2017/8/26記事公開
2021/10/23 追記
またひとつサーキットの建設が計画されている。昨年5月に発足したニッポン・サーキット㈱が千葉県・市原市に建設をもくろんでいるニッポン・サーキットがそれだ。
このほど明らかにされた"計画書"によると、コースの形状はイタリアのモンツア・サーキットに類似したオーバル・コースとロード・コースの複合型で、オーバル6km、ロードコース4km、オーバルの1部とロード・コースの1部をあわせた外周10km―ーが考えられている。幅は12~18m。エレベーションは上り最大10%、下り最大12%。カントは最大18度。半径25mから80mのカーブが10ヶ所。観客収容能力は少なくともグランド・スタンドが2万人、自由席が20万人ていどのものにしたいといっている。
ただし、これはあくまでも基本的なもので、具体的な設計は、モンツアや日本の鈴鹿サーキットを手がけたフーゲンホルツに依頼することにしている。フーゲンホルツは近く来日の予定という。
用地面積はおよそ33万平方メートル(約100万坪)。建設予定地として白羽の矢が立った千葉県・市原市の南部はほとんどが山林で、約67世帯が所有している私有地だ。しかし、買収にかんする話し合いは、地元の農業協同組合のあっせんで順調に進み、近く第1回めの支払いがおこなわれるということだ。
ニッポン・サーキット㈱の資金計画によると、建設事業日は約35億円、内訳は用地代金が12億9700万円、建設工事費が21億3570万円、設計費3000万円、その他が運転資金となっている。現在の授権資本は1億6000万円。いまのところ払い込み資本金は4000万円だが、近く特別融資金として15億円を調達し増資に踏みきるという。
同社では、フーゲンホルツの来日後、基本設計におよそ2ヶ月をついやし、68年初めに工事にとりかかって同年中にオープンするハラづもりでいる。
ニッポン・サーキットの建設が計画どおりにすすめば、①東京に近い、②気象条件が安定している、③スケールが大きく国際級のレースが開催できるーーなど好条件がそろったサーキットが誕生するわけで、日本のモーター・スポーツ界にとってはたのしみなことである。
なお、同社のおもな役員はつぎのとおり(敬称略)。
▽取締役会長・東久邇盛厚
▽代表取締役社長・岸本勘太郎
▽代表取締役副社長・三好忠一
▽役員・常沢重雄、近藤正治、小林伊之助、赤松真二郎、辺見利八、高松一雄
▽監査役・小北忠夫
(オートスポーツ 1967年11月号 p111 一部住所等を省略)
黎明期の日本のモータースポーツ界は、地域でアメリカ型/ヨーロッパ型とはっきりとした区分けがある訳ではなく、どちらの方式のレースも行なわれていた時代である。
富士スピードウェイは元々オーバルで企画されていた事からも分かる。
前年には富士スピードウェイで"日本インディ200マイルレース"というインディカ―レースを日本に招聘して開催するなどもあり、今となっては信じられないが、オーバルコースを計画するという事は不思議ではないのだ。
なお、取締役会長として名を連ねている東久邇盛厚(ひがしくに・もりひろ)氏は元皇族の盛厚王。
この計画の2年後の1969年に肺がんの為死去している。
代表取締役社長の岸本勘太郎は帝国石油株式会社の元社長。
※正確にはジョン・フーゲンホルツはモンツァサーキットを手がけてはいない。
翌年1968年8月号のオートスポーツにも続報が掲載されている。
当初の計画では1968年初めに工事に着手する予定であったが少し遅れている。
計画の千葉県市原市付近の396万平方メートルの6割の買収を完了しており、ジョン・フーゲンホルツ氏が5月に来日し、現地をヘリコプターで視察しFIA公認の国際コースが出来る見通しが立った、という記述がある。
フーゲンホルツ氏による設計で秋頃には設計が完成するという流れのようだった。
この時点の計画では、ヨーロッパ式のロードコースを先に完成させ、オープン後に時期を見てアメリカン・タイプのオーバルコースを作る、という事になっている。
コースの全長は6km~6.5km、3万人収容のスタンドと7万人の自由席を併設。
(オートスポーツ 1968年8月号) |
ただし、この後ニッポン・サーキットについての続報は無くなり、そのうち計画は頓挫したと思われる。
※掲載されている略図から推測した大体の位置 このあたり近辺。
後にバブル期に市原市内で「東京湾岸スピードウェイ」というオーバルコースも計画されるが、こちらも計画途中で頓挫している。
後にバブル期に市原市内で「東京湾岸スピードウェイ」というオーバルコースも計画されるが、こちらも計画途中で頓挫している。