースが開催された。 その後、サーキット跡地に建設された船橋オートレース場はサーキットの丁度ホームストレート・ピット辺りにコースが出来ている。 開場当初からしばらくは船橋サーキットのグランドスタンドがそのまま利用されていたようだ。 現在は船橋ヘルスセンターも閉場し、跡地はららぽーとTOKYO-BAYとなった。 サーキットの跡形はなく、オートレース場のコース、駐車場、一般道になっている。 ソックスカーブ辺りは京葉線・東関東自動車道が通っている。 辛うじて当時のプールに沿った辺りの駐車場の形状でサーキットの形が多少分かる程度である。 噂では駐車場の舗装が剥がれている所から当時のサーキットの舗装が覗いているとの事もあるそうだ。 東京から1時間以内で行ける本格的サーキットとして2年のわずかな期間のみ使用された幻のサーキット。 その2年の間に当時のライセンス保持者の1/3がこの船橋サーキットで取得したと言われている。 現在に繋がる日本モータースポーツ史の中でも重要な場所の一つであることは間違いないだろう。 大きな地図で見る


YouTubeにアップロードされている船橋サーキット関連の映像まとめ

2013年3月9日土曜日

西仙台ハイランド/仙台ハイランド・レースウェイ(宮城県)-未完

西仙台ハイランド・レースウェイ/仙台ハイランド・レースウェイ
2013/03/09記事公開
2021/02/18一部追記

西仙台ハイランド・レースウェイ(現 仙台ハイランド・レースウェイ)は1986年9月13日にオープンしたサーキットである。

サーキットの計画は1985年10月に西仙台ハイランドを運営する㈱青葉ゴルフが計画を発表している。
元々、遊園地やゴルフ場の他にカートコースが先にオープンされており、全日本戦なども開催されていた。

当初の計画では、3715.07mのコースとしていた。
(AS 1986年2月15日号)

その後、後半部分のレイアウトを変更し3761.08mのコースとされている。
(AS 1986年3月1日号)
コースはヨーロッパ式のロードコースで、ブーメランのような形状をしている。
標高差は約20mで、コース幅も12~15mとごく標準的である。
当初からFIAの国際コース公認を取得する為に設計されていた。
つまり、何らかの世界選手権の開催を前提として、設計段階からJAFだけでなくFISA(国際自動車スポーツ連盟)などとも連絡を取り設計されていた。
その為、当初のレイアウトから、安全上の理由の為数度レイアウトの改善を求められている。

(AS 1986年6月1日号より)

当初、1986年5月末にコースが完工予定だったがFISAからの改善指示により、完工が8月、オープンが9月にずれこんだ。
そのため6月に初のビッグレースとして開催予定としていた全日本耐久選手権の開催は無くなっている。

その後、更にレイアウトの改善があり、ついに西仙台ハイランド・レースウェイが完成、1986年9月13日にオープンとなった。
(1988年の航空写真)
結果、コース全長は3771.9m、最大標高差37.3mのコースとなった。


最初のビッグレースとして、翌週の1986年9月20日に全日本ツーリングカー選手権第4戦が開催された。

翌年、1987年WSPCの仙台ラウンド「ワールド・スーパースプリント・イン仙台」は9月27日に富士スピードウェイで行われるWEC-JAPANの翌週である10月4日に予定されていた。
このレースには富士のWEC-JAPANの耐久から一転、名前の通り約360km(96周)のスプリントレースとして、行われる事となっていた。
仙台市と仙台市教育委員会が全面バックアップし、仙台市内のアーケードにてグループCカーの展示やパレードが行われる予定だったなど、仙台市も万全の受け入れ体制で臨んでいた。

しかし、富士のWEC-JAPANの終了直後に急遽仙台ラウンドのキャンセルが決定された。
コースの安全性が確保出来ず、国際レースコースとしての条件を満たしていないため。というのが理由だった。

開催に先立ち、FIAやJAFなどがコースの視察に訪れ、コースの改善点などを指摘しサーキット側も対応していたが、一部FIAとJAFでの改善点の基準の食い違いがあったという事もあり、プロモーターや運営会社の責任だけでなく、JAFなどにも落ち度が合ったのではと当時のモータースポーツ雑誌などでは指摘されている。
国際格式ではなくJAFによる国内格式によるレース開催も考えられたが、結局最初で最後となる仙台ハイランド・レースウェイでの世界選手権は行われることなく終わった。



8:45頃から当時のCM


つづく。

2013年3月6日水曜日

大朝国際サーキット(広島県)



大朝国際サーキット

広島の新サーキット、92年にオープン予定 サーキットを核としたレジャーおよび健康のための施設「ナムアLAND」の開発準備室として87年10月に設立された㈱ナムアでは、「大朝国際サーキット」を92年10月にオープンする予定との正式発表をした。
計画では、3.7km以上の国際格式サーキットのほか、精神のやすらぎを見つめる「聖地」をはじめ人びとが集い、食べ、遊び、やすらぎを見つける「ナムアハウス」、オートキャンプ場、スキー場、スポーツ村、食べ歩き村、ファッション村、ペンション村、健康村、国際交流学校などの施設を10年計画で進めるとのこと。
すでにサーキット用地の40万ヘクタールについては買収済みで、予算は45億円。最終的には85億円に達するという。
大朝町役場・企画室長の斎藤氏は「まだ協議段階であり、開発申請もまだです。しかし、町としては枚向きに検討を進めています。このような施設の場合、周辺の交通問題も出てきますので、県と共同で検討していきます。現場は森林地帯ですが、周囲に集落がふたつあり、約200人の住民の、騒音問題などこれから調整が進められると思います」といっている。
なお、「大朝サーキットクラブ」の理事長は横浜大洋ホエールズの古葉竹識監督、コース設計アドバイザーは、元レーシングドライバーの藤田直廣氏。「横浜にサーキットを建設するという話で協力しました。安全性が高く、高速コースをと考え、ストレートを長めにしました。アップダウンの関係でまだわかりませんが、平均速度がF3000クラスで180km/hくらい。鈴鹿よりも高速コースですね」と藤田氏はいう。
広島市内から50kmに予定されている「ナムアLAND」が、モータースポーツファンの「楽園」となることを期待したい。
詳細不明




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2013年2月19日火曜日

SSPジムカーナ場(神奈川県)


SSP(セントミ・スピード・パラダイス)ジムカーナ場
(※一部にサカイ・スピード・パラダイスとの表記もある)

(オートスポーツ 1970年2月号より)

外周230m
幅員:最大 6.5m
        最小 5.5m















東京近郊にジムカーナ場出現!! 
船橋サーキットが閉鎖されて以来、東京近郊には適当なコースがなかったが、このほど千富美観光㈱が、神奈川県川崎市鉄(くろがね)町にジムカーナ場(名称SSP)の建設を進めている。国道246号線から少しわきにはいったところで、二子玉川より車で15分、コースはリトルFISCOのようで、全長330mだから規模は大きくないが、将来拡張も考えられるということだ。オープンは10月中旬の予定。ここがオープンされれば、関西びわ湖スピードランドと並んで、関東のジムカーナのメッカになるだろう。 
(オートテクニック 創刊号より)
(1970年の航空写真より)

1970年12月14日にオープンしたジムカーナ場がこのSSPジムカーナ場である。
神奈川県横浜市緑区の田園の中を入った場所にあったこのコースの規模かなり小さく、用途通りジムカーナ以外には使えないような小さなサーキットであった。
それでも、当時としては都心に近くリーズナブルで騒音問題にも影響されないコースとして、関東のジムカーナ同好者にはかなり重宝されていたようだ。

外周の大きな円を描く30Rコーナーは14度のカントが付けられており、小さな円とそれを突っ切る十字、S字が組み合わされている。

千富美観光(株)が所有しており、代表の酒井氏がジムカーナによる自動車運転技術の向上をかかげ、酒井氏の弟とともに田んぼを潰して整地作業に励んだという。
その後、聞きつけたジムカーナフリークが共に整地作業に参加し、コース基礎、舗装、パドック以外はすべて自分でこしらえたという。

少なくとも2-3年は関東のジムカーナの拠点の一つとして毎月盛んにイベントが開催されていた。
しかし、1974年頃に地域の開発に巻き込まれ取り壊されてしまったようで、住宅地となり跡形も無い。
現在は横浜市青葉区すすき野という地名になっている。



※大体の位置

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2013年2月14日木曜日

球磨郡山江村のサーキット(熊本県)


熊本県南部にサーキット建設構想 
九州自動車道の延伸見越して 
 熊本県南部の球磨郡に自動車レース用のサーキットを建設する構想が浮上してきた。このほど株式会社になった地域おこし組織に新相良藩カンパニー(本社熊本県人吉市、社長田中信考氏)が誘致しているもので、レーシングチームを所有している企業に働きかけを強めている。その企業は担当者を球磨郡山江村に派遣して、用地取得の打診を始めた。サーキットは一周4キロメートル程度で、100ha程度の用地を考えている。用地費は約1億5,000万円の見込みだが、関連投資を含めると総事業費は40億~50億に上るとみられている。現在は八代市まで開通している九州自動車道が64年に人吉市まで延びるのを見越した構想で、レースを月に2、3回、1回に2万~3万人の観客を集めたいという。(日経地域情報 1987年8月)



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タチバナサーキット(福岡県)

タチバナ・サーキット

九州に国際サーキットの建設計画が進行中

福岡県立花町辺春に国際サーキット建設の計画が進行中だ。
この「タチバナ・サーキット」(仮名)は、モータースポーツファンの平田博氏が立案したものだ。国道3号線沿いの山林120ヘクタールに、全長4km、コース幅12~15m、5万人の観客スタンドを65年末までに建設の予定。総工費は60億円、レジャー施設などの付帯設備を含めると90億円に達する。
昨年10月にそれまでの会社を退社した平田氏が、企業回りをした結果、日本舗道を始め、地元企業など5社の出資が可能になったとのことだ。
すでに地権者の同意を得ており、立花町役場では調査研究会を設立して協力する方針だ。
熊本、大分などもサーキット建設の計画が進められている九州だが、それぞれが順調に建設されると、まさに九州はモータースポーツ天国となりそうな気配だ。
(オートスポーツ 1988年 8/1号)

詳細不明



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