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2018年8月11日土曜日

日本のサーキットにおけるシケインの歴史

シケインとは主に速度を落とすことを目的とした2つのコーナーが互い違いに連続するクランク・またはS字コーナーである。

シケインは大抵後付である。
現在、世界の超高速サーキットの部類に入るサーキットには、現在2つ・3つのシケインが存在していても不思議ではない。

○日本でのシケインの歴史-4輪の場合-

シケイン状のレイアウトが日本で初めて採用されたのは船橋サーキットだと思われる。
船橋ヘルスセンターというレジャー施設の中に作られたサーキットは、埋立地ゆえの限られた敷地のなかで極力ランオフを減らすために、バックストレートエンドに小さいS字カーブが設けられ、また方向変換を行なうレイアウトになっている。
(船橋サーキットコース図//左端のコーナーがS字)

日本のサーキットで初めて"後付の"シケインが登場したのは、60年代後半の富士スピードウェイである。
NAC(日本オートクラブ)が主催していたストックカ―レースでは、レースへのキャラクター付けの為にホームストレート上に土嚢で作った仮設のシケインを設置した。
オープン当初からしばらくレースでは富士スピードウェイを"左回り"で使用していた事がある。
このレイアウトの場合、"最終コーナー"に突入するスピードが高く危険な為、減速のため設けられたという。
その他、長いストレートにあるグランドスタンドの観客にアクションを見せるという、当時にしてはかなり工夫された意図もあった。

70年代、車両の性能が向上していきスピードが上がり危険なアクシデントに対する関心も高まってきた。
これは日本に限らず世界中のモータースポーツにおける流れだった。
例えば、イタリアのモンツァやドイツのホッケンハイムリンクなどの超高速コースにもシケインが作られ始めた時期である。

日本でも富士スピードウェイで行われていた人気カテゴリー、富士グランチャンピオンレースでも重大なアクシデントや死亡に至るアクシデントが発生し、従来のサーキットの安全性に疑問が投げかけられた。

オープン当初から富士スピードウェイのレイアウトには30度バンクという急角度のバンクカーブが設けられていた。
この30度バンクは約1.5kmの長いホームストレートの終わりに位置する最初のコーナーである。
30度バンクは高速かつ路面がバンピーなコーナーだったため、最速で駆け抜けるラインが一つしか存在しなかった。
その為、スタート直後などはラインを取るために集団でポジションの取り合いが発生してしまう。そのためマシン同士の交錯も起きやすかった。

1973-74年に起きた死亡事故の詳細は割愛するが、その死亡事故を鑑みて30度バンクを存続させるか、それとも使用を取りやめるかという議論になる。
そして、いくつか案に上がったのが、ホームストレート上新たに1~2つのシケインを設置するという案。
もう一つが30度バンク手前、現在の1コーナー付近にシケインを作り、減速した形で30度バンクを走行するという案であった。
結局30度バンクは速度を抑えて使用するのではなく、バンク自体を使用しないという形が選ばれその後復活することはなかった。

富士スピードウェイでは度々サーキット側とドライバー側とで安全に関する会合が行なわれていた。
シケインを設置するという議題は度々あげられ、最終コーナーの手前・最終コーナー後、1コーナー手前など様々な場所でシケイン設置が検討されたという。

その他、再びホームストレートに仮設シケインが設置されるレースもいくつか開催された。
1975年のフォーミュラカーレースの場合では、シケイン不通過の場合にはセイコータワー(マーシャルポスト)の前で停止、更に不通過1回につき20秒を加算するというかなり重いペナルティが課せられていたりする。
(1975/7のサマーフォーミュラインフジの仮設シケイン図 最終コーナー出口から約300m後に設置された)

同年、富士GCでも形状を変えて設置された。

(1975/9の富士インター200マイルレースの仮設シケイン図)
(富士インター200マイルレース)
むつ湾スピードウェイでGCが開催される際もシケイン設置が検討されたという記述を見かけたが、実際のレースで使用されたかは不明。

80年代初め。
レーシングカーはグランドエフェクトと呼ばれる新たな空力機構を70年代に獲得し、さらなるコーナリングスピードを獲得した。
F1から始まったグランドエフェクトカーの流れは当然日本にも持ち込まれ、レースもますます高速化が進んだ。
富士グランチャンピオンシリーズでもグランドエフェクトマシンが導入され、特に最終コーナーの速度が著しく上昇した。

特に高橋徹の死亡事故ではグランドエフェクトカーの性質上浮き上がってしまったマシンが観客席に飛び込んでしまい、観客も巻き込まれて死亡してしまうという重大事故になってしまった。

最終コーナーの速度を低下させる働きから、300Rを超えた後の最終コーナー手前にシケインが設置された。
後にここはダンロップのネーミングライツによりダンロップコーナーと呼ばれる事になった。

そして1987年には100Rへの進入スピードを抑えるため、1コーナーを抜けた後の250Rにシケインを設置。後に飲料メーカーのサントリーのネーミングライツにより「サントリーコーナー」と呼ばれる事になる。
2つの新しいシケインが揃った結果、「サントリーコーナー」をAコーナー、「ダンロップコーナー」をBコーナーと呼ぶ風習も出来た。

富士スピードウェイのレイアウトはトヨタが買収し、全面改修するまでは基本的にこのレイアウトのまま21世紀まで続くことになった。
(1987年の航空写真 Aコーナーが新しい)

そして、フォーミュラカーレースを中心に開催され、こちらも人気を博していた鈴鹿サーキット。
こちらにも80年代前半、マシンの高速化からの安全対策の波がやってきた。
当時の鈴鹿サーキットは前半はテクニカルなS字、そして後半は直線と中・高速コーナーというかなり極端なキャラクターを持つサーキットだった。
開業当時から1982年まではスプーンカーブを立ち上がって、バックストレートから130R、そして現在シケインが存在する最終コーナーは大きく右に回り込む1つのコーナーだった。その後、鈴鹿サーキット特有の下りのホームストレートを抜けて1コーナーに突入していくというレイアウト。

(鈴鹿サーキット航空写真// オープン~1982年までの最終コーナー)
カテゴリーによってはスプーン出口から1コーナーまでの長く熱いスリップ合戦が見られた。
1982年のF2 JAFグランプリは豪雨のレースとなった。
高速の最終コーナーで多重クラッシュが発生。ドライバー達の命に別状ないクラッシュだったものの、豪雨も相まってかなり危険なアクシデントとなった。



そこで、1983年設置を目標にシケインでの速度減速策を講じることになった。
当初から最終コーナー手前にシケインを設ける事はほぼ確定しており、細かい形を検討し、最終コーナーに追加する形でシケインが設置された。

余談ではあるがシケインが初めて設置された時には、新しいコーナーに慣れていないドライバーが誤って西コースショートカットを右に行ってしまい、ダンロップコーナーを左に曲がって逆走してマシンとすれ違う。という危ないシーンがあったそうだ。
(オートテクニック 1983/3 //シケイン案)

(鈴鹿サーキット航空写真// 実際の1983~1990年までの最終コーナー)

この後、鈴鹿サーキットはF1開催に向けて動き出す事になり、シケインの他にもランオフエリアを広げる策に応じてコースレイアウトを変更したり、ブラインドコーナーを減らすため土手を削るなどの改修工事に乗り出すことになった。
当時の鈴鹿サーキットのキャラクターは今の鈴鹿よりも更に高速だったが、より近代的な安全性への第一ステップがこの最終コーナー手前のシケインだった。
後にカシオ計算機のネーミングライツにより、「カシオトライアングル」という名称で長く親しまれる事になり、鈴鹿の数々の名ドラマを生み出していく事になる。
その後も細かく形を変え、現在は「日立オートモティブシステムズシケイン」として存在している。



○現在のシケイン
2005年、前述の通り富士スピードウェイはF1開催の前提となるFIA「グレード1」サーキット規格を取得するためサーキットを全面改修する。
元々のサーキットフォルムや特徴である長いホームストレートは残されたまま、より近代的なサーキットレイアウト、ランオフ、その他諸設備がリニューアルされた。
以前のBコーナー付近にも新たなシケイン状のコーナーが設置され、ここもまた「ダンロップコーナー」として親しまれている。

90年代後半ー2000年代に入ってから、F1の開催サーキットはヘルマン・ティルケが代表の「ティルケエンジニアリング」での設計がほぼ寡占状態のような形で請け負っていた。
ヘルマン・ティルケが設計したサーキットレイアウトの特徴の一つとして、オーバーテイクを誘発、演出するレイアウトがある。
新しいダンロップコーナーも、長いストレートからRのキツいシケイン状のコーナーというティルケ設計にありがちなレイアウトになっている。
この事により、スリップストリームからのブレーキング勝負、そしてマシン同士が並んだままサイドバイサイドでコーナーを左右に切り返すというバトルを演出した。
この手の設計にはドライバー・ファンからも賛否が分かれるものの、近年のレーシングカーのエアロダイナミクスの複雑さによるオーバーテイク数の低下を防止する策の一つでもある。



○2輪のシケイン
安全性というものには4輪よりもむしろ2輪の方がナーバスである。
日本のサーキットは元々の設計が古いサーキットが多いため、ランオフが狭かったり、地形上の問題から取れなかったりする場合もある。
2輪でのクラッシュは即ライダーの生命に関わる可能性も高い為、ランオフエリアが狭いという事はかなり危険な自体になってしまう。

富士スピードウェイではオートバイレース開催の際に300Rの前に臨時のシケインが設置されるなどの対処がされ、後に常設のバイク用シケインが設置されることになった。


(仮設シケイン)

ホンダのお膝元、鈴鹿サーキットでももちろんバイクのビッグレースも数多く行なわれている。
最終コーナーに設置されたバイクのシケインは様々な試行錯誤が行われ、2回シケインを通過するレイアウトや、シケインを通過した後逆向きのシケインを通過するレイアウトなどがあった。
最終的には4輪と2輪のシケインを分け、奥側にあるRのキツいシケインを通過する形に今は落ち着いている。
その他、2003年にはヘアピンを抜けた後の200R付近(俗にマッチャンコーナーとも呼ばれている)にも2輪用の常設シケインが出来た。
現在ではネーミングライツによりこちらは「MuSASHiシケイン」と呼ばれている。




スポーツランドSUGOは初めから2輪用のシケインが最終コーナーに設置されていたが、後に2輪での重大事故が起きた1コーナーにも2輪用のシケインが設置された。
このレイアウト全体が今は変更されているが、最終コーナーのシケインは今も健在である。
(航空写真// 1975-1987年までのSUGOロードコース)

2018年8月8日水曜日

国内モータースポーツ初のヒルクライムレース/伊豆長岡 (静岡県)

2017/06/25 記事公開
2018/08/08 一部追記
2019/06/26 関連リンクのURLを修正

ここ数年でぐぐっと開催が増え、イベントの露出も増えてきた自動車のヒルクライムレース。
モータースポーツの歴史の中でも、山や丘を登りタイムを競う競技形式はモータースポーツの中でも単純かつ歴史ある競技。
そんな自動車ヒルクライムレースが記録上日本で初めて行われたとされる場所を紹介したい。

第二次大戦後まもなく、駐留米軍将校が中心となって、1951年に「Sports Car Club of Japan(SCCJ)」という国内初のモータースポーツ愛好団体が創立され、戦後の日本モータースポーツ黎明期が始まった。
もちろん、現代的な常設サーキットは未だ日本にはなく、船橋のオートレース場(2016年まで存在した場所とは異なる)での競技や茂原飛行場での3時間耐久レース、更に東京・京都間の公道ロードレース(!)などが開催され、日本に様々な形のモータースポーツがもたらされた。
関連:50年代初頭の日本のモータースポーツと1952年の茂原国際ロードレース

その後、米軍人が続々帰国した後にSCCJは休会になったものの、日本人の有志が1955年に同団体を再発足させた。
 この当時の発起人には、現在、伊藤忠自動車相談役の野沢三喜三氏、アメリカ日産社長の片山豊氏、自動車評論家として、またモータースポーツ界に欠くべからず存在である大和通考氏、佐藤健司氏が顔を並べていました。
(JAFスポーツ 1967年8月号)
また、旧SCCJ所属の米軍人が創立した東京スポーツカークラブ(TSCC)なども誕生し、共同で米軍基地の飛行場でジムカーナやオートクロス競技が行われていたという。

そのSCCJが主催した日本初のヒルクライムレースが1956年7月15日に静岡県の伊豆長岡の私道で開催された。
この我国初のヒルクライムの記録を見ると、ベストレコードは、ホリス氏のオースチンヒーレーが38.5秒でベストタイム、中村正三郎氏がフォードで47秒といった成績でした。
(JAFスポーツ 1967年8月号)
伊豆長岡でのヒルクライム競技はこの後SCCJとTSCCが交互に主催し、競技には米軍人が持ってくる最新のスポーツカーが多数揃った。
ル・マンで使われた中古のアストンマーティンがヒルクライムに参加した事もあったという。
オースチンヒーレー、MG-TD、TF、MGA、トライアンフ、ジャガー、ベンツ190SL、ポルシェ、コルベット、それにアストンマーチンなど当時数少ないスポーツカーが41台も集まり壮観であったと記録されております。
(JAFスポーツ 1967年8月号)

戦後初の近代的な常設サーキットである鈴鹿サーキットが完成した後も、このヒルクライムコースでの競技は行われた。
1964年には日本グランプリの直後に公認競技としてのヒルクライムが開催され、グランプリに参戦したワークスマシンが多数持ち込まれたという。

開催地である道であるが、1967年のJAFスポーツに回顧録として書かれた記事を参考に伊豆長岡、距離約400m、全面舗装の坂、大小7箇所のコーナーという特徴から、ここがコースだったと思われる。
(1962年 国土地理院の航空写真より)


Google Mapのストリートビューでは現在コースだった場所の一部が確認出来るので、当時の写真と比較してもらいたい。
(写真はすべてCARマガジン 1965年2月号 "第1回マークエイトヒルクライム"の様子)











こちらに掲載されているコラムでは、このヒルクライムコースに関する記述を読むことが出来る。
【車屋四六】第486話JAFとオ医者とMGA
https://car-l.co.jp/2016/06/28/%e3%80%90%e8%bb%8a%e5%b1%8b%e5%9b%9b%e5%85%ad%e3%80%91jaf%e3%81%a8%e3%82%aa%e5%8c%bb%e8%80%85%e3%81%a8mga/
1967年の時点で既にこのヒルクライムコースは周囲が住宅になり使用できなくなったとの記述がある。

鈴鹿サーキットが出来る以前でも黎明期のモータースポーツフリークは様々な形でモータースポーツを楽しんでいた。
そこから日本のモータースポーツの基礎が築かれていった。
現在においても日本モータースポーツ史において重要な場所の一つであった事は間違いないだろう。

一般的には知られていなかったが、日本におけるヒルクライム競技の歴史は既に60年を越えていたのだった。

(Google Mapより)





-参考-
JAFスポーツ 1967年 8月号 「楽しきかなヒルクライム」
CARマガジン 1964年 12月号、1965年 2月号
http://www.iom1960.com/history-suzuka/hs-history-suzuka.html
http://www.sccj.gr.jp/history.htm

-関連リンク-
【車屋四六】第486話JAFとオ医者とMGA - Car&レジャーWeb
https://car-l.co.jp/2016/06/28/3369/
【車屋四六】第339話 ロータス・エラン - Car&レジャーWeb
https://car-l.co.jp/2016/01/23/4131/
【車屋四六】波嵯栄のブガッティT50 - Car&レジャーWeb
https://car-l.co.jp/2017/01/22/2326/

M-BASE 街角のクルマたちAtoZ  第12回 A項・11 アストンマーチン(2)
http://www.mikipress.com/m-base/2013/11/post-53.html
伊豆長岡のヒルクライムを実際に走ったアストンマーチンの車両の現在の写真が見られる。
((写真06-2) 1952 DB3 Open 2-Seater (2010-06 グッドウッド/イギリス) という車両)
「UPL-4」- Ultimatecarpage.com
https://www.ultimatecarpage.com/chassis/368/Aston-Martin-DB3-Spider-DB3-5.html

2018年8月6日月曜日

箱根国際自動車レース場 / NAC箱根スピードウェイ / 伊豆モータースピードウェイ / 伊豆ハイスピード・クライム・コース (静岡)

2016/04/01一部追記
2016/08/21一部改訂、追記
2018/08/06 大幅改訂、追記
2020/06/06 ネット上の関連リンク、追記


「伊豆韮山サーキット」でGoogle検索をすると上に出てくるYahoo知恵袋の記事では、現在の日本サイクルスポーツセンターの事だと紹介されているが、正確には伊豆韮山サーキットではなく別のサーキット建設の計画があった。
関連→伊豆韮山サーキット

これは「箱根国際自動車レース場」や「NAC箱根スピードウェイ」、「伊豆モータースピードウェイ」、「伊豆スピードウェイ」などと呼ばれていたサーキットである。

箱根国際自動車レース場(仮称)

1963年5月。戦後日本初のパーマネントサーキット、鈴鹿サーキットで第1回日本グランプリが開催される。
四輪モータースポーツが花開いた瞬間であった。
各所に日本グランプリの衝撃が広がり、未だ興奮覚めやらぬ1963年6月12日の日刊スポーツにこのような大記事が掲載された

""幻のレース場はこれだ そのベールをはぐ""
""工費20億、ひそかに着工 観衆30万を収容 熱海の近郊"世界一"めざす""

そこにはオーバルコースと周辺施設の書かれた図と共に、JASCARというストックカーレース協会の計画が書かれている。

「どこかにとてつもない自動車レース場が作られているそうだ」こんなうわさが二、三ヶ月前から関係者にひそかに流れていた。いつ、どこでだれが、どんなレース場を作るか。だれにもわからず"幻のレース場"と人は呼んだ。幻の自動車レース場は秘密裏に計画準備され現在基礎工事中。早ければ年内、遅くとも来春にはこつ然と出現する。百万坪(3305800平方㍍)の敷地に二十億近い巨費を注ぎ込む世界一デラックスなコース「箱根国際自動車レース場」(仮称)の全容はこれだ。

箱根国際自動車レース場(仮称)
場所 静岡県修善寺町、大仁町。海抜500㍍
敷地 約3305800平方㍍(100万坪)
工事面積 約1650000平方㍍(50万坪)
レース路 アスファルト4・3㌔ 内走路15㍍幅、アスファルト3・2㌔
道路 レース場内及び公道からレース場に至る間15㍍幅2・3㌔
駐車場 自動車5万台 オートバイ3万台
収容人数 30万人 うちグランド・スタンド約10万人

(日刊スポーツ 1963年6月12日)
 60年代~70年代初頭ははこの「日本オートクラブ(NAC)」という団体がストックカーレースを各地で開催していた。
まだ日本に鈴鹿サーキットしか存在していない65年4月時点では主に大井や川口のオートレース場を使用してストックカーレースが行われていた。
なお、当時のオートレース場はダートトラックである他、現在も続いているオートバイでのレースの他、オート四輪と呼ばれる小型自動車でのレースも行われていた。
1964年のストックカーレースではプリンス・グロリアに乗る当時22歳の生沢徹が2度優勝している。

ちなみに、このJASCARという組織が立ち上がろうとしていた直後、別団体として「日本ナスカー」も同じような趣旨で日本でのストックカーレース開催に向けてオーバルコース作りを計画していた。「日本ナスカー」は後の富士スピードウェイとなる。

モーターマガジンの1963年8月号には更に詳しい内容とコース図が掲載されている。
記事によると3年前、1960年から計画はスタートしていたと山西氏はインタビューで語っている。

(モーターマガジン 1963年8月号)

この土地は伊豆修善寺が企業誘致用土地として募集をしていた場所だったという。
その後、紆余曲折あり予定地はサーキットではなく日本サイクルスポーツセンターとして、自転車競技の中心となる巨大施設が出来上がる事になった。



(Google Earthの衛星画像と重ねた図。オーバル上にある丸い建造物は現在の日本サイクルスポーツセンターの”伊豆ベロドローム”)
塩沢氏はこの後、残りの用地を取得。
ここから次の計画に移る事になる。


NAC箱根スピードウェイ
第1期工事分ロードコース:1800m
第2期工事分オーバルトラック:2400m


オートスポーツ1965年4月号には"花ざかりのレース場建設計画"として、鈴鹿サーキットでの日本グランプリ成功を受け、様々な場所で湧いたサーキットの建設計画が紹介されている記事がある。
この中にとして紹介されている部分から抜粋しよう。
これは日本オートクラブのめんめんが資金を出し合って建設を進めているレース・コース。第1期工事として1800mのサーキット、第2期工事として2400mの楕円コースが計画されているが、現在では第1期分のうち約600mの直線コースが完成している。
とあり、簡単なコース図が掲載されている。
これは先の計画よりも南側の土地になる。

(オートスポーツ 1965年4月号より)
1965年4月の記事には"ダートコースながら、「NAC箱根スピードウェイ」を建設中"とある。
現在の衛星画像と見比べてみると、完成した約600mの直線コース部分の跡らしきものが残っているのが見受けられる他、ロードコース部分も地形と合致する。



(Google Earthの衛星画像と重ねた図。 右上の青い部分が以前のオーバルコースの計画。)

その後の顛末はNAC代表塩沢進午氏の自伝、「日本モーターレース創造の軌跡」で語られている。
修善寺の残りの開発誘致の約13万坪、夏苅野と嵯峨平を自動車レース用用地として1964年10月27日、所有権、地上権、借地権と入り組んだ使用契約に踏み切って、資金を投入してしまいました。この土地で、私はノースカロライナ州ロッキンガムにある、周長1マイルのオーバルトラックに似せて、コースを仕上げていく予定でした。然し、1965年春、富士スピードウェイの開場を確認して工事を停止したのです。
しかし、その後もこの用地はNACによって事ある毎に利用されていたようだ。
1966年のJAFスポーツ年鑑には、"1965年レーシング講習会一覧表"の中に
"3/21 主催NAC  場所 NAC伊豆仮設走路"
という記述を見つけることが出来る。
この事から、一部着工した部分を使って何かしらの催しが行なわれたようだ。

他にも1966年頃のオートスポーツに建設予定地でのオフロードレース開催がされたという記録がある他、1967年のJAFスポーツには"キングオブザマウンテン"というヒルクライム競技が行われている記録がある。

(オートテクニック 1970年10月号)
"第一期工事"の場所の東側にあるコースで、現在もコースの跡のようなものが確認出来る。
ここは「伊豆ハイスピード・クライム・コース」として紹介されている。
元々はモトクロス用に道が作られたようではあるが、厳密にいつ頃から使われているかは定かではない。

伊豆ハイスピード・クライム・コース
所在地 伊豆修善寺町夏刈
ダート・コース 約1.2~1.4km
幅 10m, 高低差40m
コース使用 1日30,000円
(JAFスポーツ 1967年8月号)

コース図 JAFスポーツ 1967年8月号


ヒルクライムコース 写真

7月30日 NAC・SSSA第3回キングオブザ・マウンテン 制限付き NAC、SSSA 伊豆モータースピードウェイ
11月23日 第4回キングオブザマウンテン 制限付き NAC 伊豆修善寺
(JAFスポーツ 1967年5月号)


伊豆モータースピードウェイ
オーバルトラック:1600m

そして、1971年頃にも三度オーバルコース建設の話が浮上する。
71年のカレンダーには11月3日に"ストッカー伊豆300キロレース"というレースの開催予定が記載されている。

なお、11月3日は伊豆の従来からオーバルコースを建設予定だった土地に全長1600mのコースを作り、シリーズの第5戦を行なう予定。これは完成すれば平均200km/hを越すスピードで、最高速240km/hという見るものにとってはこれまでと違ったおもしろいレースとなるだろう。ただ、この種コースでのレースとなれば、安全対策も、これまで以上に行なわれなければならないであろう。
(オートテクニック 1971年1月号 p143)

このサーキット計画が頓挫した後も、塩沢進午氏は「日本平スピードウェイ」や「東京湾岸スピードウェイ」などオーバルトラックの計画を複数立ち上げており、前者に関しては完成間近で頓挫している。
更に青森県の「むつ湾スピードウェイ」にてJAF脱退後、NAC自らが団体を起こしサーキットのオープニングレースとして、ストックカーレースを行っている。

これら伊豆のサーキットについてや、NACの活動や他モータースポーツ黎明期の出来事を塩沢氏が自伝的に語っている本「日本モーターレース創造の軌跡」が出版されている
ぜひご覧になっていただきたい。

-関連リンク-
鈴鹿に続けと建設…でも幻に終わったサーキット「伊豆スピードウェイ」をご存知か【東京オリンピック1964年特集Vol.9】- DRIVER@WEB
https://driver-box.yaesu-net.co.jp/new-article/34252/