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2017年8月26日土曜日

ニッポンサーキット(千葉県)

2017/8/26記事公開
2021/10/23 追記 


千葉県下にサーキット誕生か
 またひとつサーキットの建設が計画されている。昨年5月に発足したニッポン・サーキット㈱が千葉県・市原市に建設をもくろんでいるニッポン・サーキットがそれだ。
このほど明らかにされた"計画書"によると、コースの形状はイタリアのモンツア・サーキットに類似したオーバル・コースとロード・コースの複合型で、オーバル6km、ロードコース4km、オーバルの1部とロード・コースの1部をあわせた外周10km―ーが考えられている。幅は12~18m。エレベーションは上り最大10%、下り最大12%。カントは最大18度。半径25mから80mのカーブが10ヶ所。観客収容能力は少なくともグランド・スタンドが2万人、自由席が20万人ていどのものにしたいといっている。
 ただし、これはあくまでも基本的なもので、具体的な設計は、モンツアや日本の鈴鹿サーキットを手がけたフーゲンホルツに依頼することにしている。フーゲンホルツは近く来日の予定という。
 用地面積はおよそ33万平方メートル(約100万坪)。建設予定地として白羽の矢が立った千葉県・市原市の南部はほとんどが山林で、約67世帯が所有している私有地だ。しかし、買収にかんする話し合いは、地元の農業協同組合のあっせんで順調に進み、近く第1回めの支払いがおこなわれるということだ。
 ニッポン・サーキット㈱の資金計画によると、建設事業日は約35億円、内訳は用地代金が12億9700万円、建設工事費が21億3570万円、設計費3000万円、その他が運転資金となっている。現在の授権資本は1億6000万円。いまのところ払い込み資本金は4000万円だが、近く特別融資金として15億円を調達し増資に踏みきるという。
 同社では、フーゲンホルツの来日後、基本設計におよそ2ヶ月をついやし、68年初めに工事にとりかかって同年中にオープンするハラづもりでいる。
 ニッポン・サーキットの建設が計画どおりにすすめば、①東京に近い、②気象条件が安定している、③スケールが大きく国際級のレースが開催できるーーなど好条件がそろったサーキットが誕生するわけで、日本のモーター・スポーツ界にとってはたのしみなことである。
 なお、同社のおもな役員はつぎのとおり(敬称略)。
▽取締役会長・東久邇盛厚 
▽代表取締役社長・岸本勘太郎 
▽代表取締役副社長・三好忠一 
▽役員・常沢重雄、近藤正治、小林伊之助、赤松真二郎、辺見利八、高松一雄 
▽監査役・小北忠夫
(オートスポーツ 1967年11月号 p111 一部住所等を省略)

黎明期の日本のモータースポーツ界は、地域でアメリカ型/ヨーロッパ型とはっきりとした区分けがある訳ではなく、どちらの方式のレースも行なわれていた時代である。
富士スピードウェイは元々オーバルで企画されていた事からも分かる。
前年には富士スピードウェイで"日本インディ200マイルレース"というインディカ―レースを日本に招聘して開催するなどもあり、今となっては信じられないが、オーバルコースを計画するという事は不思議ではないのだ。

なお、取締役会長として名を連ねている東久邇盛厚(ひがしくに・もりひろ)氏は元皇族の盛厚王。
この計画の2年後の1969年に肺がんの為死去している。
代表取締役社長の岸本勘太郎は帝国石油株式会社の元社長。
※正確にはジョン・フーゲンホルツはモンツァサーキットを手がけてはいない。

翌年1968年8月号のオートスポーツにも続報が掲載されている。
当初の計画では1968年初めに工事に着手する予定であったが少し遅れている。
計画の千葉県市原市付近の396万平方メートルの6割の買収を完了しており、ジョン・フーゲンホルツ氏が5月に来日し、現地をヘリコプターで視察しFIA公認の国際コースが出来る見通しが立った、という記述がある。
フーゲンホルツ氏による設計で秋頃には設計が完成するという流れのようだった。
この時点の計画では、ヨーロッパ式のロードコースを先に完成させ、オープン後に時期を見てアメリカン・タイプのオーバルコースを作る、という事になっている。
コースの全長は6km~6.5km、3万人収容のスタンドと7万人の自由席を併設。


(オートスポーツ 1968年8月号)

ただし、この後ニッポン・サーキットについての続報は無くなり、そのうち計画は頓挫したと思われる。


 
※掲載されている略図から推測した大体の位置 このあたり近辺。

後にバブル期に市原市内で「東京湾岸スピードウェイ」というオーバルコースも計画されるが、こちらも計画途中で頓挫している。

2016年8月22日月曜日

びわ湖スピードランド / レークビワハイランド (滋賀県)

びわ湖スピードランド / レークビワハイランド
外周コース約700m (750mという表記もある)

元々は始まりは琵琶湖大橋たもとにあったドライブイン、「ビック」の広場を借用してジムカーナ競技を始めたのがきっかけだったようだ。
8月4日OCCKが、琵琶湖大橋のたもとにあるドライブインの広場――ビワ湖スピードランド――を借りて開催したのがきっかけとなって、今後、ここでのハイスピード・ジムカーナが盛んになりそうだ。 (JAFスポーツ 1967年)
当時ドライブイン広場はダートになっており、当時のジムカーナレイアウトが掲載されている。
当時開催されたジムカーナのレイアウト例

広場時代の写真 土煙をあげている事からダートだという事がわかる

そのドライブインを経営していた名神観光㈱がサーキット建設を決定、広場をサーキットとして改築することとなった。
9月末完成を目指し、現在舗装工事中。これが完成すれば、約26,400㎡の競技コース、付帯設備としてガードレール(コース周囲全部)、フェンス、パドックスペース、クラブハウスなどもある一大ジムカーナコースとなる。 (JAFスポーツ 1967年)

1972年の航空写真より

こうして、完成されたびわ湖スピードランドは外周700mのオーバル状コースからインフィールドに様々な浮島が設置されたようなジムカーナコースとなっている。
一番緩いコーナーが48R、キツいコーナーが1.5R、コース幅は9~21mである。
なお、中央の島には鳥居のマークがあるので、何かが祀られていたのではないかと思われる。

詳細なコース図(オートテクニックより)

コース写真(オートテクニックより)

貴重な当時のサーキット映像がYouTubeにアップロードされていたので紹介したい。


途中から南側に遊園地ができ、「レークビワハイランド」という遊園地としてオープンしていたようである。
パドックスペースも一部遊具に潰されたようだ。

1975年の航空写真より 南側に遊園地が出来た

主にジムカーナ競技が行われているが、その他、ゴーカート、そしてストックカーレースも外周コースで開催された。
特筆すべき点としては、日本で初めてスリックタイヤが導入されたのがこのレークビワハイランドで行われたストックカーレースであった。
ただし、レースはかなりの大雨に見舞われ、レースが途中で中断、終了されるという程だったので、実際レースにスリックタイヤは投入されていないと思われる。
http://www.jaf.or.jp/CGI/msports/results/n-race/detail-result.cgi?race_id=1711


サーキットとして、いつまで存在していたかは定かではないが、ゴーカート場としては使われていた様子である。
しかし、1982年の航空写真では既にサーキットの一部がテニスコートによって潰されている様子が見られる。
遊園地のゴーカート場としては最後まで使われていたようだ。

1982年の航空写真 何らかの用途では使われているように見える

その後、別のテーマパークに転用されるなどして、サーキットは駐車場となってしまったという。
現在は、不名誉にも開店休業状態でネット上で有名となってしまったショッピングモール「ピエリ守山」の駐車場となっている。



※カート場「琵琶湖スポーツランド」とは別である

2016年5月9日月曜日

ジャパン・インディ・モータースピードウェイ / オートテクノポリス(関東/茨城)

2016/05/09記事公開
2019/06/15一部追記
2019/08/07一部追記
関東圏にオーバルサーキット新設年に1回インディ・レース!
 11月6日、かねてから噂に上がっていた、インディ・タイプのオーバル・サーキット建設プロジェクトが発表された。
 これはインディアナポリス・モーター・スピードウェイ・コーポレーション(IMS)とライセンス契約を結んだ共同システム(株)が発表したオートテクノポリス構想の一環となるもので、具体的には関東圏に280ha(85万坪)の用地を確保、全長4kmのオーバル・コース(インフィールドに5.4kmのロード・コースを併設)を建設、CARTのシリーズ戦を年1回招へいするというもので、サーキット以外にも3つのゾーンで形成されることになっている。
 具体的な作業としては現在、3カ所の候補地のなかから建設場所を検討中だが、用地決定の後に、20社ほどの共同出資(約500億円を予定)で新会社:ジャパン・インディ・モーター・スピードウェイ(JIMS)を設立、建設の推進にあたることになって94年完成予定でプロジェクトが進行しているとのこと。
 IMSとの契約調印式にはIMSのアントン・H・ジョージ筆頭副社長が来日、またその後に行なわれた記者発表会にはモータースポーツ関係者以外にも政財界からの出席者も多く、改めてプロジェクトの大きさを認識させた。
 FIA/FISAとCARTの関係など、CARTインディ・カー・レース実現までには解決すべき難問も山積しているが、実現を期待したいものだ。 
(オートテクニック 1989年12月号 p77) 
(イメージ図? CARBOY 1990年) 

そういえば、オーバルコースをつくってインディを日本に呼んじゃおう、という「オートテクノポリス」も、コンサートホールからホテル、ショッピングエリア、レストランと、生活のあるスペースを目指している。ここの建設計画には、オーバルコース以外に5.6kmのテクニカルコースとホッドロッド場ってのがあるんだ。 (中略) 
インディ用のオーバルコースを建設予定の「オートテクノポリス」は、記者会見の席で場所を関東というだけで明確にしなかったが、CB氏によると、ある場所でレンコン畑をぶっつぶそうとしているらしい。で、そこの町長さんがサーキット視察をしているという。キーワードは、利根川、水郷で、このあたりでレンコン畑というと、千葉県には広大なレンコン畑はなさそう、もうひとつのレンコン名産地は茨城県の霞ヶ浦近辺だが。 (CARBOY 1990年  一部抜粋) 

1989年11月の報道によると、施設名は「ジャパン・インディ・モータースピードウェイ」となり、長期的なプランとして、インディ500参戦ドライバー、車による「Japan Indy」を毎年開催するという構想だったようだ。

1992年の後半、サーキット計画が宙に浮くという報道があった。
サーキットの予定地としては茨城県小川町(現・茨城県小美玉市)の百里基地の隣接地が計画されており、建設計画を自治体に提出したものの、当時の町側が百里基地の民間乗り入れの計画を推進したことにより計画自体が不受理になったという。
この頃、ちょうど大分県のオートポリスの運営会社が破綻したこともあり、サーキットビジネスそのものにも疑問視が向けられるタイミングであった事も考えられる。
サーキットを計画していた企業も候補地はここ一本で絞っていたようで、計画が頓挫してしまったという。

2010年3月には茨城空港が開港、官民共用が始まった。




80年代終盤、FISA(国際自動車スポーツ連盟、現FIA)がオーバルレースを基本とした世界選手権を行う構想があり、アメリカのオーバルトラックの他にヨーロッパ、日本の未建設のオーバルトラックが開催地の頭数に入っていた。
The loudest shot in the CART-FISA battle was fired Oct. 10, when FISA's World Council, meeting in Paris, announced plans for an international oval-track series, starting in 1992, with races at as-yet-unbuilt tracks in Japan and Europe and, presumably, the speedway. (ニューヨーク・タイムズ 1990年10月29日http://www.nytimes.com/1990/10/29/sports/auto-racing-indy-takes-a-worldwide-view.html )
ちなみに、この件ではCARTはFISAが揉めており、1989年には富士スピードウェイでの開催がFISAの圧力によって中止になる出来事も起きていた。


結果、日本でのアメリカンオーバルレースは約10年後、1998年ツインリンクもてぎにて行われたのであった。

なお、この計画を主導していた企業は十勝スピードウェイなどの建設にも出資をしている。

-参考-
http://www.upi.com/Archives/1989/11/07/Indy-name-to-be-used-in-Japan-racing/9714626418000/
http://www.nytimes.com/1990/10/29/sports/auto-racing-indy-takes-a-worldwide-view.html
百里飛行場 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E9%87%8C%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E5%A0%B4
オートテクニック 1989年12月号
オートテクニック 1990年8月号
オートテクニック 1990年9月号
CARBOY 1990年
日本経済新聞 1992年11月9日

2015年3月7日土曜日

F1 横浜市街地/横浜での市街地レース構想

2015/03/07 記事公開
2020/04/29 一部追記
F1夢のレース横浜で/スリル満点!300キロ市街戦/ 
あのモナコの興奮が…/62年8月に「青年会議所」が誘致/13日に正式提案国際モータースポーツの最高峰「F1グランプリ」を、横浜で開こうと準備が進められている。計画しているのは、あの長島さんを大洋ホエールズの監督にと、熱烈なラブコールを送った横浜青年会議所(浅利治理事長)。十三日の総会で正式に提案されるが、二年後の六十二年八月、横浜スタジアムから、山下公園にかけての市街地道路をコースに組み入れて、港YOKOHAMAにふさわしい世界的イベントにしようと意気込んでいる。(以下略)(東京中日スポーツ 1985年7月6日 1面)

70年代後半、富士スピードウェイで開催された日本でのF1が途絶えたが、その後も諦めずにF1を日本で開催し続けようと努力する動きがあった。
当時は横浜の他、後にF1日本グランプリが開催される鈴鹿サーキットや富士スピードウェイなど日本GPへの誘致は各所で行われていたという。
その中でも、この日本の大都市で行われる市街地レースは関心を引いた。
横浜市街地でのF1日本GP開催は1983年に横浜青年会議所から構想が浮上し、そこから本格的に計画は進行した。
1983年は丁度同時期、別府市街地での全日本F2の開催が検討されていた時期でもある。
同時期に日本の都市での市街地レース開催の機運が一部で高まっていたのである。

横浜青年会議所は当初山下公園前をホームストレートにするレイアウトを構想していた。
しかし、実際には神奈川県警や病院の正面を通っていたり、ピットロードや観客席などの設置が不可能だったようだ。
山下公園の周りで開催するプランはそもそも実現するにはあまりにも困難だった。
横浜市金沢区の工業団地、港北ニュータウン、大黒埠頭などが検討されたが、どれも騒音問題などがネックとなり選定は困難を極めた。

(横浜スタジアム・山下公園周りでの案 [カーグラフィック 2006年1月号])

そこで新たに提案されたのがみなとみらい地区である。
みなとみらい地区は三菱重工の造船所や国鉄の貨物駅、操車場などが存在した埋立地の再開発で建設された街である。
当時は着工されてから間もない頃であり、街どころか土地も全く完成していない状態である。
公道サーキットには様々な条件も求められるが、まっさらな土地では自由度も高いであろう。
事実、みなとみらいでのレイアウトも幾つか思案され、最終的には日本のトップドライバーの監修を受ける予定があったという。

新しい街の発展や、国際都市としての横浜というPRも含めたみなとみらいでの市街地レース開催である。
当時のF1市街地レースへの視察や、横浜でのF1開催での経済効果なども試算され、F1のドン、バーニー・エクレストンとの交渉も進んでいた。

(みなとみらい21での一案 [カーグラフィック 2006年1月号])

しかし、1989年に横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念する博覧会、横浜博覧会の開催が決定。
みなとみらい地区を使用することで、F1開催が不可能になり運営側が延期を決定。
その他、公道を使用する事について警察からの難色も強く、様々な問題が山積みの中、同時期にF1誘致に動いていた鈴鹿サーキットでの日本GP開催が決定し、ついに横浜市街地でのF1レースの計画は潰えた。
(最終案に近いと思われるコース図[Racing On 1987年2月Vol10])

横浜でのF1開催については日本評論社から出版された城島明彦著の"F1の経済学" に顛末が詳しく記載されている。
ここには当時のF1データや、同時に進行していた鈴鹿サーキットのF1誘致などの事も書かれていて興味深いので、絶版本ではあるが興味があればぜひ探してもらいたい。

横浜でのF1開催は消えてしまった。
だが、横浜での市街地レース開催は再び計画された。
2006年にアメリカのオープンホイールシリーズ、チャンプカー開催が計画されているという報道、更に2010年にはALMS(アメリカン・ル・マン・シリーズ)の開催が計画されていたという報道もあった。
チャンプカーに関しては北海道の小樽市での計画とほぼ同時期である。
だが、残念ながらチャンプカーはシリーズ自体がインディカーに吸収され消滅、ALMSについても組織が再編されたりと今となってはカテゴリー自体が消滅してしまっている。
これらに関しては横浜の市議会議員や有志団体によるロングビーチGP、マカオGPへの視察が行われたという。現在も市街地レース開催を目標に掲げ活動しているようだ。

2011年、日本で初めて公道を使ったフォーミュラ1のデモランを行ったのも横浜である。
このイベント開催には当時の横浜市長の後押しもあったという。

ALMSの計画では既にEVカーやHVカーを使ったエコ志向の自動車レースが提言されていた。
そこで時代が追いつくかのように2014年の秋からは電気自動車の世界選手権であるフォーミュラEが始まる。
フォーミュラEは電気自動車で行われるレース故に騒音や公害が少ないレースとして掲げられており、すべてのラウンドが市街地で行われるレースである。
日本に関係の深いチームの参戦や日本国内でのメディア展開から日本でのフォーミュラEレース開催も予想されているが、その中の候補として横浜の名が上がっているのもよく見受けられる。
事実、横浜市の公文書でもフォーミュラEの開催についての提言をしている文面も見受けられ、実際に誘致に向けて動き出しているとも言われている。

幻の横浜市街地グランプリが30年の時を経て現実のものになる…のだろうか。

-参考・関連リンク-
東京中日スポーツ - 1985年7月6日
F1の経済学 - 著:城島明彦 日本評論社)
カーグラフィック - 2006年1月号
Racing On Vol.10 (1987年2月1日)
トーチュウ - CCWSのS・ジョンソン社長に聞く
http://f1express.cnc.ne.jp/interview/index.php?cat_id=241&teiko_id=155838#
タウンニュース - 実現するか「横浜グランプリ」
http://www.townnews.co.jp/0104/2010/04/22/45114.html
(上記記事Internet Archiveのアーカイブ:https://web.archive.org/web/20101101102914/http://www.townnews.co.jp:80/0104/2010/04/22/45114.html)
Wikipedia - 横浜みなとみらい21
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E6%B5%9C%E3%81%BF%E3%81%AA%E3%81%A8%E3%81%BF%E3%82%89%E3%81%8421

はまれぽ.com - かつてみなとみらいで計画されていた幻の「F1」構想とは?
https://hamarepo.com/story.php?story_id=5268

2014年1月26日日曜日

老山(ローシャン/ラオシャン)・サーキット(中国・北京)

2014/01/26 記事公開 2013/02/02 一部追記
2014/01/26 一部追記/訂正 2020/05/11 記事を整理

今回は指向を変えて外国のサーキット。
中国には60年代に建設されたサーキットがあったという情報が2chの書き込みにあったので調べてみた。
68 :音速の名無しさん:2010/10/31(日) 23:06:09 ID:vUI9Q4x80
あとがいしゅつかも知れないが、中国。
F1中国GPやってるサーキットとは別に、
'60年代あたりに結構立派なサーキットが作ってあったらしいね。
「将来、こういう施設も必要になるかも知れない」って。
日本よりよっぽど先見性があるw 
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/f1/1285787950/ 

そして、関連があるのではないかという記事を1983年のカーグラフィックから抜粋してみた。

香港-北京ラリー詳細決まる 5月1日から5日間 武漢経由で3400km
 幻に終わった北京-パリ・ラリーに代わって、今度は、新中国を舞台とした初の国際モータースポーツイベントとして香港-北京ラリーが行われることになり、開催要項の決定と同時に、昨年12月末から、参加の受け付けが始められた。 香港自動車協会と中国モータースポーツ協会との共催で開かれるこれは、5月1日に香港・九竜のニューワールドホテル前をスタートし、5月5日、北京の天案門広場でフィニッシュを迎えるもので、ルートは、工業都市・武漢を経由する。
(中略)
もうひとつ、北京郊外にある1周4.8kmのローシャン・サーキットでの最終スペシャルステージも、話題のひとつだ。このコースは、文化大革命前に建設されたまま、使われずにいたもので、ピットやガードレールなどの付帯工事が未完成な状態だが、鈴鹿サーキットに先んじて、新中国にレーシングコースが建設されていたことは興味深い
(後略)
(CG 1983年 3月号 P326)

実際には第1回目の香港-北京ラリーは1985年に開かれたが、恐らく同じルートだと思われる。
文化大革命は1966年から1977年辺りまで続いた中国の改革運動である。
このサーキットに関する資料もその大規模な運動の中で闇に葬られたのかもしれない。

追記(13/2/2)

中国、F2レースに興味最近、日本を訪れた 香港自動車クラブの関係者が語ったところによると、国際社会への復帰を急ぐ中国では近い将来、国際規格によるF2レースに取り組む意向であるという。舞台となるのは、北京の西の郊外にある老山(ラオシャン)サーキットである。ここは、日本の鈴鹿サーキットよりも早く、1960年代のはじめには基本部分の走路のみは完成していたものだが、その後、文化大革命の際に、西欧的なものに対する排斥運動のあおりを食らって、打ち捨てられたままになっていたものである。現在はピットや観客席などの付帯設備の工事が急がれているほか、走路自体も国際水準に合致したものになるように、大幅な改修が加えられることになっている。これに先立ち、中国当局では、中国各地を走るラリーとレースをミックスしたような大イベントの開催を計画していたといわれているが、昨年の香港・北京ラリーももう少しのところで開催できなかっただけに、事の成り行きに対して、関係各方面は慎重な姿勢を崩していない。(CG 1984 4月号より)
マカオは1983年にフォーミュラパシフィックに替わりF3規定を導入しはじめたが、F2を導入する構想もあったという。
その流れでマカオと北京、そして日本を含めた"極東F2選手権シリーズ"というものも計画されていたようだ。

結局1983年に第1回を開催する予定だった香港-北京ラリーだが、実際には開催されず、2年後の1985年に初開催される事になった。
この地点でサーキットがSSとして使われたようではある。

結局、F2レースが開催されることもなかったようで、サーキットが完成される事もなく正式な自動車レースを開催したことも無いのではないかと思われる。
ただし、昔バイクレースを開催していたという記録があるという。

追記(14/1/26)

こちらの北京の西部にある"老山マウンテンバイク場"の周りにある道が恐らく正しいサーキット跡だろう。


大きな地図で見る

この周りにある道は現在公道として使われているようだが、ここがコース跡だと思われる。
Googlemapで距離測定をしてみると4.9kmという事で記事にある距離とも近く、北京の西側という位置的にも合致する。
現在は2008年の北京オリンピック時のマウンテンバイク競技の会場として使われ、コース西側にも自転車競技用のスタジアムが建設されている。

2013年4月19日金曜日

大分県別府市特設コース/別府国際モータースポーツカーニバル(大分県)

ここでは国内モータースポーツ初の市街地レース計画「別府国際モータースポーツカーニバル」について取り上げる。

1982年9月のオートテクニックでは別府市で公道レースが行われ、F2かGCレースが行われるだろうといった趣旨の記事が掲載された。

数カ月後には詳細な計画が掲載され、F2レースを国際格式かつ全日本選手権、もう一つグループC等の耐久レース車両でのスプリントレースの2つがメインイベントとして開催される他、スターレット・パルサー・シビック等のワンメイク車両でのレースなども行われるとされている。

当初の計画では、特設コース内での4輪レースを行った一週間後、別府市から北西にある陸上自衛隊十文字原演習場を使い、4輪によるラリー・ダートトライアル、2輪モトクロスなどを行う計画もあったが、こちらは早い段階で計画から外されている。

他にも別府市内でのパレードや自動車展示会、映画上映、グッズ販売などレース以外にも沢山のイベントが計画されており、正しく「モータースポーツカーニバル」と言った様相であった。

計画では、別府市中心部から北東にある別府国際観光港の埠頭とちょうど目の前を通る国道10号線の一部を使う1周2.5km程度のコースの予定だった。
当時港は造成中であった。

レースコース略図 

メインレースとの一つとなっているのは当時国内で人気を博していた全日本F2選手権である。
当時全日本F2が行われていたのは鈴鹿・富士・西日本(現MINE)の3サーキットで、主に鈴鹿サーキットを中心に開催されていた。
この全日本F2選手権の1戦としてこの別府が組み込まれる予定だった。
国際格式での開催との事で、海外から選手などを招聘する意図もあったのかもしれない。
もう一つ、グループC規定でのレースが始まり、熱も高まってきた耐久レース車でのスプリントレースもメインレースとなっている。
このスプリントレースでは全国のサーキットを耐久・スプリント共に行いながら転戦していく「インタースーパースポーツシリーズ(仮称)」というシリーズ戦の1戦として組み込まれる計画だった。

この別府市街地レースを企画したのは別府市観光課である。
温泉旅行が下火になってきており、別府市への観光客が減ってきているという現状から町興しとしてのレース開催の計画であった。
別府では当時からハングライダー大会やマラソン大会などのスポーツ大会も開催しており、そのような流れでモータースポーツも開催出来ないだろうかという流れになったようだ。
当時の別府市長、脇谷市長も1982年のカーグラフィック12月号では
うちは観光都市ですから、人を集めなければならないわけです。ところが温泉地の全国的な傾向なんですが、若い人がだんだん遠ざかってしまっている。(中略)
特に今度は車、車は誰でも関心を持っているでしょうから、これまで以上に多くのお客さんを呼べるでしょう。6~7万人は期待していますね。もちろん、これは1回限りではなくて、少なくとも5年は続けてやりたい。そのために恒久的なコンクリートフェンスなども、市の予算をちゃんと組んで作らなければならないでしょうね。
と市としてもかなり熱心にイベント開催に取り込んでいる事をインタビューで語っている。

市と共に計画を進めていたのがVICIC(ビクトリー・サークル・クラブ)である
VICICは日本各地でレースのオーガナイザー、プロモーターとして活動しており、当時はWEC(世界耐久選手権)を日本に初めて呼び込み、その勢いで日本初の市街地公道レースを実現させようという流れである。
そこにWECジャパンではラジオやテレビなどのメディアでのプロモーションで関係していた広告代理店の電通も企画に参加している。

しかし、1983年のカーグラフィック3月号では早くもレースを1年延期するという記事が掲載された。
ここでは国道を使うことはやめる事になり、観光港の湾内道路と駐車場を使いコースを構成するのは変わらないが、レースを開催するには十分な敷地が確保出来ないということが分かり、拡張が必要との事で一年延期ということになった。

ここからしばらく計画は表沙汰に上がる事はなく、結局1984年1月のオートテクニックでは公道使用の警察との合意が進んでいなく保留という形になり、そのまま計画は頓挫したと思われる。

しかし、この別府のレースが契機となり様々な都市で市街地レースが企画されたとのことだ。



2013年4月10日水曜日

船橋サーキット (千葉)

船橋サーキット

距離:1.8km/2.4km/3.1km 左回り

コース幅:15.75m~9m(スクールコース 60m)

船橋サーキットは当時千葉県船橋市に存在していたレジャーパーク、船橋ヘルスセンター内の施設として存在したサーキットである。

(国土地理院 1966年の航空写真より)

コースのレイアウトは元F1ドライバーで、優勝経験もあるイタリア人のピエロ・タルッフィ。
タルッフィは当時、日通が建設を計画していた伊豆韮山サーキットのアドバイザーとして来日していたが、諸般の理由で頓挫し、その後すぐに船橋に来たようだ。
ファルッフィは他にもドライビングテクニックの講師として来日したり、ドライビングテクニック本が日本で翻訳されたりと日本に馴染みが深い。

(鎖線が3.1km/点線が2.4km/実戦が1.8km)
タルッフィのアドバイス通りに設計されたサーキットは埋立地をフルに使われたコンパクトでテクニカルなレイアウトである。
サーキットは主に外周コースと、インフィールドに設けられた60mもの幅を持つ舗装路のスクール・コースで成り立っている。この2つのセクションを組み合わせて主に3種類のレイアウトを作ることが出来た。

外周コースはホームストレートから多少下りつつ1コーナーを抜け、飛行場沿いにある約550mのストレートを進む。
その後S字カーブを抜け、靴下の様な形をしている事から名付けられたソックスカーブを抜ける。
ヘルスセンター名物の一つでもある「ゴールデン・ビーチ」と呼ばれる人工海岸を横目にダンロップブリッジをくぐり、最終コーナーを抜けて一周となる。 これが1.8kmのレイアウトである。

2.4km/3.1kmのレイアウトを使用する場合は、ダンロップブリッジ前の分岐を左に曲がり、スクールコースをそれぞれ抜けてからホームストレートと互い違いになっているピット前のストレートに進む。
そこから右コーナー、左ヘアピンと進み、元の外周に戻ってくる。
このレイアウトの場合はグランドスタンド前を2度通って1周してくることになる。

スクール・コースではジムカーナ等が開催され、やろうと思えば外周コースとスクール・コースでそれぞれ2つのイベントを開催することも出来た。

(勾配表 殆んど平坦である)
当時は鈴鹿サーキットが1962年に開場し、近代的なサーキットとしては日本2番目に開場した。
ちなみに富士スピードウェイは1966年開場である。

(建設中の船橋サーキット)

1965年の7月1日に船橋サーキットが開場した。
船橋サーキット最初にして最大のレースイベントとなったのが、船橋サーキットのオープニングイベントにもなった全日本自動車クラブ選手権レース大会通称、船橋CCCレースである。
7月17-18日に開かれたこのレースは、当初5月に鈴鹿サーキットで開催予定だった第3回日本グランプリが急遽中止になったために開かれた代替レースだった。
自動車クラブ対抗戦として行われたこのイベントだが、このイベントが船橋サーキットを語る上で欠かせないイベントになっている。
その中でも、浮谷東次郎の駆るトヨタスポーツ800、ロータス・エランでの雨中の激走が今でも語り草になっている。
詳細は船橋CCCレースに関するWebページや「日本のレース100戦」などを参考にして貰いたい。

船橋CCCレースの様子
都内から近い地の利を生かし、レースイベントの他にも自動車クラブの練習場として使われたり、レンタカーでの走行なども人気を博していたという。 ちなみに当時の記録によると、スポーツ走行が1時間1500円、レンタカーは1周180円である。(1965年の参考:ビール120円、たばこ30円)
しかし、開場から3年ほどになる1967年の春頃からサーキットがオートレース場になるという噂が立った。
当初は否定していたものの結局はサーキットは閉鎖され、オートレース場として転用されることになった。
当時、船橋オートレース場は北東にある船橋競馬場の内側にダートコースとして存在していた。
ちなみに日本最初のオートレースが開催された由緒正しき場所でもある。 しかし、オートレースが舗装化されることにより、代替地の検討が始まっていた。 そこで船橋サーキット側の方からサーキット敷地を移転先として提案したそうだ。 その背景には、サーキット経営での採算が取れないという問題や、イベント開催に関してJAFとの確執などもあったという。 結果、1967年7月31日をもって船橋サーキットは閉鎖される事になった。 3年間の間に三十数レースが開催された。 その後、サーキット跡地に建設された船橋オートレース場はサーキットの丁度ホームストレート・ピット辺りにコースが出来ている。 開場当初からしばらくは船橋サーキットのグランドスタンドがそのまま利用されていたようだ。 現在は船橋ヘルスセンターも閉場し、跡地はららぽーとTOKYO-BAYとなった。 サーキットの跡形はなく、オートレース場のコース、駐車場、一般道になっている。 ソックスカーブ辺りは京葉線・東関東自動車道が通っている。 辛うじて当時のプールに沿った辺りの駐車場の形状でサーキットの形が多少分かる程度である。 噂では駐車場の舗装が剥がれている所から当時のサーキットの舗装が覗いているとの事もあるそうだ。 東京から1時間以内で行ける本格的サーキットとして2年のわずかな期間のみ使用された幻のサーキット。 その2年の間に当時のライセンス保持者の1/3がこの船橋サーキットで取得したと言われている。 現在に繋がる日本モータースポーツ史の中でも重要な場所の一つであることは間違いないだろう。 大きな地図で見る


YouTubeにアップロードされている船橋サーキット関連の映像まとめ