//---FB----

2018年1月9日火曜日

伊豆韮山サーキット (静岡)

2013/01/18 記事公開
2018/01/09 記事改訂

伊豆韮山サーキット

1962年、日本で初の本格的な常設サーキットである鈴鹿サーキットがオープン。
翌年には第1回日本グランプリが開催され、日本でも現代的な自動車モータースポーツが脚光を浴びた。それにより、日本各地でサーキット建設の計画が立ち上がった。
その中の一つ、伊豆韮山サーキットについて紹介したい。

まず、インターネットで伊豆韮山サーキットについて検索すると、上位に出てくるYahoo知恵袋の記事では伊豆韮山サーキットの場所は静岡県伊豆市修善寺にある日本サイクルスポーツセンターだと紹介されているが、実際は伊豆の国市韮山に予定されていた。


物流事業の日本通運は1964年に「日通伊豆観光開発」という伊豆での観光事業に関する会社を立ち上げる。韮山に観光施設の建設を目論み、百万坪の土地にゴルフ場、ホテル、遊園地、そしてサーキット場が計画された。
このサーキットが伊豆韮山サーキットである。
日産自動車、日本鋼管、大成建設、間組などが計画には参加していた他、株主として全自動車メーカーが名を連ねていたという。


サーキットの設計には元F1ドライバーで、優勝経験もあるイタリア人のピエロ・タルッフィが招かれた。
タルッフィは第2回日本グランプリの名誉総監としてアドバイスを行なった他、ドライビングテクニックの講師として来日したり、ドライビングテクニック本が日本で翻訳されたりと日本に馴染みが深い。
後述するが、船橋サーキットの設計にも関わっている。

サーキット規模としては、鈴鹿サーキットの2倍半という広大なものであったという。
(※コースの距離か、サーキット場自体の敷地面積なのかは不明)
1964年当時、翌年開催予定だった第3回となる日本グランプリの開催地に関して、JAFと鈴鹿サーキットの間でいざこざがあり、1965年の第3回日本グランプリは結局開催取りやめとなってしまった。
この際、伊豆韮山サーキットが完成した場合は日本グランプリの開催地間違い無しとも言われていたようだ。
しかし、
"伊豆韮山に目論まれていた日本通運のコース場建設計画は、用地問題で地元の反対にあい、一時ストップのようだが
と1965年のオートスポーツに記述があり、この頃には既に計画がペンディングになっていたようだ。

日通伊豆観光開発の斉藤辰馬専務はこう説明する。
「タルフィーに現地を見てもらったところが、理想的なレース場を作るには、どうしてもあと二十万坪はいるという。ところが土地を買い増ししても、地上権や、森林法で伐採ができないし、農地転換の問題がからんで来るので思うようにいかない。だから当時は、涙を飲んで計画を棚上げし、将来の捲土重来を期しているのだ」(財界 1965 4月 春季特大13)

森林・自然保護の点で批難が湧き、これらの理由を元に静岡県から農地転用の許可が出なかった。
更に1966年、同じく静岡県で富士スピードウェイが開場したが、レース開催の度に付近での著しい交通渋滞が発生。近隣の住民から苦情が出ていた事も静岡県の印象を悪くした。
当時の富士周辺の渋滞はインフラ整備がままならなかった事もあるが、現在から比べるととてつもない観客が来場していたのだ。
これらの原因から日通伊豆観光開発はサーキット建設が出来なくなってしまった。

さて、このサーキットは1965年に開場した船橋サーキットと繋がりが深い。
このサーキットがどう船橋サーキットに繋がっていくのか。
元々日通の観光事業設立の際、株主にサーキット建設を公約していたためサーキット建設は避けられない形だった。
そこで日通は船橋ヘルスセンターを開発運営していた朝日土地興業と合弁の形で船橋サーキット建設の運びになったという流れだった。
その流れで、ピエロ・タルッフィが船橋サーキットのコース設計に関わった。
間髪入れずにピエロ・タルッフィがココ(船橋)にやってきて、この狭さでも充分にサーキットができると言うわけです。
それにしても、なんでタルッフィがすぐに来たんですかね。後になって、どこか別のサーキットの打ち合せで来たのがポシャって、で、コッチに来たんだという噂も聞きましたけどね。
(日本のレース100選 vol003 '65 船橋CCC)
とインタビューの中で語っている。その"どこか別のサーキット"が伊豆韮山サーキットだった。
この辺り、時系列が前後している事については今後も追加で調べていきたい。

サーキット建設が頓挫した後も伊豆韮山での遊園地の計画は続き、1966年に「日通伊豆富士見ランド」として遊園地が開業。
その後、運営会社が変わるという出来事もあったが、1999年に遊園地が閉鎖されている。
伊豆富士見ランド - wikipedia
その後、日通の「日通伊豆研修センター」という施設が跡地に完成している。


※東側の土地が伊豆富士見ランドだった敷地。アトラクションの一部が廃墟になっている。

余談ではあるが、伊豆富士見ランドにはモトクロス場が存在していたという。

2018年1月8日月曜日

阿蘇インターナショナル・スピードウェイ(熊本県)

2013/04/24 記事公開
2018/01/08 一部追記・修正、サーキット建設地を追加

阿蘇インターナショナル・スピードウェイ(仮称)
フルコース:6.01km
東コース:3.91km
西コース:2.18km

(モータースポーツ・レーシングサーキット事業開発・運営実態資料集より)

 九州にサーキットふたつ!?
このところ日本各地でサーキット建設計画の噂が絶えないが、最近になって、熊本と鹿児島でも同様の計画が進められている事が明らかになった。
前者は九州産交(本社・熊本市、岡陽一社長)が手掛ける「阿蘇インターナショナル・スピードウェイ」(仮称)。
阿蘇外輪山付近に1周6kmのコースで、レジャー施設を含めた総工費は70~80億円。64年度中に着工し、65年度中にまず東コースを完成させるという。
(カーグラフィック 1988年 9月号より)
(※昭和64年→平成元年・昭和65年→平成2年) 

熊本県阿蘇郡阿蘇町(現熊本県阿蘇市)に建設が計画されていたサーキット。
地元の九州産業交通が主体となっていた。

コース内容としては1989年中に東コースを建設し、第2期工事として続いて西コースを建設する予定だったようだ。

熊本のドライブコースとして有名な「ミルクロード」沿いに建設が予定されていたが、ミルクロード沿いは国定公園の特定地域となっていたため、国定公園絡みの調整でも手間取っていた他、霧も多い地域だったという。

(現在の航空写真とコースを重ねた図)




当時、この周辺では建材(=レイトンハウス)が阿蘇市の西側に隣接する産山村にF1開催規模のサーキット建設計画を発表。
更に北側の県境を超えた大分県上津江村では既にサーキットの着工に入っていた。
これが今の「オートポリス」である。
なんと、オートポリスと阿蘇スピードウェイは直線距離で約6kmの近さであった。

阿蘇市から約15km圏内にF1開催が可能なサーキットが3つも計画されていたという、まさにバブル期のある種狂気じみた程のF1・モータースポーツバブルを象徴するような事柄だろう。