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2018年1月9日火曜日

伊豆韮山サーキット (静岡)

2013/01/18 記事公開
2018/01/09 記事改訂

伊豆韮山サーキット

1962年、日本で初の本格的な常設サーキットである鈴鹿サーキットがオープン。
翌年には第1回日本グランプリが開催され、日本でも現代的な自動車モータースポーツが脚光を浴びた。それにより、日本各地でサーキット建設の計画が立ち上がった。
その中の一つ、伊豆韮山サーキットについて紹介したい。

まず、インターネットで伊豆韮山サーキットについて検索すると、上位に出てくるYahoo知恵袋の記事では伊豆韮山サーキットの場所は静岡県伊豆市修善寺にある日本サイクルスポーツセンターだと紹介されているが、実際は伊豆の国市韮山に予定されていた。


物流事業の日本通運は1964年に「日通伊豆観光開発」という伊豆での観光事業に関する会社を立ち上げる。韮山に観光施設の建設を目論み、百万坪の土地にゴルフ場、ホテル、遊園地、そしてサーキット場が計画された。
このサーキットが伊豆韮山サーキットである。
日産自動車、日本鋼管、大成建設、間組などが計画には参加していた他、株主として全自動車メーカーが名を連ねていたという。


サーキットの設計には元F1ドライバーで、優勝経験もあるイタリア人のピエロ・タルッフィが招かれた。
タルッフィは第2回日本グランプリの名誉総監としてアドバイスを行なった他、ドライビングテクニックの講師として来日したり、ドライビングテクニック本が日本で翻訳されたりと日本に馴染みが深い。
後述するが、船橋サーキットの設計にも関わっている。

サーキット規模としては、鈴鹿サーキットの2倍半という広大なものであったという。
(※コースの距離か、サーキット場自体の敷地面積なのかは不明)
1964年当時、翌年開催予定だった第3回となる日本グランプリの開催地に関して、JAFと鈴鹿サーキットの間でいざこざがあり、1965年の第3回日本グランプリは結局開催取りやめとなってしまった。
この際、伊豆韮山サーキットが完成した場合は日本グランプリの開催地間違い無しとも言われていたようだ。
しかし、
"伊豆韮山に目論まれていた日本通運のコース場建設計画は、用地問題で地元の反対にあい、一時ストップのようだが
と1965年のオートスポーツに記述があり、この頃には既に計画がペンディングになっていたようだ。

日通伊豆観光開発の斉藤辰馬専務はこう説明する。
「タルフィーに現地を見てもらったところが、理想的なレース場を作るには、どうしてもあと二十万坪はいるという。ところが土地を買い増ししても、地上権や、森林法で伐採ができないし、農地転換の問題がからんで来るので思うようにいかない。だから当時は、涙を飲んで計画を棚上げし、将来の捲土重来を期しているのだ」(財界 1965 4月 春季特大13)

森林・自然保護の点で批難が湧き、これらの理由を元に静岡県から農地転用の許可が出なかった。
更に1966年、同じく静岡県で富士スピードウェイが開場したが、レース開催の度に付近での著しい交通渋滞が発生。近隣の住民から苦情が出ていた事も静岡県の印象を悪くした。
当時の富士周辺の渋滞はインフラ整備がままならなかった事もあるが、現在から比べるととてつもない観客が来場していたのだ。
これらの原因から日通伊豆観光開発はサーキット建設が出来なくなってしまった。

さて、このサーキットは1965年に開場した船橋サーキットと繋がりが深い。
このサーキットがどう船橋サーキットに繋がっていくのか。
元々日通の観光事業設立の際、株主にサーキット建設を公約していたためサーキット建設は避けられない形だった。
そこで日通は船橋ヘルスセンターを開発運営していた朝日土地興業と合弁の形で船橋サーキット建設の運びになったという流れだった。
その流れで、ピエロ・タルッフィが船橋サーキットのコース設計に関わった。
間髪入れずにピエロ・タルッフィがココ(船橋)にやってきて、この狭さでも充分にサーキットができると言うわけです。
それにしても、なんでタルッフィがすぐに来たんですかね。後になって、どこか別のサーキットの打ち合せで来たのがポシャって、で、コッチに来たんだという噂も聞きましたけどね。
(日本のレース100選 vol003 '65 船橋CCC)
とインタビューの中で語っている。その"どこか別のサーキット"が伊豆韮山サーキットだった。
この辺り、時系列が前後している事については今後も追加で調べていきたい。

サーキット建設が頓挫した後も伊豆韮山での遊園地の計画は続き、1966年に「日通伊豆富士見ランド」として遊園地が開業。
その後、運営会社が変わるという出来事もあったが、1999年に遊園地が閉鎖されている。
伊豆富士見ランド - wikipedia
その後、日通の「日通伊豆研修センター」という施設が跡地に完成している。


※東側の土地が伊豆富士見ランドだった敷地。アトラクションの一部が廃墟になっている。

余談ではあるが、伊豆富士見ランドにはモトクロス場が存在していたという。

2018年1月8日月曜日

阿蘇インターナショナル・スピードウェイ(熊本県)

2013/04/24 記事公開
2018/01/08 一部追記・修正、サーキット建設地を追加

阿蘇インターナショナル・スピードウェイ(仮称)
フルコース:6.01km
東コース:3.91km
西コース:2.18km

(モータースポーツ・レーシングサーキット事業開発・運営実態資料集より)

 九州にサーキットふたつ!?
このところ日本各地でサーキット建設計画の噂が絶えないが、最近になって、熊本と鹿児島でも同様の計画が進められている事が明らかになった。
前者は九州産交(本社・熊本市、岡陽一社長)が手掛ける「阿蘇インターナショナル・スピードウェイ」(仮称)。
阿蘇外輪山付近に1周6kmのコースで、レジャー施設を含めた総工費は70~80億円。64年度中に着工し、65年度中にまず東コースを完成させるという。
(カーグラフィック 1988年 9月号より)
(※昭和64年→平成元年・昭和65年→平成2年) 

熊本県阿蘇郡阿蘇町(現熊本県阿蘇市)に建設が計画されていたサーキット。
地元の九州産業交通が主体となっていた。

コース内容としては1989年中に東コースを建設し、第2期工事として続いて西コースを建設する予定だったようだ。

熊本のドライブコースとして有名な「ミルクロード」沿いに建設が予定されていたが、ミルクロード沿いは国定公園の特定地域となっていたため、国定公園絡みの調整でも手間取っていた他、霧も多い地域だったという。

(現在の航空写真とコースを重ねた図)




当時、この周辺では建材(=レイトンハウス)が阿蘇市の西側に隣接する産山村にF1開催規模のサーキット建設計画を発表。
更に北側の県境を超えた大分県上津江村では既にサーキットの着工に入っていた。
これが今の「オートポリス」である。
なんと、オートポリスと阿蘇スピードウェイは直線距離で約6kmの近さであった。

阿蘇市から約15km圏内にF1開催が可能なサーキットが3つも計画されていたという、まさにバブル期のある種狂気じみた程のF1・モータースポーツバブルを象徴するような事柄だろう。

2017年9月4日月曜日

市街地レースを考える (2013)

※この記事は2013年に書いてそのまま下書きのまま放置していた記事です。
当時の情報になっているので、現在と状況が異なる場合がございますのでご了承ください。

スウェーデンを始めとした北欧で行われているSTCC(Scandinavian Touring Car Championship)は北欧各地で人気を博している。
以前まではWTCC等で使われていたS2000規定に準拠したマシンで戦われていたが、前年からは、TTAと呼ばれるDTMのようにワイドなエアロのシルエットフォーミュラになり、パワーアップした車両が使われるという。(追記:2017年現在はTCR規定にて開催している。)
開催されるサーキットは、スウェーデン国内の常設サーキットが主を占めるが、他にも競馬場にアスファルトを敷いて使用した仮設コース、飛行場を利用したコースなど、仮設コースでもバラエティに富んだ開催地で行われているのだ。
その中でも、ヨーテボリ(Göteborg)でのレースに注目したい。
ヨーテボリは市中の中心を川が流れ、すぐ海につながっている湾港都市で、古くから貿易で栄えたという。
その街の中心を流れる川にある埠頭に特設コースが作られているのだ。

名前は「Eco Drive Arena」。距離は1.5km程度で、道幅も非常に狭く、ガードレールも近い仮設コースだ。






埠頭の先端に作られた半常設サーキットで縦長で狭いながらもピット、観客席などをコンパクトにまとめている。


公道での市街地レースを開催するハードルはとても高い。
道路を数日間封鎖し、交通を妨げる。サーキット周辺設備の準備にもかなりの時間がかかるだろう。
こういった所から、警察署からの返答は大抵の場合NOを突きつけられる事が多いというイメージが有る。
だが、実際にとある市街地レースの計画に関わっていた方から聞いた話だと、きちんと条件さえクリアしていれば警察の許可は難しくないらしい。これは個人的には驚きだった。
しかし、最も重要なのは地域住民や企業などのコンセンサスを十分に得なければならないということだ。
例えば公共施設。警察署や消防署、病院の目の前の道路でレースをするという事は、100%あり得ない事になる。まず、許可は降りないだろう。
もちろん、レースウィークは騒音や通行規制で地元住民が苦い顔をする事もある。
モータースポーツという物に対する理解がない方々も沢山いるはずだ。

現在、スーパーGTにて沖縄・豊見城市での市街地レース開催を目指しているが、これは商業用地のため、民家が完全にない地区を選んで開催を目論んでいる。
まだ、商業用地としても企業の数も少なく、空き地も多いように見られるから、企業との交渉も比較的スムーズにとり行えるのではないだろうか。
(2017追記:豊見城市でのレースを進めていた組織の代表が2014年に亡くなってしまい、そこから進展はない)

市街地レースでの開催は難しい、しかし、比較的街中または近距離で開催したい。
そう考えた時に、このヨーテボリのような埠頭や埋立地や空き地などを使った半常設の臨時サーキット建設がいいのではないかと思った。

問題としては、面積の問題としてかなりこじんまりとしたサーキットになってしまうのではないかと思われる。
ヨーテボリの場合も、ツーリングカーレースだからギリギリ成り立つようなサイズのサーキットである。
例えば、日本のトップフォーミュラであるスーパーフォーミュラや、GT500とGT300の混走で行われるスーパーGTは難しそう。
スーパーGTはクラスを分けて開催することは出来るだろう。
両シリーズ共にピット作業が必要なため、ピットも広めに取らなければならないだろう。
何よりレースを見世物として考えた場合に、オーバーテイクも少なく単調な行列レースになってしまうこともあり得る。

モータースポーツの魅力を伝えるには、やはり実際にレースを観戦するのが一番ではないだろうか。
しかし、地方のサーキットにレース観戦に行くには腰が重くなるのが一般的だろう。
だからこそ、サーキットを街に持ち込んで、レースをやるというのはモータースポーツの更なるファン獲得にも繋がるのではないだろうかと考える。
自家用車がなくても、公共交通機関で気軽に見に行けるイベントを開催してみてはどうだろう。
毎年お台場でやっているデモランでは物足りない。実際のレースの魅力を伝えるにはレースそのものを間近で見てもらうのが一番手っ取り早い。
そんなヒントがこのヨーテボリにはあるのではないかと思う。

(2017追記:ヨーテボリのレースは2014年以降開催されていない)

2017年9月2日土曜日

力道山による相模湖のサーキット (神奈川県)

"相模湖畔に"力道山の夢"
50万坪の総合観光センター リキ観光開発
まず大ゴルフ場(来月竣工) レジャー施設を集大成
 プロ・レスラーの力道山(百田光浩氏)は「リキ観光開発株式会社」(代表取締役・百田 光浩)をこのほど設立、神奈川県津久井郡相模町「間(あい)の山」南側一帯約百六十五万五千平方㍍(五十万坪)の土地にスポーツ・ランドを建設することになった。現在の計画はゴルフ場、自動車レース場、ボーリング場、スケート場、水泳プール、射撃場、洋弓場のスポーツ施設とモーテルをつくり、完成のあかつきには観光遊覧地とするもの。
 同地帯は東に津久井湖から高尾山、西は相模湖を一望に見渡せる丘陵地帯で、四十一年には目下進行中の東京都心からの弾丸道路が完成する予定で、完成すれば都心から約三十分で到着できる。
 第一期工事はチャンピオン・コースのゴルフ場の建設で、既に相模町の公私有地の買収を完了し、測量を終わって「レイクサイド・カントリー・クラブ」と命名、七月から本格的工事に着工、明年十月に開場する予定。
 公費は約十五億円。設計は井上誠一氏(関東地方の一流コースの霞ヶ関、龍ケ崎、川崎国際、旧軽井沢、武藤、那須、日光、大洗、大利根、鷹之台、湘南、戸塚、読売などの設計者で、ゴルフ場設計の第一人者)で、ゴルフ場の完成後、他の施設に着工する。
力道山の話
 スポーツに育ち、スポーツに一生を捧げる私の蘇生の念願は、広く人々に楽しんでもらう施設をつくることだ。すでに都内にはリキ・スポーツ・パレスをこしらえたが、こんど相模湖畔の広大な土地に総合レクリエーション・センターを建設する計画を立てた。最初にゴルフ場をこしらえるが、どこのコースにも負けない"日本一"のものをこしらえたい。そして安い費用で多くの人々に楽しんでもらうのだ。私は自分がゴルフ好きだし、世界の有名なゴルフ場を自分の目で見、プレーしてきた。だからゴルファーの立ち場から理想的なものをつくりたい。計画は順調に進んでいるので、予定通りオープン出来るだろう。"
(日刊スポーツ 1963/6/7)

力道山はプロレスリングでの膨大な収入を元に起業。
60年代初めには東京都内で不動産やレジャー施設、常設プロレスリング会場などの経営をしていた。
その延長から計画されたのが、相模湖畔の総合レクリエーション・センター。
先行したゴルフ場建設の後に計画の一環として、サーキット建設が予定されていた。
どの施設も巨額の投資を投じて作られた当時では豪華なもので、このゴルフ場の計画やサーキット場、その他レクリエーションセンター全体の計画を見ても莫大な物となっている。

"またプロレス力道山も相模湖近辺に世界一の自動車レース場を作る原案を持っている。"
(日刊スポーツ 1963/6/12)

力道山は様々な趣味の中に自動車もあり、当時最先端の四輪・二輪を所有していたという。
メルセデス・ベンツ300SLを所有していたというのも有名な話。
そういう事から自動車に関しての造詣は深そうだ。

しかし、同年12月に力道山が刺殺されるという事件が起き、ゴルフ場の建設は中止された。
なお、ゴルフ場「レイクサイド・カントリー・クラブ」に関しては一部着工していたようである。
後に跡地は売却され、1972年にはさがみ湖ピクニックランド(現さがみ湖リゾート プレジャーフォレスト)という遊園地となった。

2017年8月26日土曜日

ニッポンサーキット(千葉県)

2017/8/26記事公開
2021/10/23 追記 


千葉県下にサーキット誕生か
 またひとつサーキットの建設が計画されている。昨年5月に発足したニッポン・サーキット㈱が千葉県・市原市に建設をもくろんでいるニッポン・サーキットがそれだ。
このほど明らかにされた"計画書"によると、コースの形状はイタリアのモンツア・サーキットに類似したオーバル・コースとロード・コースの複合型で、オーバル6km、ロードコース4km、オーバルの1部とロード・コースの1部をあわせた外周10km―ーが考えられている。幅は12~18m。エレベーションは上り最大10%、下り最大12%。カントは最大18度。半径25mから80mのカーブが10ヶ所。観客収容能力は少なくともグランド・スタンドが2万人、自由席が20万人ていどのものにしたいといっている。
 ただし、これはあくまでも基本的なもので、具体的な設計は、モンツアや日本の鈴鹿サーキットを手がけたフーゲンホルツに依頼することにしている。フーゲンホルツは近く来日の予定という。
 用地面積はおよそ33万平方メートル(約100万坪)。建設予定地として白羽の矢が立った千葉県・市原市の南部はほとんどが山林で、約67世帯が所有している私有地だ。しかし、買収にかんする話し合いは、地元の農業協同組合のあっせんで順調に進み、近く第1回めの支払いがおこなわれるということだ。
 ニッポン・サーキット㈱の資金計画によると、建設事業日は約35億円、内訳は用地代金が12億9700万円、建設工事費が21億3570万円、設計費3000万円、その他が運転資金となっている。現在の授権資本は1億6000万円。いまのところ払い込み資本金は4000万円だが、近く特別融資金として15億円を調達し増資に踏みきるという。
 同社では、フーゲンホルツの来日後、基本設計におよそ2ヶ月をついやし、68年初めに工事にとりかかって同年中にオープンするハラづもりでいる。
 ニッポン・サーキットの建設が計画どおりにすすめば、①東京に近い、②気象条件が安定している、③スケールが大きく国際級のレースが開催できるーーなど好条件がそろったサーキットが誕生するわけで、日本のモーター・スポーツ界にとってはたのしみなことである。
 なお、同社のおもな役員はつぎのとおり(敬称略)。
▽取締役会長・東久邇盛厚 
▽代表取締役社長・岸本勘太郎 
▽代表取締役副社長・三好忠一 
▽役員・常沢重雄、近藤正治、小林伊之助、赤松真二郎、辺見利八、高松一雄 
▽監査役・小北忠夫
(オートスポーツ 1967年11月号 p111 一部住所等を省略)

黎明期の日本のモータースポーツ界は、地域でアメリカ型/ヨーロッパ型とはっきりとした区分けがある訳ではなく、どちらの方式のレースも行なわれていた時代である。
富士スピードウェイは元々オーバルで企画されていた事からも分かる。
前年には富士スピードウェイで"日本インディ200マイルレース"というインディカ―レースを日本に招聘して開催するなどもあり、今となっては信じられないが、オーバルコースを計画するという事は不思議ではないのだ。

なお、取締役会長として名を連ねている東久邇盛厚(ひがしくに・もりひろ)氏は元皇族の盛厚王。
この計画の2年後の1969年に肺がんの為死去している。
代表取締役社長の岸本勘太郎は帝国石油株式会社の元社長。
※正確にはジョン・フーゲンホルツはモンツァサーキットを手がけてはいない。

翌年1968年8月号のオートスポーツにも続報が掲載されている。
当初の計画では1968年初めに工事に着手する予定であったが少し遅れている。
計画の千葉県市原市付近の396万平方メートルの6割の買収を完了しており、ジョン・フーゲンホルツ氏が5月に来日し、現地をヘリコプターで視察しFIA公認の国際コースが出来る見通しが立った、という記述がある。
フーゲンホルツ氏による設計で秋頃には設計が完成するという流れのようだった。
この時点の計画では、ヨーロッパ式のロードコースを先に完成させ、オープン後に時期を見てアメリカン・タイプのオーバルコースを作る、という事になっている。
コースの全長は6km~6.5km、3万人収容のスタンドと7万人の自由席を併設。


(オートスポーツ 1968年8月号)

ただし、この後ニッポン・サーキットについての続報は無くなり、そのうち計画は頓挫したと思われる。


 
※掲載されている略図から推測した大体の位置 このあたり近辺。

後にバブル期に市原市内で「東京湾岸スピードウェイ」というオーバルコースも計画されるが、こちらも計画途中で頓挫している。

2016年8月22日月曜日

びわ湖スピードランド / レークビワハイランド (滋賀県)

びわ湖スピードランド / レークビワハイランド
外周コース約700m (750mという表記もある)

元々は始まりは琵琶湖大橋たもとにあったドライブイン、「ビック」の広場を借用してジムカーナ競技を始めたのがきっかけだったようだ。
8月4日OCCKが、琵琶湖大橋のたもとにあるドライブインの広場――ビワ湖スピードランド――を借りて開催したのがきっかけとなって、今後、ここでのハイスピード・ジムカーナが盛んになりそうだ。 (JAFスポーツ 1967年)
当時ドライブイン広場はダートになっており、当時のジムカーナレイアウトが掲載されている。
当時開催されたジムカーナのレイアウト例

広場時代の写真 土煙をあげている事からダートだという事がわかる

そのドライブインを経営していた名神観光㈱がサーキット建設を決定、広場をサーキットとして改築することとなった。
9月末完成を目指し、現在舗装工事中。これが完成すれば、約26,400㎡の競技コース、付帯設備としてガードレール(コース周囲全部)、フェンス、パドックスペース、クラブハウスなどもある一大ジムカーナコースとなる。 (JAFスポーツ 1967年)

1972年の航空写真より

こうして、完成されたびわ湖スピードランドは外周700mのオーバル状コースからインフィールドに様々な浮島が設置されたようなジムカーナコースとなっている。
一番緩いコーナーが48R、キツいコーナーが1.5R、コース幅は9~21mである。
なお、中央の島には鳥居のマークがあるので、何かが祀られていたのではないかと思われる。

詳細なコース図(オートテクニックより)

コース写真(オートテクニックより)

貴重な当時のサーキット映像がYouTubeにアップロードされていたので紹介したい。


途中から南側に遊園地ができ、「レークビワハイランド」という遊園地としてオープンしていたようである。
パドックスペースも一部遊具に潰されたようだ。

1975年の航空写真より 南側に遊園地が出来た

主にジムカーナ競技が行われているが、その他、ゴーカート、そしてストックカーレースも外周コースで開催された。
特筆すべき点としては、日本で初めてスリックタイヤが導入されたのがこのレークビワハイランドで行われたストックカーレースであった。
ただし、レースはかなりの大雨に見舞われ、レースが途中で中断、終了されるという程だったので、実際レースにスリックタイヤは投入されていないと思われる。
http://www.jaf.or.jp/CGI/msports/results/n-race/detail-result.cgi?race_id=1711


サーキットとして、いつまで存在していたかは定かではないが、ゴーカート場としては使われていた様子である。
しかし、1982年の航空写真では既にサーキットの一部がテニスコートによって潰されている様子が見られる。
遊園地のゴーカート場としては最後まで使われていたようだ。

1982年の航空写真 何らかの用途では使われているように見える

その後、別のテーマパークに転用されるなどして、サーキットは駐車場となってしまったという。
現在は、不名誉にも開店休業状態でネット上で有名となってしまったショッピングモール「ピエリ守山」の駐車場となっている。



※カート場「琵琶湖スポーツランド」とは別である

2016年5月9日月曜日

ジャパン・インディ・モータースピードウェイ / オートテクノポリス(関東/茨城)

2016/05/09記事公開
2019/06/15一部追記
2019/08/07一部追記
関東圏にオーバルサーキット新設年に1回インディ・レース!
 11月6日、かねてから噂に上がっていた、インディ・タイプのオーバル・サーキット建設プロジェクトが発表された。
 これはインディアナポリス・モーター・スピードウェイ・コーポレーション(IMS)とライセンス契約を結んだ共同システム(株)が発表したオートテクノポリス構想の一環となるもので、具体的には関東圏に280ha(85万坪)の用地を確保、全長4kmのオーバル・コース(インフィールドに5.4kmのロード・コースを併設)を建設、CARTのシリーズ戦を年1回招へいするというもので、サーキット以外にも3つのゾーンで形成されることになっている。
 具体的な作業としては現在、3カ所の候補地のなかから建設場所を検討中だが、用地決定の後に、20社ほどの共同出資(約500億円を予定)で新会社:ジャパン・インディ・モーター・スピードウェイ(JIMS)を設立、建設の推進にあたることになって94年完成予定でプロジェクトが進行しているとのこと。
 IMSとの契約調印式にはIMSのアントン・H・ジョージ筆頭副社長が来日、またその後に行なわれた記者発表会にはモータースポーツ関係者以外にも政財界からの出席者も多く、改めてプロジェクトの大きさを認識させた。
 FIA/FISAとCARTの関係など、CARTインディ・カー・レース実現までには解決すべき難問も山積しているが、実現を期待したいものだ。 
(オートテクニック 1989年12月号 p77) 
(イメージ図? CARBOY 1990年) 

そういえば、オーバルコースをつくってインディを日本に呼んじゃおう、という「オートテクノポリス」も、コンサートホールからホテル、ショッピングエリア、レストランと、生活のあるスペースを目指している。ここの建設計画には、オーバルコース以外に5.6kmのテクニカルコースとホッドロッド場ってのがあるんだ。 (中略) 
インディ用のオーバルコースを建設予定の「オートテクノポリス」は、記者会見の席で場所を関東というだけで明確にしなかったが、CB氏によると、ある場所でレンコン畑をぶっつぶそうとしているらしい。で、そこの町長さんがサーキット視察をしているという。キーワードは、利根川、水郷で、このあたりでレンコン畑というと、千葉県には広大なレンコン畑はなさそう、もうひとつのレンコン名産地は茨城県の霞ヶ浦近辺だが。 (CARBOY 1990年  一部抜粋) 

1989年11月の報道によると、施設名は「ジャパン・インディ・モータースピードウェイ」となり、長期的なプランとして、インディ500参戦ドライバー、車による「Japan Indy」を毎年開催するという構想だったようだ。

1992年の後半、サーキット計画が宙に浮くという報道があった。
サーキットの予定地としては茨城県小川町(現・茨城県小美玉市)の百里基地の隣接地が計画されており、建設計画を自治体に提出したものの、当時の町側が百里基地の民間乗り入れの計画を推進したことにより計画自体が不受理になったという。
この頃、ちょうど大分県のオートポリスの運営会社が破綻したこともあり、サーキットビジネスそのものにも疑問視が向けられるタイミングであった事も考えられる。
サーキットを計画していた企業も候補地はここ一本で絞っていたようで、計画が頓挫してしまったという。

2010年3月には茨城空港が開港、官民共用が始まった。




80年代終盤、FISA(国際自動車スポーツ連盟、現FIA)がオーバルレースを基本とした世界選手権を行う構想があり、アメリカのオーバルトラックの他にヨーロッパ、日本の未建設のオーバルトラックが開催地の頭数に入っていた。
The loudest shot in the CART-FISA battle was fired Oct. 10, when FISA's World Council, meeting in Paris, announced plans for an international oval-track series, starting in 1992, with races at as-yet-unbuilt tracks in Japan and Europe and, presumably, the speedway. (ニューヨーク・タイムズ 1990年10月29日http://www.nytimes.com/1990/10/29/sports/auto-racing-indy-takes-a-worldwide-view.html )
ちなみに、この件ではCARTはFISAが揉めており、1989年には富士スピードウェイでの開催がFISAの圧力によって中止になる出来事も起きていた。


結果、日本でのアメリカンオーバルレースは約10年後、1998年ツインリンクもてぎにて行われたのであった。

なお、この計画を主導していた企業は十勝スピードウェイなどの建設にも出資をしている。

-参考-
http://www.upi.com/Archives/1989/11/07/Indy-name-to-be-used-in-Japan-racing/9714626418000/
http://www.nytimes.com/1990/10/29/sports/auto-racing-indy-takes-a-worldwide-view.html
百里飛行場 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E9%87%8C%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E5%A0%B4
オートテクニック 1989年12月号
オートテクニック 1990年8月号
オートテクニック 1990年9月号
CARBOY 1990年
日本経済新聞 1992年11月9日