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2013年4月10日水曜日

船橋サーキット (千葉)

船橋サーキット

距離:1.8km/2.4km/3.1km 左回り

コース幅:15.75m~9m(スクールコース 60m)

船橋サーキットは当時千葉県船橋市に存在していたレジャーパーク、船橋ヘルスセンター内の施設として存在したサーキットである。

(国土地理院 1966年の航空写真より)

コースのレイアウトは元F1ドライバーで、優勝経験もあるイタリア人のピエロ・タルッフィ。
タルッフィは当時、日通が建設を計画していた伊豆韮山サーキットのアドバイザーとして来日していたが、諸般の理由で頓挫し、その後すぐに船橋に来たようだ。
ファルッフィは他にもドライビングテクニックの講師として来日したり、ドライビングテクニック本が日本で翻訳されたりと日本に馴染みが深い。

(鎖線が3.1km/点線が2.4km/実戦が1.8km)
タルッフィのアドバイス通りに設計されたサーキットは埋立地をフルに使われたコンパクトでテクニカルなレイアウトである。
サーキットは主に外周コースと、インフィールドに設けられた60mもの幅を持つ舗装路のスクール・コースで成り立っている。この2つのセクションを組み合わせて主に3種類のレイアウトを作ることが出来た。

外周コースはホームストレートから多少下りつつ1コーナーを抜け、飛行場沿いにある約550mのストレートを進む。
その後S字カーブを抜け、靴下の様な形をしている事から名付けられたソックスカーブを抜ける。
ヘルスセンター名物の一つでもある「ゴールデン・ビーチ」と呼ばれる人工海岸を横目にダンロップブリッジをくぐり、最終コーナーを抜けて一周となる。 これが1.8kmのレイアウトである。

2.4km/3.1kmのレイアウトを使用する場合は、ダンロップブリッジ前の分岐を左に曲がり、スクールコースをそれぞれ抜けてからホームストレートと互い違いになっているピット前のストレートに進む。
そこから右コーナー、左ヘアピンと進み、元の外周に戻ってくる。
このレイアウトの場合はグランドスタンド前を2度通って1周してくることになる。

スクール・コースではジムカーナ等が開催され、やろうと思えば外周コースとスクール・コースでそれぞれ2つのイベントを開催することも出来た。

(勾配表 殆んど平坦である)
当時は鈴鹿サーキットが1962年に開場し、近代的なサーキットとしては日本2番目に開場した。
ちなみに富士スピードウェイは1966年開場である。

(建設中の船橋サーキット)

1965年の7月1日に船橋サーキットが開場した。
船橋サーキット最初にして最大のレースイベントとなったのが、船橋サーキットのオープニングイベントにもなった全日本自動車クラブ選手権レース大会通称、船橋CCCレースである。
7月17-18日に開かれたこのレースは、当初5月に鈴鹿サーキットで開催予定だった第3回日本グランプリが急遽中止になったために開かれた代替レースだった。
自動車クラブ対抗戦として行われたこのイベントだが、このイベントが船橋サーキットを語る上で欠かせないイベントになっている。
その中でも、浮谷東次郎の駆るトヨタスポーツ800、ロータス・エランでの雨中の激走が今でも語り草になっている。
詳細は船橋CCCレースに関するWebページや「日本のレース100戦」などを参考にして貰いたい。

船橋CCCレースの様子
都内から近い地の利を生かし、レースイベントの他にも自動車クラブの練習場として使われたり、レンタカーでの走行なども人気を博していたという。 ちなみに当時の記録によると、スポーツ走行が1時間1500円、レンタカーは1周180円である。(1965年の参考:ビール120円、たばこ30円)
しかし、開場から3年ほどになる1967年の春頃からサーキットがオートレース場になるという噂が立った。
当初は否定していたものの結局はサーキットは閉鎖され、オートレース場として転用されることになった。
当時、船橋オートレース場は北東にある船橋競馬場の内側にダートコースとして存在していた。
ちなみに日本最初のオートレースが開催された由緒正しき場所でもある。 しかし、オートレースが舗装化されることにより、代替地の検討が始まっていた。 そこで船橋サーキット側の方からサーキット敷地を移転先として提案したそうだ。 その背景には、サーキット経営での採算が取れないという問題や、イベント開催に関してJAFとの確執などもあったという。 結果、1967年7月31日をもって船橋サーキットは閉鎖される事になった。 3年間の間に三十数レースが開催された。 その後、サーキット跡地に建設された船橋オートレース場はサーキットの丁度ホームストレート・ピット辺りにコースが出来ている。 開場当初からしばらくは船橋サーキットのグランドスタンドがそのまま利用されていたようだ。 現在は船橋ヘルスセンターも閉場し、跡地はららぽーとTOKYO-BAYとなった。 サーキットの跡形はなく、オートレース場のコース、駐車場、一般道になっている。 ソックスカーブ辺りは京葉線・東関東自動車道が通っている。 辛うじて当時のプールに沿った辺りの駐車場の形状でサーキットの形が多少分かる程度である。 噂では駐車場の舗装が剥がれている所から当時のサーキットの舗装が覗いているとの事もあるそうだ。 東京から1時間以内で行ける本格的サーキットとして2年のわずかな期間のみ使用された幻のサーキット。 その2年の間に当時のライセンス保持者の1/3がこの船橋サーキットで取得したと言われている。 現在に繋がる日本モータースポーツ史の中でも重要な場所の一つであることは間違いないだろう。 大きな地図で見る


YouTubeにアップロードされている船橋サーキット関連の映像まとめ

2013年3月9日土曜日

西仙台ハイランド/仙台ハイランド・レースウェイ(宮城県)-未完

西仙台ハイランド・レースウェイ/仙台ハイランド・レースウェイ
2013/03/09記事公開
2021/02/18一部追記

西仙台ハイランド・レースウェイ(現 仙台ハイランド・レースウェイ)は1986年9月13日にオープンしたサーキットである。

サーキットの計画は1985年10月に西仙台ハイランドを運営する㈱青葉ゴルフが計画を発表している。
元々、遊園地やゴルフ場の他にカートコースが先にオープンされており、全日本戦なども開催されていた。

当初の計画では、3715.07mのコースとしていた。
(AS 1986年2月15日号)

その後、後半部分のレイアウトを変更し3761.08mのコースとされている。
(AS 1986年3月1日号)
コースはヨーロッパ式のロードコースで、ブーメランのような形状をしている。
標高差は約20mで、コース幅も12~15mとごく標準的である。
当初からFIAの国際コース公認を取得する為に設計されていた。
つまり、何らかの世界選手権の開催を前提として、設計段階からJAFだけでなくFISA(国際自動車スポーツ連盟)などとも連絡を取り設計されていた。
その為、当初のレイアウトから、安全上の理由の為数度レイアウトの改善を求められている。

(AS 1986年6月1日号より)

当初、1986年5月末にコースが完工予定だったがFISAからの改善指示により、完工が8月、オープンが9月にずれこんだ。
そのため6月に初のビッグレースとして開催予定としていた全日本耐久選手権の開催は無くなっている。

その後、更にレイアウトの改善があり、ついに西仙台ハイランド・レースウェイが完成、1986年9月13日にオープンとなった。
(1988年の航空写真)
結果、コース全長は3771.9m、最大標高差37.3mのコースとなった。


最初のビッグレースとして、翌週の1986年9月20日に全日本ツーリングカー選手権第4戦が開催された。

翌年、1987年WSPCの仙台ラウンド「ワールド・スーパースプリント・イン仙台」は9月27日に富士スピードウェイで行われるWEC-JAPANの翌週である10月4日に予定されていた。
このレースには富士のWEC-JAPANの耐久から一転、名前の通り約360km(96周)のスプリントレースとして、行われる事となっていた。
仙台市と仙台市教育委員会が全面バックアップし、仙台市内のアーケードにてグループCカーの展示やパレードが行われる予定だったなど、仙台市も万全の受け入れ体制で臨んでいた。

しかし、富士のWEC-JAPANの終了直後に急遽仙台ラウンドのキャンセルが決定された。
コースの安全性が確保出来ず、国際レースコースとしての条件を満たしていないため。というのが理由だった。

開催に先立ち、FIAやJAFなどがコースの視察に訪れ、コースの改善点などを指摘しサーキット側も対応していたが、一部FIAとJAFでの改善点の基準の食い違いがあったという事もあり、プロモーターや運営会社の責任だけでなく、JAFなどにも落ち度が合ったのではと当時のモータースポーツ雑誌などでは指摘されている。
国際格式ではなくJAFによる国内格式によるレース開催も考えられたが、結局最初で最後となる仙台ハイランド・レースウェイでの世界選手権は行われることなく終わった。



8:45頃から当時のCM


つづく。

2013年3月6日水曜日

大朝国際サーキット(広島県)



大朝国際サーキット

広島の新サーキット、92年にオープン予定 サーキットを核としたレジャーおよび健康のための施設「ナムアLAND」の開発準備室として87年10月に設立された㈱ナムアでは、「大朝国際サーキット」を92年10月にオープンする予定との正式発表をした。
計画では、3.7km以上の国際格式サーキットのほか、精神のやすらぎを見つめる「聖地」をはじめ人びとが集い、食べ、遊び、やすらぎを見つける「ナムアハウス」、オートキャンプ場、スキー場、スポーツ村、食べ歩き村、ファッション村、ペンション村、健康村、国際交流学校などの施設を10年計画で進めるとのこと。
すでにサーキット用地の40万ヘクタールについては買収済みで、予算は45億円。最終的には85億円に達するという。
大朝町役場・企画室長の斎藤氏は「まだ協議段階であり、開発申請もまだです。しかし、町としては枚向きに検討を進めています。このような施設の場合、周辺の交通問題も出てきますので、県と共同で検討していきます。現場は森林地帯ですが、周囲に集落がふたつあり、約200人の住民の、騒音問題などこれから調整が進められると思います」といっている。
なお、「大朝サーキットクラブ」の理事長は横浜大洋ホエールズの古葉竹識監督、コース設計アドバイザーは、元レーシングドライバーの藤田直廣氏。「横浜にサーキットを建設するという話で協力しました。安全性が高く、高速コースをと考え、ストレートを長めにしました。アップダウンの関係でまだわかりませんが、平均速度がF3000クラスで180km/hくらい。鈴鹿よりも高速コースですね」と藤田氏はいう。
広島市内から50kmに予定されている「ナムアLAND」が、モータースポーツファンの「楽園」となることを期待したい。
詳細不明




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2013年2月19日火曜日

SSPジムカーナ場(神奈川県)


SSP(セントミ・スピード・パラダイス)ジムカーナ場
(※一部にサカイ・スピード・パラダイスとの表記もある)

(オートスポーツ 1970年2月号より)

外周230m
幅員:最大 6.5m
        最小 5.5m















東京近郊にジムカーナ場出現!! 
船橋サーキットが閉鎖されて以来、東京近郊には適当なコースがなかったが、このほど千富美観光㈱が、神奈川県川崎市鉄(くろがね)町にジムカーナ場(名称SSP)の建設を進めている。国道246号線から少しわきにはいったところで、二子玉川より車で15分、コースはリトルFISCOのようで、全長330mだから規模は大きくないが、将来拡張も考えられるということだ。オープンは10月中旬の予定。ここがオープンされれば、関西びわ湖スピードランドと並んで、関東のジムカーナのメッカになるだろう。 
(オートテクニック 創刊号より)
(1970年の航空写真より)

1970年12月14日にオープンしたジムカーナ場がこのSSPジムカーナ場である。
神奈川県横浜市緑区の田園の中を入った場所にあったこのコースの規模かなり小さく、用途通りジムカーナ以外には使えないような小さなサーキットであった。
それでも、当時としては都心に近くリーズナブルで騒音問題にも影響されないコースとして、関東のジムカーナ同好者にはかなり重宝されていたようだ。

外周の大きな円を描く30Rコーナーは14度のカントが付けられており、小さな円とそれを突っ切る十字、S字が組み合わされている。

千富美観光(株)が所有しており、代表の酒井氏がジムカーナによる自動車運転技術の向上をかかげ、酒井氏の弟とともに田んぼを潰して整地作業に励んだという。
その後、聞きつけたジムカーナフリークが共に整地作業に参加し、コース基礎、舗装、パドック以外はすべて自分でこしらえたという。

少なくとも2-3年は関東のジムカーナの拠点の一つとして毎月盛んにイベントが開催されていた。
しかし、1974年頃に地域の開発に巻き込まれ取り壊されてしまったようで、住宅地となり跡形も無い。
現在は横浜市青葉区すすき野という地名になっている。



※大体の位置

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2013年2月14日木曜日

球磨郡山江村のサーキット(熊本県)


熊本県南部にサーキット建設構想 
九州自動車道の延伸見越して 
 熊本県南部の球磨郡に自動車レース用のサーキットを建設する構想が浮上してきた。このほど株式会社になった地域おこし組織に新相良藩カンパニー(本社熊本県人吉市、社長田中信考氏)が誘致しているもので、レーシングチームを所有している企業に働きかけを強めている。その企業は担当者を球磨郡山江村に派遣して、用地取得の打診を始めた。サーキットは一周4キロメートル程度で、100ha程度の用地を考えている。用地費は約1億5,000万円の見込みだが、関連投資を含めると総事業費は40億~50億に上るとみられている。現在は八代市まで開通している九州自動車道が64年に人吉市まで延びるのを見越した構想で、レースを月に2、3回、1回に2万~3万人の観客を集めたいという。(日経地域情報 1987年8月)



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タチバナサーキット(福岡県)

タチバナ・サーキット

九州に国際サーキットの建設計画が進行中

福岡県立花町辺春に国際サーキット建設の計画が進行中だ。
この「タチバナ・サーキット」(仮名)は、モータースポーツファンの平田博氏が立案したものだ。国道3号線沿いの山林120ヘクタールに、全長4km、コース幅12~15m、5万人の観客スタンドを65年末までに建設の予定。総工費は60億円、レジャー施設などの付帯設備を含めると90億円に達する。
昨年10月にそれまでの会社を退社した平田氏が、企業回りをした結果、日本舗道を始め、地元企業など5社の出資が可能になったとのことだ。
すでに地権者の同意を得ており、立花町役場では調査研究会を設立して協力する方針だ。
熊本、大分などもサーキット建設の計画が進められている九州だが、それぞれが順調に建設されると、まさに九州はモータースポーツ天国となりそうな気配だ。
(オートスポーツ 1988年 8/1号)

詳細不明



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2013年2月12日火曜日

岐阜県可児市オートスポーツセンターのサーキット(岐阜県)


2013/2/12 記事公開
2024/2/9 追記  

 

中京圏に新サーキットが誕生か 
岐阜県の美濃加茂市近くに、いま新サーキット建設の話が具体化している。
これは筑波サーキットのオーナーである(財)オートスポーツセンター(椎名三郎理事長)が、岐阜県可児郡可児町の瀬田地区に計画したもので、現在地元の可児町と話し合いを進めているところ。
関係者の話を総合すると、これは関東に筑波サーキットを建設したのと同じ目的で関西・中京地区の人口を対象にサーキットをつくろうというもの。
その目的とは、公益法人である日本オートスポーツセンターの設立趣旨に沿ったもので、①わが国にはモータースポーツの適切な施設が完備していないため、外国ほどの隆盛をみていない。そこで、公共的施設を設置することによって、国内モータースポーツの普及を図る。②レーシング・マシンなどの性能向上を図ることによって国民の心身の健全な発達と、自動車および関連産業の振興に寄与する―――ということがその主の理由。
すでに10万坪(33万㎡)の用地を手に入れ、今年度から約4億円の予算で第一期工事にとりかかる。完成するのは48~49年度になる予定で、建設費用は15億円の巨額なものになるという。
サーキットの概要は、全長2km強、800mほどの直線を含む高速コースで、ヘヤピンは設けられないもよう。
将来はオーバルコースを付加するもくろみもあるようだ。
高速パターンをとり入れたのは、モータースポーツを盛んにするだけでなく、自動車関連技術のレベルアップを図る目的から、直線にアップダウンを設け、登降坂高速試験路とする構想があるからだという。
いずれにしても、過去の国内になかったようなサーキットが誕生することはまちがいあるまい。むろん、レースもひんぱんに行われるだろうから、中京圏のモータースポーツのメッカになることが期待されている。
もっとも、この建設計画にまったくの問題がない―――というわけではない。
というのは、地元民の一部に騒音や交通公害などを心配する声が出ているからだ。
これにともない、瀬田地区では代表を鈴鹿サーキットに派遣して実情を調べたが、その結果は"条件付きの受入れ"に傾いているという。
その条件とは、交通渋滞や騒音公害の防止と、現在スレちがい不能の取りつけ道路を描幅するぐらいのため、オートスポーツセンター側でも万難を排して取り組むといわれており、関係者は「今度こそ本当にサーキットが出来る」と一様に太鼓判を押している。
(オートスポーツ 1972年2/1号)

財団法人日本オートスポーツセンター(JASC)は一般的には筑波サーキットを運営していると言えば分かりやすい。
1966年に設立されたこの組織は日本のモータースポーツの普及、発展のもとにサーキットを建設した。
1970年の6月、茨城県で筑波サーキットをオープンし、当時としては数少ない首都圏のモータースポーツの中心として使われ続け、現在も人気のサーキットだ。

筑波サーキット開場の2年後、JASCが岐阜県可児(かに)郡(現 可児市)にサーキットを建設する計画を浮上させた。
関東の筑波と同様に関西・中部地区にもサーキットを作ろうという趣旨であった。
サーキットの計画の中では、2kmと筑波サーキットとほぼ同等の大きさではあるものの、筑波サーキットのテクニカルなキャラクターとは別に、オーバルも含む高速コースにする計画だったそうだ。
スポーツ用途だけでなく、試験路としてのテスト用途としても使えるようにする事が記事からも伺える。

この後計画は更に進み、関西の東急グループの不動産会社、東急土地開発と組み、自動車サーキットだけでなく周辺に遊園地やスポーツ施設などを備えたレジャー施設として開発する計画になった。
しかし、用地の保安林の指定解除の手続きに手こずり、さらに県や近隣住民からの騒音問題の反対によりこのサーキット計画は頓挫したという。

現在この瀬田周辺には大きな公園が建設されているが、ここが建設予定地だったのではと推測。

-参考文献-
オートスポーツ 1972年2月1日号
レジャー観光資料 1972年10月号
軍団総帥田中角栄の反攻 : ロッキード裁判傍聴記3 / 著:立花隆


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