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2026年5月26日火曜日

厚木サーキット(神奈川県)

厚木サーキット 海老名に建設計画
地元PTA猛反対 "騒音"、青少年に悪影響
相模川河川敷き利用 地主側に賛成の声も 町当局の構え慎重

高座郡海老名町中新田の相模川河川敷きを利用して「日本カーレース会社」(仮称)=本社・東京都渋谷区神宮前五丁目四六ノ一八、発起人代表・加賀山之雄元国鉄総裁=が「厚木サーキット」(仮称)を建設する計画をたて、このほど発起人の中村年郎氏(鹿島建設顧問)らが海老名町を訪れ、田野口町長にサーキット建設の同意を求めた。これを聞いた海老名町PTA連絡協議会(七PTA、大野新一会長)は二十日緊急役員会を開き、サーキット建設には絶対反対の態度を申し合わせ、二十一日町、町議会へ建設に反対するよう陳情した。河川敷きの高度利用と騒音、教育現場の悪化とが真っ向から対立し、地元PTAは高座郡PTA連絡協議会にも呼びかけるなど態度を硬化させているが、地主のなかには賛成派もあり、町当局もサーキット進出には慎重な構えを見せている。
(神奈川新聞 1965年9月22日)
厚木サーキットは、神奈川県高座郡海老名町、現在の神奈川県海老名市に計画されたサーキットである。
計画地は厚木駅から約1km南に位置する河川敷と民有地で、現在の海老名インターチェンジ付近の河川敷だと思われる。計画当時は荒れ地だったという。
事業計画では、中新田地内46万4千平方メートル、うち河川敷21万4千平方メートルを利用し、一次建設資金13億8921万8千円を投じる大規模なものだった。コースは幅10~15m、全長3.2kmで、8万2500平方メートルの駐車場、収容能力10万人のスタンド、自動車整備工場、クラブハウスなどが計画されていた。

「日本カーレース会社」の発起人に連ねる一人として、元国鉄総裁の加賀山之雄がおり、それに関連してか国鉄相模線の厚木駅と社家駅の間に「厚木サーキット駅」を設置する計画も描かれていた。
また、発起人の一人に山西喜一郎という人物がおり、山西氏は1963年には㈱日本ストックカー協会の代表としても名が見え、同協会は箱根国際自動車レース場の計画に関係していた団体である。

なお、記事中にもある通り計画地の近隣にある7つの小学校・中学校のPTAによる猛反対を受けており、すぐに神奈川県議会に議題として上げられている。
PTA側の反対理由も、単なる騒音問題にとどまらず、陳情書では「見知らぬ多くの人たちの出入り」「はでな服装」「向こう見ずな行動」「一発勝負的な考え」「危険を無視したスピード」「耳をおおう騒音」などが青少年に悪影響を及ぼすとしており、当時の自動車レースに対する社会的な警戒感も見て取れる。

「厚木サーキット」 県で不許可
騒音の被害大きい 河川敷き"公共利用"にも反する 今後も認めない

県は「日本カーレース会社」(仮称)=発起人代表・加賀山之雄元国鉄総裁=が高座郡海老名の相模川河川敷きを利用して建設しようとする「厚木サーキット」に対して、土地利用対策委員会で河川敷き占用許可を与えるかどうか検討していたが、公害、教育、衛生などあらゆる行政分野で好ましくないとの結論に達し、三十日までに加賀山発起人代表、海老名町など関係者に通告した。県では同様に、今後、場所のいかんを問わず、県内にはサーキット建設を許可しない方針を決定した。
(神奈川新聞 1965年10月1日)
このサーキット計画については、当初一部地主が土地売り渡しへ同意する動きもあったが、最終的には地主の大部分や砂利採掘権を持つ組合も反対に回ったと報じられている。

県は船橋サーキットや鈴鹿サーキットへの現地調査も行ったうえで、厚木サーキットに河川敷き占用許可を与えない方針を決定した。理由としては、騒音、し尿処理、交通渋滞、農地・県蚕業試験場への影響、そして河川敷きの公共利用方針に反することなどが挙げられている。
結果として(当時の)神奈川県の方針としてサーキット建設については今後も一切の計画を認めない方針を定めた。
この計画は神奈川県におけるサーキット建設そのものへの姿勢を決定づけた事例だったともいえる。

ちなみにこの記事では以前に津久井町の計画(現、相模原市緑区。おそらく力道山のサーキットか)を却下した前例があるという記載がある。

-参考文献-
神奈川新聞
1965年9月22日/10月1日
昭和40年9月30日 神奈川県議会9月定例会議事録第5号

2024年2月17日土曜日

札幌近郊のサーキット計画(北海道)

札幌近郊のサーキット計画

 構想の一つは札幌の企画会社、丹羽企画研究所社長の丹羽祐而氏や土地家屋調査士中川博氏、それに一級建築士、JAF(日本自動車連盟)幹部関係者ら札幌の四人グループが三年前からプランニングを進め、札幌近郊に百㌶以上の土地を確保し、一周五千㍍クラスのサーキット場を建設しようという計画。この事業には大手ゼネコンの大林組がかかわっており、さらにサーキット場のオーナー経営者として札幌の民間業者が名乗りを上げ意欲を見せている。目下、土地の手当てに全力を挙げているところだ。
(道新TODAY 1988年5月号)

(道新TODAY 1988年5月号)

これはバブル期に北海道で計画されたサーキットで、札幌市近郊に国際格式のレース場を建設するという計画であった。
サーキットの他に併設施設としてモトクロス場、遊園地、ホテル、キャンプ場などレジャー施設としてもプランニングされていた。

このサーキットで「F1」級クラスの国際レースの誘致を目指すとされ、計画では総工費100億円以上と見積もられ、1988年中に開発申請を行い、翌89年春着工、90年一部オープン、91年に全面オープンと予定していた。また、札幌近郊の立地であれば年間三十万人の観客動員を下回る事はない、という試算が出されている。

当時、北海道内では複数の国際級サーキット計画が進行しており、その中には1993年にオープンした河西郡更別村の十勝スピードウェイや、建財(丸晶興産/レイトンハウス)の千歳市のサーキット計画などがあった。
また、1985年には北海道虻田郡倶知安町に北海道スピードパークという約1.4kmのサーキットがオープンしたことで、道内だけでなく飽和状態でサーキット走行枠が確保出来ない本州のドライバー・ライダーが北海道のサーキットに遠征するということもあり、そのような本州からの需要も見込まれていたという。

-参考文献-
道新TODAY 1988年5月号
RACING NEWS 1988年4月22日

2024年2月9日金曜日

横浜ドリームランドのサーキット(神奈川県)

かつて神奈川県横浜市に「横浜ドリームランド」という遊園地が存在した。
その横浜ドリームランドの敷地の隣にサーキットを作る計画があったという。

この計画は、遊園地内のゴーカートなどのアトラクションではなく、本格的な自動車レース用のサーキットである。
1960年代、近代日本のモータースポーツが鈴鹿サーキットをきっかけに発展し始め、新しいレジャー施設としてサーキット計画が各地で持ち上がった時代である。
横浜ドリームランドに関してはインターネット上に詳しい情報があるため、ここでは詳細な説明は省略する。


横浜ドリームランド開業半年後の1965年初め、日本ドリーム観光株式会社の社長である松尾國三氏がインタビューの中でサーキット建設の計画を披露している。

松尾 (略) バーのほかに自動車競争をやる計画もあるんです。
ー鈴鹿サーキットみたいな…。
松尾 そう、自動車から、選手から、全部アメリカから持ち込んで。
ーしかし、レースとなると、坪数もずいぶんいるんでしょう。
松尾 ドリームランドの周囲には、まだ土地が七、八万坪ありますからね。
ーその程度でやれるのですか。
松尾 大丈夫です。
(財界 1965年2月)

サーキットの計画が再び表面化したのは大体1967年頃。
この時点で日本ドリーム観光の業績は良好とは言えなかったが、それでも一部ではサーキットを業績回復の一打として期待している見方もあった。

なお、現在同社は日産自動車など数社と新会社を設立し、横浜ドリームランドの周囲に自動車レース場を造る計画をしている。年内にも会社発足の見込みであり、来年には建設に乗り出す予定である。
(法律公論 1967年1月)

しかし、1967年は遊園地へのアクセス路として大々的にオープンしたドリームランドモノレールが安全性の問題でわずか1年あまりで運転休止に追い込まれた年である。
また、モノレール事業とサーキット事業を一体にして当時モノレール事業を進めていた三井物産・東芝と共同で運営する計画もあったそうだが、東芝側が難色を示し流れたという話もある。

モノレールの失敗によりアクセスを失い、遊園地の集客に大きな影響が出たことが、後に一部敷地を売却する一因となり、このサーキット用の敷地もその時に売られた可能性がある。
余談ではあるがドリームランド東側のドリームハイツの敷地を大まかに計測した所大体7,8万坪だった。

-参考文献-
財界 1965年2月 / 1967年11月号
法律公論 1967年1月号
ダイヤモンド 1967年2月27日号
オートテクニック 1967年2月号

2021年10月19日火曜日

最初期の日本カートレース

カート(Kart)が発明されたのは1956年8月。
アート・インゲルス(Art Ingels)・ルー・ボレッリ(Lou Borelli)によってアメリカのロサンゼルスで製作された。
インディカーなどのレーシングカービルダーだったアート・インゲルスは後に「カートの父」とも呼ばれている。
その小さなレーシングカーはカリフォルニアのレースですぐにお披露目され、そこから急速に広がっていった。

日本にカートが導入されたのは誕生から意外にも早く3年後の1959年で駐留米軍人が日本に持ってきた。
埼玉県朝霞市にあったキャンプ・ドレイクでカートレースで開催されたのが最初のカートレースだという記述がある。
ちなみにアメリカからヨーロッパにカートが導入されたのもほぼ同時期らしい。
最初は米軍人が中心となってカートレースを楽しんでおり、基本的に各基地内の敷地を使って走行を楽しんだりカート大会を開催したりしていたようだ。
1960年には"関東カーターズ カートクラブ"という関東圏の駐留米軍人や公務員などのカート同好者によるクラブが結成された。

調布飛行場に作られたカートコースの図(モーターファン 1960年6月号)

1960年 関東カーターズによるキャンプ座間でのカートレース
(Pacific Stars And Stripes / 1960-9-13)


同じく1960年には日本人によるカートクラブ"東京カーターズ"が結成。
これらのクラブは"Kart Club of America"を参考にした"日本カートクラブ" (Kart Club of Japan:KCJ)というカートの統括組織を作った。
当時カート国際統括団体としてアメリカで最初に結成されたIKF(International Kart Federation)のレギュレーションに準拠して日本でのカートレースを運営していたという。
他にも在日米国人カートクラブが数団体が存在していた模様。

これらのクラブが定期的にカート場として使われていた場所が朝霞市のキャンプ・ドレイクにあった。
場所はモモテビレッジのモモテ兵器保管庫という場所にあった"朝霞カートウェイ"と呼ばれているカートコース。1961年の9月に作られたという。

朝霞でのカート走行風景
(CARマガジン 1964年10月号)


朝霞カートウェイ (1961年~1969年の航空写真より)



全日本カート大会

1962年5月28日には「第1回全日本カート選手権大会」が開かれている。
場所は神奈川県川崎市の多摩川河川敷にあった東急自動車学校の教習所で、ここはもともと多摩川スピードウェイの跡地である。
多摩川のサーキットが廃止された後は多摩川スピードウェイのオーバル跡地周辺を使って教習所コースが作られていた時期がある。

東急自動車学校(多摩川スピードウェイ跡)
(1963年  国土地理院)

第1回全日本カート選手権大会の様子 
多摩川スピードウェイのスタンド跡が見える
第1回全日本カート選手権大会の様子
(モーターファン 1962年8月号)

このレースについての記録は少ないが、日本で行われた大々的なカート大会としては初めてだと思われる。
参加台数は46台で、半数が駐留している米軍人だったという記述がある。
最終レースは雨のため場所を変えてレースを行ったらしい(場所は不明)。

第1回全日本カート選手権大会 優勝者
クラス1 / クラス2:エラート軍曹
クラス3:バックランド軍曹
クラス4 / ブッシング:植松善雄
女性レース:モートン夫人
ジュニア:ロニー・モートン

2回目の大会は1963年5月12日に富士急ハイランドの前身である富士五湖国際スケートセンターに作られた"富士急行ハイランド・カートトラック"で開催された。
このサーキットはIKFの国際規格に沿って作られた日本最初のカート場とされる。

富士五湖国際スケートセンター(カート場はまだ建設されていない)
(1962年 国土地理院)

富士急行ハイランド・カートトラック
(モーターファン 1963年7月号)

富士急行ハイランド・カートトラック コース図 (同上)

富士急ハイランドのコースはIKFの国際規格に沿っており、"3分の1マイル(約530m)のコースに、60度以上のカーブを9ヵ所以上設け、ストレートは100m内外に押えて最低の安全性を保証するよう義務づけられている"と当時のコース紹介文にある。

第2回全日本カート選手権大会 優勝者
クラス1:ドナルト・エラート / 関東カータス (注:第1回優勝のエラート軍曹か)
クラス2:中村たけ彦 / 新宮商行ク
クラス3:リチャード・ショル / 関東カート
クラス4:マイケル・ルビン / 関東カート
クラス5:藤間吉弘 / 日本カート
ジュニア:藤井憲 / 日本カート
女性:栗田弘子 / 日本カート
第2回日本チャンピオン 中村たけ彦

第2回大会の参加台数は60台で、やはり半数の30台は駐留米軍軍人。
IKFの公認を受けたカート場での大会のため、IKFの公認レースにもなった。
この大会でチャンピオンになった中村選手は同年8月に行われたアメリカ・イリノイ州の世界選手権に日本代表として招待されたそうだが参戦したかは不明。

第2回大会に参戦したカート車両 (モーターファン 1963年7月号)


国際規格になる前のコース?(CARマガジン 1962年2月号)



この後"全日本カート選手権"が何度開催されたかは今の所わからないので、新しい事が分かり次第更新していきたい。

全日本選手権と銘打たれているのに記録が少ないのは、カートレースがJAF管轄になる以前の大会だからである。
カートの統括組織がJAFに移管されたのは1972年の事で、それ以前はアメリカで作られた初のカートの国際統括組織であるIKFの規定に沿った日本カートクラブ(Kart Club of Japan)が日本のカートレースを統括していた。
時が経ち1972年にはむつ湾スピードウェイのカート場で"日本カートプリ"が開かれ、1973年にJAFによるカートの全日本選手権が開かれている。
現在主流になっている統括団体のCIKは1962年に結成されている(2000年からFIA加盟団体になる)

当時日本カートクラブの会報誌があったそうなので、会報誌が今も現存していれば当時の光景がもう少し分かるかもしれない。

-関連文献-
・モーターファン
1960年6月号 
1962年8月号
1963年4月号 / 7月号
・CARマガジン
1963年2月号
・自動車ジュニア
1964年4月号
・Pacific Stars And Stripes
1960年6月24日 / 9月13日
1961年12月30日
1962年1月18日 / 4月12日
1963年1月27日
・国土地理院

-関連リンク-
スケートリンク資料室

2020年1月26日日曜日

50年代初頭の日本のモータースポーツと1952年の茂原国際ロードレース

1945年、第二次大戦の終戦後、日本は連合国軍による占領下におかれ軍人が来日した。
その中で、自動車好きの進駐軍将校が主体となって自動車のクラブ団体が設立され、様々なレースをクラブで開催していた。

日本で戦後初の自動車レースは1951年5月13日に船橋競馬場で行われた「日米対抗レース」と呼ばれるレースだった。
約50台のオートバイと25台の自動車で2輪、4輪あわせて7レースが行われたと言われる。

(日米対抗レースの様子/千葉新聞 昭和26年5月14日)

このレースは日本赤十字社の戦争孤児のためのチャリティレースという側面もあったようだ。
レースには約7万人の観客が集まり、有料・無料の観客が半分半分という事だったらしい。
※3万人という記述もある
(日米対抗レースの様子/モーターファン 1951年12月号)

日本スポーツカークラブ(Sports Car Club of Japan、SCCJ)は日米対抗レースの主催だったMGカークラブ(MGCC)から派生して誕生した団体だという。
SCCJは主にアメリカ、イギリス、オーストラリア、中国など外国人の他、少数の日本人による約70人の会員で構成されていた。

1951年9月28~30日にはSCCJによる東京・京都間の往復ロードレースが開催された。
当時のレース記事には"日本における自動車レースに対する正しい認識と理解を助長するため" というレース開催の名目が書かれている。
日本版ミッレミリアのようなクローズドでない公道を一気に走り抜けるレースと考えていいだろう。
(東京での様子 / モーターファン 1951年11月号)

レース概要としては、9月28日午後8時、東京・日本橋の橋の上からスタートし、大森まで一列で進んだ後に大森でレースがスタート。
ノンストップで公道を駆け抜け、翌日早朝に540km先の京都市役所前のゴールを目指す。
どちらかといえばスピードレースよりも長時間の耐久を目的としたものだった。
行程の半分は舗装、半分が未舗装路だったという。
到着地の京都市役所では東京都知事からのメッセージを京都市長に渡すという事も行われた。
コース沿道では警官がオフィシャルとして手伝っていたそうだ。
復路は29日の午後5時に京都を出発、夜中に東京にたどり着くスケジュールだった。
(京都での様子 /モーターファン 1951年12月号)

往路のレースはMG-TGに乗ったホワイティ・ホワイトステイン/スティーブ・スチアン組が8時間43分で優勝している。
2位に同じくMG-TGに乗るベルト、3位にシトロエンに乗るアーベルス/太田組。※太田祐一氏か
主にMGが多かったようだが、他にもジャガー、ライレー、モーリス等が走行した。
タイヤトラブルやオイルに関してのトラブルが多かったようで、何台か田んぼに飛び込んだという事もあったらしいのだが、どの車もなんとか完走した模様。

東京・京都ロードレースが行われた頃の記事では、1951年11月4日に東京の明治神宮外苑で"グラン・プリックス・スタイル"によるレースを開催するという計画が書かれている。
50周約1時間半の決勝レースが行われる予定で計画されていたようだが、このレースについては何らかの理由で頓挫したものと見られる。

その代案という事なのかはわからないが、千葉県でロードレースが開催された。
「茂原国際ロードレース」というレースで、1952年1月27日に行われた。「69哩ロードレース」とも呼ばれている。
場所は茂原飛行場と呼ばれている滑走路で1941年に作られた。
戦時中は"茂原海軍航空基地"と呼ばれていたこの飛行場は終戦後廃止され、1952年当時ではすでに投棄されたものとなっていた。
※「茂原国際ロードレース」の前年1951年12月にも3時間耐久レースが行われていたようだが詳細は不明。
(1952年の旧茂原飛行場/国土地理院)

SCCJと千葉県庁、千葉新聞社による主催で、当時の地方紙である千葉新聞では紙面にて大々的に「国際ロードレース」の告知記事を掲載している。
※千葉新聞は1956年12月に廃刊
この年の4月には滑走路のある茂原町や東郷村、その他数町村が合併し茂原市となって市政が施行される事になっていたので、町・村総出でレースという大イベントを盛り上げようとする動きがあった。
地元の衆議院議員が優勝カップを寄贈したり、地元の開拓組合がでんぷん粕の乾燥の為に使用していた滑走路を総出で整備したり、茂原町の駅前でも選手や来場者への歓迎ムードを盛り上げる装飾などが行われたという。

レース入場の為には茂原町役場や東郷村役場、その他近辺で購入する事ができる協賛バッジ10円が必要であり、来場者3万人を見込んでバッジが作られたが予想に反して売れたらしく、バッジ増産に追われ最終的には3倍以上の10万とか13万人と言われる観客数が来場したと言われている。
※現在の物価で50円ぐらいらしい
茂原町も近隣の交通機関と協力して臨時列車やバスを増発したが、国鉄茂原駅ではあまりの客の多さに臨時列車に乗り切れない乗客も居たという話がある。

1950年に小型自動車競争法が施行され、公営競技としてのオートレースが始まり、千葉県にも初めてのオートレース場である船橋オートが船橋競馬場内にオープンしていた。
当時の日本では自動車による競争となるとオートレースがポピュラーであった為に、当時の千葉新聞による記事にも
スポーツカーによるレースは営利を目的としたものでなくただアマチュア精神に基いた各種の行事を楽しむのであり、したがって如何なる行事にも金銭的なものは贈呈されることなく、如何なる形式の賭事も許されない
(千葉新聞 昭和27年1月24日)
などと書かれており、観客にオートレースとは性質の違う競技という事を強調しているのが面白い。

レースは滑走路に約2.3マイル(3.7km)のコースを作り、30周合計69マイルの走行距離のタイムを競うレースだった。

(コース図/千葉新聞 昭和27年1月25日)
(推定されるコース)

排気量ごとにクラス分けがされ、Aクラス(無制限)、Bクラス(1000-2000cc)、Cクラス(500-1000cc)と3クラスで混走レースが行われた。
レースは17台が参戦し、ジャガーXK120、MG、モーリス・マイナー、クロスレイの他、国産車ではダットサンが2台参加した。
オオタのミニスター号という200ccのマシンが参加したという記述もある。
(ダットサン/Pacific Stars And Stripes December 17, 1952)

(スタートの様子/千葉新聞 昭和27年1月)

Aクラスはフランク・アントンがジャガーXK120を駆り78分30秒で優勝、20秒遅れてBクラスのスティーブ・スチアン(MG)、85分0秒でCクラスのクロスレイを駆るH.ホールがそれぞれクラス優勝した。
(おそらくアントンのジャガー、観客の多さが伺える /モーターファン1952年3月号 )

当時の新聞のレースレポートを読むと、アントンが排気量の利を生かしレースを独走していたが、後半24-5周ほどで下位クラスのスチアンのMGがコーナーリングで迫ってくるという展開だった。しかし、レース残り2周でスチアンがコーナリングでミス。勝負が決まった。
(優勝したアントン/モーターファン1952年3月号)

レース後の新聞取材でも当時のSCCJ会長であった片山豊氏も予想以上の盛り上がりに驚きと喜びのコメントを残している。

この他、茂原飛行場では前述の3時間耐久レースの他にもいくつかレースが行われたようである。
「茂原国際ロードレース」は翌年1953年1月にも開催の予定があったが開催されたかは不明。

当時SCCJはFIAに公認された四輪モータースポーツ統括団体(Authority Sport Nationale,ASN)を目指していたという。
日本自動車協会(JAA)という団体がFIAに加盟していたが、ASNに関しては存在していなかったようだ。
そこでJAAと協力してSCCJがFIAに公認されたASNとなり、各種リザルトや世界記録などが公認される組織になりたいと共に、自動車と歩行者の交通安全の啓蒙とモータースポーツの啓蒙に努めたいと当時SCCJメンバーが語っている。
先の話になるがJAAは実際には実質的な活動はなく1963年に行われた第1回の日本グランプリはJAAから分裂したJASA(日本自動車スポーツ協会)という団体が主催しているが、その後はJAF(日本自動車連盟)が日本のASNになり現在に至っている。

茂原ロードレースの3ヶ月後、1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が結ばれ、日本国の主権が回復した。
そのため日本に駐留していた連合国軍の軍人も帰国することとなりSCCJメンバーも続々と帰国、1953年頃にSCCJという団体は自然消滅してしまったという事だ。

茂原飛行場の敷地は再開発され、現在は三井化学株式会社の工場となっており、飛行場の跡は失われているが現在でも海軍航空基地時代の戦争遺跡が残っている。


なお、元クラブ会員だった日本人の有志が1955年に同団体を再発足させている。
関連:国内モータースポーツ初のヒルクライムレース/伊豆長岡 (静岡県)

SCCJのレースの他にも、各大学の自動車部が主体となり学生による様々なレースが開催されていた事も注目すべきである。
これらのレースや活動はいずれにせよ公認レースではなかったが、1963年に初開催された日本グランプリを発端とした近代的なモータースポーツに向けた戦後のモータースポーツ史の流れとして重要な出来事だろう。


-関連文献-
・千葉新聞
昭和26年5月14日
昭和27年1月20日/22日/24日/25日/26日/27日/28日/29日
・Pacific Stars And Stripes
April 28, 1951 / December 17, 1952/ 
・モーターファン
1951年11月号/12月号
1952年3月号
・日本の名レース100選 Vol.061
・サーキットの夢と栄光―日本の自動車レース史

-関連リンク-
・SCCJ ヒストリー
http://www.sccj.gr.jp/history.htm
・Motor Sports World / January 4, 1952
※東京・京都ロードレースで優勝したホワイティ・ホワイトステイン氏の日本の自動車レースに関する寄稿文
・Steve L. Suddjian (スティーブ・スチアン氏)
・日本自動車レースの始まりーWWⅡ以後 - Car&レジャーWeb

2019年8月12日月曜日

野呂山スピードパーク (広島県)

野呂山スピードパーク
所在地:広島県呉市安浦町大字中畑
全長: 1.38km ・ 1.75km (右回り) /0.89km(ストックカー / 左回り)
※のろさん と読む

(1975年1月の国土地理院の航空写真、時期的に閉鎖された直後かもしれない。https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=863219)

野呂山スピードパークの案内
広島の国立公園野呂山(のろさん)にできた野呂山スピードパークは直線部300m、すり鉢を思わすバンク、それに続くヘアピン・カーブ等、変化に富んだ1周1700m(幅員15m)コースである。
各イベントをはじめ平日もスポーツ走行、カート走行などができる。
(オートテクニック 1970年1月号)

(野呂山スピードウェイのマップ(1.38kmのレイアウト) オートテクニック)

野呂山スピードパーク(通称:NSP)は広島県呉市の野呂山にかつて存在したサーキット。
オープン日は1969年10月19日だという。
鈴鹿・富士・船橋(既に閉鎖)の次、近代的な4輪レースが始まってから4つめに作られた常設サーキットとなる。
NSPがオープンする前、中国地方のモータースポーツフリークは鈴鹿・富士と遠くへの遠征を強いられた他、埋立地や河原の土手などで行なわれた年2度ほどのジムカーナしか参加出来なかったという。

終戦後、国有地だった野呂山は引揚者に土地を開放し農地開拓が行なわれたが、後に観光地としての開発が始まり遊園地などが出来、その一環でサーキットもオープンされた。
サーキットになった土地も元々は畑だったという。
サーキットを作るきっかけになったのも、当時野呂山の林道などで行なわれていたモトクロスのコースを作ろうという事が発展して四輪用のサーキットになったという。

コースは山の斜面をつづら折りに下り、再びつづら折りに登っていくというテクニカルなレイアウト。
一番長いストレートでもホームストレートが約300mほどしかない。
上り下りもかなり激しく、6-10%の上り下りの勾配は当たり前に存在し、特に最終コーナーからフィニッシュラインにまで至る最後のストレートは約15%ほどの上り勾配がある他、コースアウト防止のため随所のコーナーに2段階のカントが付けられている。

左から1.75km / 1.32km / 0.89km

NSPのオープニングレースは1970年5月15日に行なわれた。
ストックカーレースを開催していた日本オートクラブ(NAC)が「全日本ストッカー呉200kmレース」を開催。
アメリカ式のレースらしく、左回りで行なわれたレースは一番短いレイアウトが使用された。
このレイアウトでは本コースとショートカットコースの交差の段差が大きく派手なジャンピングスポットが存在した他、ターン1となる最終コーナーの手前はかなりの下り坂となる。
第1ヒート、レースは雨と霧に祟られ、濃霧で2時間あまりスタートがディレイ。
霧が一瞬晴れた瞬間になんとかスタートさせたが、その後もすぐに霧が発生してしまった。
1kmもないレイアウトのため、3周目にはラップダウンのマシンが出始めたという。
100周の第1ヒートは1/3程がイエローコーションだった上、ディレイの影響で第2ヒートはキャンセルとなってしまった。
優勝はセドリックに乗る寺西考利選手。


「全日本ストッカー呉200kmレース」の当時の動画、雨と霧の中を疾走するストックカー。

NSPでは主にツーリングカーレースや当時流行っていたミニカーレース、軽自動車のエンジンを使ったFLマシン等のレースも行なわれていた他、ジムカーナ競技やカートでの走行もあった。
GCマシンのエキシビジョンランというイベントも行なわれたようだが、参加車のほぼすべてがトラブルにより満足に走れたマシンは1台だけだったという。


当時の遠景の動画、オープンから2-3年は経過していそうだ


1974年頃の雑誌には、サーキットが閉鎖されるという噂が流れ、それを否定する旨の記事が掲載されていた。
実際、サーキットから発せられる騒音について近隣地域からの苦情もあった他、モータースポーツならずとも社会的問題となっていたオイルショックも経営に大きな影響を与えた。そして、経営難に陥り運営会社を畳んだという。
野呂山スピードパークが閉鎖
広島県の野呂山スピードパークが閉鎖、モトクロスコースに改修中である。1970年にオープンした同サーキットはアップダウンの激しいコースとして知られていたが、経営不振のためモトクロスコースに変えられたもの。
(オートテクニック 1975年4月号)
記事の通り四輪コースとしては閉鎖されてしまったが、一部舗装を剥がしてモトクロスコースに転用されたとの事。
広島県の2輪レースの歴史をまとめた「広島モーターサイクル全史」によると
800mもの高い標高が災いしてライダーはキャブレターセッティングに苦労し評判は芳しいものではなかったようである。
という当時のライダーの評判が聞こえる。
(1981年の航空写真、一部舗装が剥がされている
https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=877732)

その後モトクロスコースとしても廃止され、跡地はしばらく休眠地となっていたが、1997年頃にオートキャンプ場として転用された。
この頃までにコントロールタワーは撤去されていたが、ピットとして使われていた建物は残っていたようである。
現在はオートキャンプ場も閉鎖されている。

ネット上では2000年代に入り、サーキットを復活させようとした動きもあったようだが、詳細は不明。

今、航空写真を見ると緑に覆われた中にコースの形が見える。
しかし、現在はピットも撤去され、事務所だったという大きい建物、REXOL(オイル)の缶を模した看板の骨組み、そして当時出光のGSだった建物だけが廃墟となって残っている。



参考資料
JAFリザルト "全日本ストッカー呉200kmレース"
http://www.jaf.or.jp/CGI/msports/results/n-race/detail-result.cgi?race_id=1754&window_flg=1
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F1倶楽部 Vol24 特集グランプリサーキット
広島モーターサイクル全史

2019年8月9日金曜日

アメリカ統治下の沖縄で開催された「沖縄グランプリ」

沖縄グランプリ / Okinawa Grand Prix

戦後、1945年から1972年5月まで沖縄県はアメリカ合衆国によって統治されていた。
アメリカ統治下の中、沖縄に駐留していた自動車愛好家の米軍人が主だって沖縄スポーツカークラブ(Okinawa Sports Car Club / OSCC)という団体が1950年代に設立されている。
OSCCではモータースポーツの催事も度々開いており、ラリーやジムカーナ、オートクロスなども行なっていたという。
OSCCのメンバーの中にはフォーミュラジュニアのBrabham BT2を沖縄に持ち込み、マカオグランプリに出場したという記録もある。

そんな中「沖縄グランプリ」と名打たれたロードレースのイベントで何度か開かれた。
1963年に初めて鈴鹿サーキットで四輪の「日本グランプリ」が開催されたので、それよりも早い「グランプリ」と言える。
(ただし、FIAに公認されたレースではないことに注意)

1962年の沖縄グランプリ

1962年、沖縄グランプリと呼ばれるロードレースイベントは読谷飛行場(よみたんと読む)で初めて行なわれた。
5万人を超える観客がレース観戦に訪れたという。(2万5千人という記述もある)
コースは読谷飛行場に作られた2.65マイルのコース。
レース距離は26マイルのレースと、78マイルのレースが行なわれた他、オートバイのレース、ドラッグレースなども行なわれた。

1962年8月18日(土)、予選が行なわれた。
予選ではジャガーEタイプに乗るビル・バクスター選手が平均時速67.82マイルでポールポジションを獲得、オースチンヒーレーに乗るチャールズ・レーバー選手、同じくオースチンに乗るドイル・カトン選手が2位、3位を獲得した。
(おそらく78マイルの予選結果)

翌日19日(日)決勝の予定だったが、台風13号(米国名Sarah)が沖縄を直撃、決勝レースは延期となってしまった。

(読谷飛行場の航空写真 1970年 https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=10318)
延期された決勝の日時は記録が少なくはっきりしないのだが、おそらく8月26日(日)に開催された。
26マイルのレースではジョン・アダムス選手がトライアンフ TR4を駆り優勝した。
78マイルレースでは平均時速62マイルで1時間以上のレースを走りきり、ビル・バクスター選手が優勝した。

オートバイレースの方では、大排気量クラスはジェームズ・シェルトン選手が優勝、小排気量クラスはトシマ・カワグチ選手(表記不明)が勝った。

1971年の沖縄グランプリ

沖縄グランプリ開催要綱 
 日本グランプリも無事終了したところだが、海をへだてた沖縄でもグランプリが開かれる。主催をするのは沖縄スポーツカークラブ(OSCC)で、主に沖縄の基地に勤めるアメリカ人を主体としたクラブである。 
 レースは5月30~31日にカデナ基地の飛行場を特設サーキットとして行なわれ、コースの型状は飛行場という立地条件からほぼ菱形をしたものである。参加するドライバーはアメリカ人ドライバーが大多数をしめており、参加資格はOSCCの発行したライセンスを必要とする。 
 参加台数は60台程度で日本人ドライバーも現地でレンタカー会社を経営する野崎真広氏がスクーデリアニッサンでチューンされた240Zで出場することになっている。 
 車両規定はアメリカのSCCA規定に準じて行なわれ出場車種も米車が大多数を占めており、クラス分けはツーリングレースGTSを主とするグランプリレースである。 
(オートテクニック 1971年6月号)
オートテクニックの記事中では嘉手納基地と紹介されているが、実際には1962年と同じ読谷飛行場でレースが行なわれた。
9年ぶりに沖縄グランプリと銘打たれたレースがOSCCによって開催された。

計62台、車種は大小様々な排気量の車がエントリー。
こちらのレースも1962年と同じく2.65マイルのコースで行なわれた。
15周する決勝レースが予定されていた。
レース当日は2万5千人を超える観客が飛行場に訪れたという。

(1971年の沖縄グランプリ、予選レースの様子 / Pacific Stars And Stripes 1971年6月5日)

予選レースでは沖縄のBellet Racing Teamに属する野崎真広氏がいすゞ自動車のサポートを受け、(おそらく)いすゞベレットで予選レースを優勝した。
また、非公式ではあるがファステストラップも記録したと当時の新聞記事には紹介されている。
予選レースではシボレー・ノヴァに乗る選手が横転クラッシュしたという。

前述の通りかなりの観客がコースに集まった結果、観客が溢れてしまいコース上などを歩行しており、警察も人手不足でコントロールできなくなってしまったため、15周の決勝2レースはキャンセルとなってしまったようだ。
そのため予選レースを優勝した野崎氏が優勝となった。
ただ、レースの合間にも2輪のクラブ団体がドラッグレースなどを行ない観客を盛り上げた。

読谷飛行場は2006年、沖縄に全面返還された。
現在は跡地が開発され飛行場は存在しない。



参考
沖縄グランプリを企画したTed Carter氏のブログ、グランプリに関する事やブラバムBT2についての事が読める
https://www.theamazinglifeandtimesofedwardcarter-uniqueentrepreneur.com/chapter_two_-_1958_-_1962.html
1962年の台風13号 "Sarah"
https://en.wikipedia.org/wiki/1962_Pacific_typhoon_season#Typhoon_Sarah
読谷補助飛行場
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%AD%E8%B0%B7%E8%A3%9C%E5%8A%A9%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E5%A0%B4
Pacific Stars And Stripes - 1962年8月20日 / 1962年8月28日 / 1971年6月5日

2019年7月24日水曜日

マキシムスピードウェイ (沖縄県)

2019/07/24 記事公開
2021/02/18 記事追記

マキシムスピードウェイ
所在地:沖縄県中頭郡読谷村(よみたんそん)楚辺
全長:1.2km

(コース図 オートテクニック 1975年2月号)
沖縄にサーキット誕生、75年3月にオープニングレース
 日本の最南端の沖縄県にレーシングコースが誕生する。名称はマキシムスピードウェイ、場所は沖縄本島の中央部にある読谷(ヨミタン)村辺で1周は1.2km、幅員はストレートが11m、コーナーが9mというもの。30RのヘアピンS字コーナーなど大小9つのコーナーのあるテクニカルコースで、最高スピードは150㎞/hの設計になっているとのこと。左右のグリーン地帯はそれぞれ4mづつあり、将来はコース幅員を広げる計画がある。
 沖縄県の場合、モータースポーツはまだ盛んとはいえないが、主要交通機関は自動車なので18才以上の自動車免許取得率は高いという。現在レーシングチームマキシム(RTMー森田耕司会長)がJAF加盟クラブとして160人の会員をようして活動している。75年3月に予定されているオープニングレースもRTM主催で行なわれることになっている。現在Aライセンスを取得している者は30名ほどとのことで、今後講習会を開催して、有資格者をふやしていくことになっている。同時にレーシング仕様のツーリングカーの中古車などが入ってきているとのこと。75年レースカレンダーには5月、12月にマキシムスピードウェイのレースが登録されているが、現在は臨時トラックで、できるだけ早い期間に公認をとりつける意向だ。 (オートテクニック 1975年1月号 p13)

アメリカ統治下の沖縄では50~60年代、在日米軍人を中心に嘉手納基地などで自動車レースが行なわれていたという。
アメリカ統治下の沖縄で開催された「沖縄グランプリ」

1972年に沖縄県が日本に復帰してから3年後、小規模ながらサーキットが作られた。
建設の主体となったレーシングチームマキシムは沖縄内でラリーなどを開催していたようだが、このサーキットでサーキットレースやジムカーナ競技などを行なったようだ。
1975年には6レースがJAFのカレンダーに登録されていた。

(1975年5/25のマキシムグレーテッドドライバーカーレースの様子 オートテクニック 1975年7月号)

ただし、サーキットはかなり短命だったようで1977年の国土地理院による航空写真を見ると、サーキットの姿が無く跡地ですでに宅地開発が始まっており、サーキットの形がしっかりと確認出来るものはおそらくない。

(推定地 https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=1085798)

なお、JAFのリザルト記録には1976年7月25日に"スポーツランドオキナワ"という開催地で「マキシムツーリングカーレース」というレースが行なわれている記録がある。
実際のところ、このスポーツランドオキナワがマキシムスピードウェイを指しているかは定かではないが、レース名にクラブ団体の名前も入っている事からサーキットが改名されて使用されていたのではないかと思われる。
http://www.jaf.or.jp/CGI/msports/results/race/result.cgi?race_id=1976000177

2018年8月11日土曜日

日本のサーキットにおけるシケインの歴史

シケインとは主に速度を落とすことを目的とした2つのコーナーが互い違いに連続するクランク・またはS字コーナーである。

シケインは大抵後付である。
現在、世界の超高速サーキットの部類に入るサーキットには、現在2つ・3つのシケインが存在していても不思議ではない。

○日本でのシケインの歴史-4輪の場合-

シケイン状のレイアウトが日本で初めて採用されたのは船橋サーキットだと思われる。
船橋ヘルスセンターというレジャー施設の中に作られたサーキットは、埋立地ゆえの限られた敷地のなかで極力ランオフを減らすために、バックストレートエンドに小さいS字カーブが設けられ、また方向変換を行なうレイアウトになっている。
(船橋サーキットコース図//左端のコーナーがS字)

日本のサーキットで初めて"後付の"シケインが登場したのは、60年代後半の富士スピードウェイである。
NAC(日本オートクラブ)が主催していたストックカ―レースでは、レースへのキャラクター付けの為にホームストレート上に土嚢で作った仮設のシケインを設置した。
オープン当初からしばらくレースでは富士スピードウェイを"左回り"で使用していた事がある。
このレイアウトの場合、"最終コーナー"に突入するスピードが高く危険な為、減速のため設けられたという。
その他、長いストレートにあるグランドスタンドの観客にアクションを見せるという、当時にしてはかなり工夫された意図もあった。

70年代、車両の性能が向上していきスピードが上がり危険なアクシデントに対する関心も高まってきた。
これは日本に限らず世界中のモータースポーツにおける流れだった。
例えば、イタリアのモンツァやドイツのホッケンハイムリンクなどの超高速コースにもシケインが作られ始めた時期である。

日本でも富士スピードウェイで行われていた人気カテゴリー、富士グランチャンピオンレースでも重大なアクシデントや死亡に至るアクシデントが発生し、従来のサーキットの安全性に疑問が投げかけられた。

オープン当初から富士スピードウェイのレイアウトには30度バンクという急角度のバンクカーブが設けられていた。
この30度バンクは約1.5kmの長いホームストレートの終わりに位置する最初のコーナーである。
30度バンクは高速かつ路面がバンピーなコーナーだったため、最速で駆け抜けるラインが一つしか存在しなかった。
その為、スタート直後などはラインを取るために集団でポジションの取り合いが発生してしまう。そのためマシン同士の交錯も起きやすかった。

1973-74年に起きた死亡事故の詳細は割愛するが、その死亡事故を鑑みて30度バンクを存続させるか、それとも使用を取りやめるかという議論になる。
そして、いくつか案に上がったのが、ホームストレート上新たに1~2つのシケインを設置するという案。
もう一つが30度バンク手前、現在の1コーナー付近にシケインを作り、減速した形で30度バンクを走行するという案であった。
結局30度バンクは速度を抑えて使用するのではなく、バンク自体を使用しないという形が選ばれその後復活することはなかった。

富士スピードウェイでは度々サーキット側とドライバー側とで安全に関する会合が行なわれていた。
シケインを設置するという議題は度々あげられ、最終コーナーの手前・最終コーナー後、1コーナー手前など様々な場所でシケイン設置が検討されたという。

その他、再びホームストレートに仮設シケインが設置されるレースもいくつか開催された。
1975年のフォーミュラカーレースの場合では、シケイン不通過の場合にはセイコータワー(マーシャルポスト)の前で停止、更に不通過1回につき20秒を加算するというかなり重いペナルティが課せられていたりする。
(1975/7のサマーフォーミュラインフジの仮設シケイン図 最終コーナー出口から約300m後に設置された)

同年、富士GCでも形状を変えて設置された。

(1975/9の富士インター200マイルレースの仮設シケイン図)
(富士インター200マイルレース)
むつ湾スピードウェイでGCが開催される際もシケイン設置が検討されたという記述を見かけたが、実際のレースで使用されたかは不明。

80年代初め。
レーシングカーはグランドエフェクトと呼ばれる新たな空力機構を70年代に獲得し、さらなるコーナリングスピードを獲得した。
F1から始まったグランドエフェクトカーの流れは当然日本にも持ち込まれ、レースもますます高速化が進んだ。
富士グランチャンピオンシリーズでもグランドエフェクトマシンが導入され、特に最終コーナーの速度が著しく上昇した。

特に高橋徹の死亡事故ではグランドエフェクトカーの性質上浮き上がってしまったマシンが観客席に飛び込んでしまい、観客も巻き込まれて死亡してしまうという重大事故になってしまった。

最終コーナーの速度を低下させる働きから、300Rを超えた後の最終コーナー手前にシケインが設置された。
後にここはダンロップのネーミングライツによりダンロップコーナーと呼ばれる事になった。

そして1987年には100Rへの進入スピードを抑えるため、1コーナーを抜けた後の250Rにシケインを設置。後に飲料メーカーのサントリーのネーミングライツにより「サントリーコーナー」と呼ばれる事になる。
2つの新しいシケインが揃った結果、「サントリーコーナー」をAコーナー、「ダンロップコーナー」をBコーナーと呼ぶ風習も出来た。

富士スピードウェイのレイアウトはトヨタが買収し、全面改修するまでは基本的にこのレイアウトのまま21世紀まで続くことになった。
(1987年の航空写真 Aコーナーが新しい)

そして、フォーミュラカーレースを中心に開催され、こちらも人気を博していた鈴鹿サーキット。
こちらにも80年代前半、マシンの高速化からの安全対策の波がやってきた。
当時の鈴鹿サーキットは前半はテクニカルなS字、そして後半は直線と中・高速コーナーというかなり極端なキャラクターを持つサーキットだった。
開業当時から1982年まではスプーンカーブを立ち上がって、バックストレートから130R、そして現在シケインが存在する最終コーナーは大きく右に回り込む1つのコーナーだった。その後、鈴鹿サーキット特有の下りのホームストレートを抜けて1コーナーに突入していくというレイアウト。

(鈴鹿サーキット航空写真// オープン~1982年までの最終コーナー)
カテゴリーによってはスプーン出口から1コーナーまでの長く熱いスリップ合戦が見られた。
1982年のF2 JAFグランプリは豪雨のレースとなった。
高速の最終コーナーで多重クラッシュが発生。ドライバー達の命に別状ないクラッシュだったものの、豪雨も相まってかなり危険なアクシデントとなった。



そこで、1983年設置を目標にシケインでの速度減速策を講じることになった。
当初から最終コーナー手前にシケインを設ける事はほぼ確定しており、細かい形を検討し、最終コーナーに追加する形でシケインが設置された。

余談ではあるがシケインが初めて設置された時には、新しいコーナーに慣れていないドライバーが誤って西コースショートカットを右に行ってしまい、ダンロップコーナーを左に曲がって逆走してマシンとすれ違う。という危ないシーンがあったそうだ。
(オートテクニック 1983/3 //シケイン案)

(鈴鹿サーキット航空写真// 実際の1983~1990年までの最終コーナー)

この後、鈴鹿サーキットはF1開催に向けて動き出す事になり、シケインの他にもランオフエリアを広げる策に応じてコースレイアウトを変更したり、ブラインドコーナーを減らすため土手を削るなどの改修工事に乗り出すことになった。
当時の鈴鹿サーキットのキャラクターは今の鈴鹿よりも更に高速だったが、より近代的な安全性への第一ステップがこの最終コーナー手前のシケインだった。
後にカシオ計算機のネーミングライツにより、「カシオトライアングル」という名称で長く親しまれる事になり、鈴鹿の数々の名ドラマを生み出していく事になる。
その後も細かく形を変え、現在は「日立オートモティブシステムズシケイン」として存在している。



○現在のシケイン
2005年、前述の通り富士スピードウェイはF1開催の前提となるFIA「グレード1」サーキット規格を取得するためサーキットを全面改修する。
元々のサーキットフォルムや特徴である長いホームストレートは残されたまま、より近代的なサーキットレイアウト、ランオフ、その他諸設備がリニューアルされた。
以前のBコーナー付近にも新たなシケイン状のコーナーが設置され、ここもまた「ダンロップコーナー」として親しまれている。

90年代後半ー2000年代に入ってから、F1の開催サーキットはヘルマン・ティルケが代表の「ティルケエンジニアリング」での設計がほぼ寡占状態のような形で請け負っていた。
ヘルマン・ティルケが設計したサーキットレイアウトの特徴の一つとして、オーバーテイクを誘発、演出するレイアウトがある。
新しいダンロップコーナーも、長いストレートからRのキツいシケイン状のコーナーというティルケ設計にありがちなレイアウトになっている。
この事により、スリップストリームからのブレーキング勝負、そしてマシン同士が並んだままサイドバイサイドでコーナーを左右に切り返すというバトルを演出した。
この手の設計にはドライバー・ファンからも賛否が分かれるものの、近年のレーシングカーのエアロダイナミクスの複雑さによるオーバーテイク数の低下を防止する策の一つでもある。



○2輪のシケイン
安全性というものには4輪よりもむしろ2輪の方がナーバスである。
日本のサーキットは元々の設計が古いサーキットが多いため、ランオフが狭かったり、地形上の問題から取れなかったりする場合もある。
2輪でのクラッシュは即ライダーの生命に関わる可能性も高い為、ランオフエリアが狭いという事はかなり危険な自体になってしまう。

富士スピードウェイではオートバイレース開催の際に300Rの前に臨時のシケインが設置されるなどの対処がされ、後に常設のバイク用シケインが設置されることになった。


(仮設シケイン)

ホンダのお膝元、鈴鹿サーキットでももちろんバイクのビッグレースも数多く行なわれている。
最終コーナーに設置されたバイクのシケインは様々な試行錯誤が行われ、2回シケインを通過するレイアウトや、シケインを通過した後逆向きのシケインを通過するレイアウトなどがあった。
最終的には4輪と2輪のシケインを分け、奥側にあるRのキツいシケインを通過する形に今は落ち着いている。
その他、2003年にはヘアピンを抜けた後の200R付近(俗にマッチャンコーナーとも呼ばれている)にも2輪用の常設シケインが出来た。
現在ではネーミングライツによりこちらは「MuSASHiシケイン」と呼ばれている。




スポーツランドSUGOは初めから2輪用のシケインが最終コーナーに設置されていたが、後に2輪での重大事故が起きた1コーナーにも2輪用のシケインが設置された。
このレイアウト全体が今は変更されているが、最終コーナーのシケインは今も健在である。
(航空写真// 1975-1987年までのSUGOロードコース)

2018年8月8日水曜日

国内モータースポーツ初のヒルクライムレース/伊豆長岡 (静岡県)

2017/06/25 記事公開
2018/08/08 一部追記
2019/06/26 関連リンクのURLを修正

ここ数年でぐぐっと開催が増え、イベントの露出も増えてきた自動車のヒルクライムレース。
モータースポーツの歴史の中でも、山や丘を登りタイムを競う競技形式はモータースポーツの中でも単純かつ歴史ある競技。
そんな自動車ヒルクライムレースが記録上日本で初めて行われたとされる場所を紹介したい。

第二次大戦後まもなく、駐留米軍将校が中心となって、1951年に「Sports Car Club of Japan(SCCJ)」という国内初のモータースポーツ愛好団体が創立され、戦後の日本モータースポーツ黎明期が始まった。
もちろん、現代的な常設サーキットは未だ日本にはなく、船橋のオートレース場(2016年まで存在した場所とは異なる)での競技や茂原飛行場での3時間耐久レース、更に東京・京都間の公道ロードレース(!)などが開催され、日本に様々な形のモータースポーツがもたらされた。
関連:50年代初頭の日本のモータースポーツと1952年の茂原国際ロードレース

その後、米軍人が続々帰国した後にSCCJは休会になったものの、日本人の有志が1955年に同団体を再発足させた。
 この当時の発起人には、現在、伊藤忠自動車相談役の野沢三喜三氏、アメリカ日産社長の片山豊氏、自動車評論家として、またモータースポーツ界に欠くべからず存在である大和通考氏、佐藤健司氏が顔を並べていました。
(JAFスポーツ 1967年8月号)
また、旧SCCJ所属の米軍人が創立した東京スポーツカークラブ(TSCC)なども誕生し、共同で米軍基地の飛行場でジムカーナやオートクロス競技が行われていたという。

そのSCCJが主催した日本初のヒルクライムレースが1956年7月15日に静岡県の伊豆長岡の私道で開催された。
この我国初のヒルクライムの記録を見ると、ベストレコードは、ホリス氏のオースチンヒーレーが38.5秒でベストタイム、中村正三郎氏がフォードで47秒といった成績でした。
(JAFスポーツ 1967年8月号)
伊豆長岡でのヒルクライム競技はこの後SCCJとTSCCが交互に主催し、競技には米軍人が持ってくる最新のスポーツカーが多数揃った。
ル・マンで使われた中古のアストンマーティンがヒルクライムに参加した事もあったという。
オースチンヒーレー、MG-TD、TF、MGA、トライアンフ、ジャガー、ベンツ190SL、ポルシェ、コルベット、それにアストンマーチンなど当時数少ないスポーツカーが41台も集まり壮観であったと記録されております。
(JAFスポーツ 1967年8月号)

戦後初の近代的な常設サーキットである鈴鹿サーキットが完成した後も、このヒルクライムコースでの競技は行われた。
1964年には日本グランプリの直後に公認競技としてのヒルクライムが開催され、グランプリに参戦したワークスマシンが多数持ち込まれたという。

開催地である道であるが、1967年のJAFスポーツに回顧録として書かれた記事を参考に伊豆長岡、距離約400m、全面舗装の坂、大小7箇所のコーナーという特徴から、ここがコースだったと思われる。
(1962年 国土地理院の航空写真より)


Google Mapのストリートビューでは現在コースだった場所の一部が確認出来るので、当時の写真と比較してもらいたい。
(写真はすべてCARマガジン 1965年2月号 "第1回マークエイトヒルクライム"の様子)











こちらに掲載されているコラムでは、このヒルクライムコースに関する記述を読むことが出来る。
【車屋四六】第486話JAFとオ医者とMGA
https://car-l.co.jp/2016/06/28/%e3%80%90%e8%bb%8a%e5%b1%8b%e5%9b%9b%e5%85%ad%e3%80%91jaf%e3%81%a8%e3%82%aa%e5%8c%bb%e8%80%85%e3%81%a8mga/
1967年の時点で既にこのヒルクライムコースは周囲が住宅になり使用できなくなったとの記述がある。

鈴鹿サーキットが出来る以前でも黎明期のモータースポーツフリークは様々な形でモータースポーツを楽しんでいた。
そこから日本のモータースポーツの基礎が築かれていった。
現在においても日本モータースポーツ史において重要な場所の一つであった事は間違いないだろう。

一般的には知られていなかったが、日本におけるヒルクライム競技の歴史は既に60年を越えていたのだった。

(Google Mapより)





-参考-
JAFスポーツ 1967年 8月号 「楽しきかなヒルクライム」
CARマガジン 1964年 12月号、1965年 2月号
http://www.iom1960.com/history-suzuka/hs-history-suzuka.html
http://www.sccj.gr.jp/history.htm

-関連リンク-
【車屋四六】第486話JAFとオ医者とMGA - Car&レジャーWeb
https://car-l.co.jp/2016/06/28/3369/
【車屋四六】第339話 ロータス・エラン - Car&レジャーWeb
https://car-l.co.jp/2016/01/23/4131/
【車屋四六】波嵯栄のブガッティT50 - Car&レジャーWeb
https://car-l.co.jp/2017/01/22/2326/

M-BASE 街角のクルマたちAtoZ  第12回 A項・11 アストンマーチン(2)
http://www.mikipress.com/m-base/2013/11/post-53.html
伊豆長岡のヒルクライムを実際に走ったアストンマーチンの車両の現在の写真が見られる。
((写真06-2) 1952 DB3 Open 2-Seater (2010-06 グッドウッド/イギリス) という車両)
「UPL-4」- Ultimatecarpage.com
https://www.ultimatecarpage.com/chassis/368/Aston-Martin-DB3-Spider-DB3-5.html

2018年8月6日月曜日

箱根国際自動車レース場 / NAC箱根スピードウェイ / 伊豆モータースピードウェイ / 伊豆ハイスピード・クライム・コース (静岡)

2016/04/01一部追記
2016/08/21一部改訂、追記
2018/08/06 大幅改訂、追記
2020/06/06 ネット上の関連リンク、追記


「伊豆韮山サーキット」でGoogle検索をすると上に出てくるYahoo知恵袋の記事では、現在の日本サイクルスポーツセンターの事だと紹介されているが、正確には伊豆韮山サーキットではなく別のサーキット建設の計画があった。
関連→伊豆韮山サーキット

これは「箱根国際自動車レース場」や「NAC箱根スピードウェイ」、「伊豆モータースピードウェイ」、「伊豆スピードウェイ」などと呼ばれていたサーキットである。

箱根国際自動車レース場(仮称)

1963年5月。戦後日本初のパーマネントサーキット、鈴鹿サーキットで第1回日本グランプリが開催される。
四輪モータースポーツが花開いた瞬間であった。
各所に日本グランプリの衝撃が広がり、未だ興奮覚めやらぬ1963年6月12日の日刊スポーツにこのような大記事が掲載された

""幻のレース場はこれだ そのベールをはぐ""
""工費20億、ひそかに着工 観衆30万を収容 熱海の近郊"世界一"めざす""

そこにはオーバルコースと周辺施設の書かれた図と共に、JASCARというストックカーレース協会の計画が書かれている。

「どこかにとてつもない自動車レース場が作られているそうだ」こんなうわさが二、三ヶ月前から関係者にひそかに流れていた。いつ、どこでだれが、どんなレース場を作るか。だれにもわからず"幻のレース場"と人は呼んだ。幻の自動車レース場は秘密裏に計画準備され現在基礎工事中。早ければ年内、遅くとも来春にはこつ然と出現する。百万坪(3305800平方㍍)の敷地に二十億近い巨費を注ぎ込む世界一デラックスなコース「箱根国際自動車レース場」(仮称)の全容はこれだ。

箱根国際自動車レース場(仮称)
場所 静岡県修善寺町、大仁町。海抜500㍍
敷地 約3305800平方㍍(100万坪)
工事面積 約1650000平方㍍(50万坪)
レース路 アスファルト4・3㌔ 内走路15㍍幅、アスファルト3・2㌔
道路 レース場内及び公道からレース場に至る間15㍍幅2・3㌔
駐車場 自動車5万台 オートバイ3万台
収容人数 30万人 うちグランド・スタンド約10万人

(日刊スポーツ 1963年6月12日)
 60年代~70年代初頭ははこの「日本オートクラブ(NAC)」という団体がストックカーレースを各地で開催していた。
まだ日本に鈴鹿サーキットしか存在していない65年4月時点では主に大井や川口のオートレース場を使用してストックカーレースが行われていた。
なお、当時のオートレース場はダートトラックである他、現在も続いているオートバイでのレースの他、オート四輪と呼ばれる小型自動車でのレースも行われていた。
1964年のストックカーレースではプリンス・グロリアに乗る当時22歳の生沢徹が2度優勝している。

ちなみに、このJASCARという組織が立ち上がろうとしていた直後、別団体として「日本ナスカー」も同じような趣旨で日本でのストックカーレース開催に向けてオーバルコース作りを計画していた。「日本ナスカー」は後の富士スピードウェイとなる。

モーターマガジンの1963年8月号には更に詳しい内容とコース図が掲載されている。
記事によると3年前、1960年から計画はスタートしていたと山西氏はインタビューで語っている。

(モーターマガジン 1963年8月号)

この土地は伊豆修善寺が企業誘致用土地として募集をしていた場所だったという。
その後、紆余曲折あり予定地はサーキットではなく日本サイクルスポーツセンターとして、自転車競技の中心となる巨大施設が出来上がる事になった。



(Google Earthの衛星画像と重ねた図。オーバル上にある丸い建造物は現在の日本サイクルスポーツセンターの”伊豆ベロドローム”)
塩沢氏はこの後、残りの用地を取得。
ここから次の計画に移る事になる。


NAC箱根スピードウェイ
第1期工事分ロードコース:1800m
第2期工事分オーバルトラック:2400m


オートスポーツ1965年4月号には"花ざかりのレース場建設計画"として、鈴鹿サーキットでの日本グランプリ成功を受け、様々な場所で湧いたサーキットの建設計画が紹介されている記事がある。
この中にとして紹介されている部分から抜粋しよう。
これは日本オートクラブのめんめんが資金を出し合って建設を進めているレース・コース。第1期工事として1800mのサーキット、第2期工事として2400mの楕円コースが計画されているが、現在では第1期分のうち約600mの直線コースが完成している。
とあり、簡単なコース図が掲載されている。
これは先の計画よりも南側の土地になる。

(オートスポーツ 1965年4月号より)
1965年4月の記事には"ダートコースながら、「NAC箱根スピードウェイ」を建設中"とある。
現在の衛星画像と見比べてみると、完成した約600mの直線コース部分の跡らしきものが残っているのが見受けられる他、ロードコース部分も地形と合致する。



(Google Earthの衛星画像と重ねた図。 右上の青い部分が以前のオーバルコースの計画。)

その後の顛末はNAC代表塩沢進午氏の自伝、「日本モーターレース創造の軌跡」で語られている。
修善寺の残りの開発誘致の約13万坪、夏苅野と嵯峨平を自動車レース用用地として1964年10月27日、所有権、地上権、借地権と入り組んだ使用契約に踏み切って、資金を投入してしまいました。この土地で、私はノースカロライナ州ロッキンガムにある、周長1マイルのオーバルトラックに似せて、コースを仕上げていく予定でした。然し、1965年春、富士スピードウェイの開場を確認して工事を停止したのです。
しかし、その後もこの用地はNACによって事ある毎に利用されていたようだ。
1966年のJAFスポーツ年鑑には、"1965年レーシング講習会一覧表"の中に
"3/21 主催NAC  場所 NAC伊豆仮設走路"
という記述を見つけることが出来る。
この事から、一部着工した部分を使って何かしらの催しが行なわれたようだ。

他にも1966年頃のオートスポーツに建設予定地でのオフロードレース開催がされたという記録がある他、1967年のJAFスポーツには"キングオブザマウンテン"というヒルクライム競技が行われている記録がある。

(オートテクニック 1970年10月号)
"第一期工事"の場所の東側にあるコースで、現在もコースの跡のようなものが確認出来る。
ここは「伊豆ハイスピード・クライム・コース」として紹介されている。
元々はモトクロス用に道が作られたようではあるが、厳密にいつ頃から使われているかは定かではない。

伊豆ハイスピード・クライム・コース
所在地 伊豆修善寺町夏刈
ダート・コース 約1.2~1.4km
幅 10m, 高低差40m
コース使用 1日30,000円
(JAFスポーツ 1967年8月号)

コース図 JAFスポーツ 1967年8月号


ヒルクライムコース 写真

7月30日 NAC・SSSA第3回キングオブザ・マウンテン 制限付き NAC、SSSA 伊豆モータースピードウェイ
11月23日 第4回キングオブザマウンテン 制限付き NAC 伊豆修善寺
(JAFスポーツ 1967年5月号)


伊豆モータースピードウェイ
オーバルトラック:1600m

そして、1971年頃にも三度オーバルコース建設の話が浮上する。
71年のカレンダーには11月3日に"ストッカー伊豆300キロレース"というレースの開催予定が記載されている。

なお、11月3日は伊豆の従来からオーバルコースを建設予定だった土地に全長1600mのコースを作り、シリーズの第5戦を行なう予定。これは完成すれば平均200km/hを越すスピードで、最高速240km/hという見るものにとってはこれまでと違ったおもしろいレースとなるだろう。ただ、この種コースでのレースとなれば、安全対策も、これまで以上に行なわれなければならないであろう。
(オートテクニック 1971年1月号 p143)

このサーキット計画が頓挫した後も、塩沢進午氏は「日本平スピードウェイ」や「東京湾岸スピードウェイ」などオーバルトラックの計画を複数立ち上げており、前者に関しては完成間近で頓挫している。
更に青森県の「むつ湾スピードウェイ」にてJAF脱退後、NAC自らが団体を起こしサーキットのオープニングレースとして、ストックカーレースを行っている。

これら伊豆のサーキットについてや、NACの活動や他モータースポーツ黎明期の出来事を塩沢氏が自伝的に語っている本「日本モーターレース創造の軌跡」が出版されている
ぜひご覧になっていただきたい。

-関連リンク-
鈴鹿に続けと建設…でも幻に終わったサーキット「伊豆スピードウェイ」をご存知か【東京オリンピック1964年特集Vol.9】- DRIVER@WEB
https://driver-box.yaesu-net.co.jp/new-article/34252/