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2013年1月24日木曜日

東原セーフティ・サーキット・イン・カナザワ (石川)


金沢市に3.5kmのサーキット
現在、金沢市東原町で測量を開始しているこのサーキットは"東原セーフティ・サーキット・イン・カナザワ"という名称をもつ。
国鉄金沢駅から国道305号線で17km。いままでのサーキットのように人里離れた不便な場所ではなく、市街地が至近距離にある点で画期的なもの。
筑波サーキット以上に屈折の多いテクニカルコースで全長3.5km(ショートコース1.8km)。
名称が示すように9m~30mのコース幅に沿ったグリーンは5m~40mと広く安全性が高い。
パドックは1700平方メートルでスズカ並み。収容人数はグランドスタンド2000人で、その他は周囲のどこからでも観戦が出来るように原っぱが広がっている。
イギリスのブランズハッチと似たようなレース風景になる。
完成は来年5月の予定。レースはアマチュア中心に考えてオーガナイズしていく方針で、準国内以下のレースが多くなるようだ。また冬期のシーズンオフには、スノーモビル・レースを行う予定である。
(オートスポーツ 1972年 10月15日号より)

予定地であると思われる場所は現在「金沢モトランド」 というモトクロスコースになっている。

原っぱで丘になってる所から観戦出来るサーキットは素敵ですね。


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日本海間瀬サーキット (新潟) -未完

日本海間瀬サーキット


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日本海間瀬サーキットの歴史は、1967年8月から始まる。
新潟県オート・クラブ(ACNP)というクラブの代表が建設したこのサーキットは、当初はジープなどが走行するダートコースだったという。
国土地理院の航空写真では、1967年9月に撮影された完成したてのコースを見ることが出来る。
この頃は高低差が30m、コーナーの数は22あったという。

1967年9月の航空写真


日本海に面した間瀬サーキットは盆地であるゆえに、集中豪雨などでしばしばコースが水没してしまうという事があった。
その後、1968年6月には片側半分を簡単な舗装にし、株式会社日本海間瀬サーキットを立ち上げた。
そして、1970年5月からサーキット用の特殊アスファルトの舗装工事を始め、ロードコースに生まれ変わった。
ここで、注意したいのは当初は左回りのサーキットだったという。
70年代の航空写真

1971年のオートテクニックには当時の日本海間瀬サーキットの走り方を解説した詳細な記事が掲載されている。
当時のコースデータ



74年と75年には当時大人気だった富士グランチャンピオンレースの車両を持込み、レースをしている。
富士GCのそうそうたるメンバーがこの狭いサーキットを駆けまわったのは新潟の人々にはかなりの衝撃を残したのではないだろうか。
今で言うとSGTの車両が来た感じかもしれない。
75年のレースでは、マーチ73Sを駆る長谷見昌弘が予選で58.9秒のタイムをたたき出し、そのままポールトゥウィンを飾っている。
http://www.jaf.or.jp/CGI/msports/results/n-race/detail-result.cgi?race_id=3131



2013年1月22日火曜日

磐梯熱海スピードウェイ (福島)

2013/01/22 公開
2024/02/17 大幅改訂、追記

福島県郡山市熱海町にレース場出現か 
このはなしは昨年8月ごろ、国際ナスカー・スピード・ウィーク会社の駐日代表者の代理人であるI氏が、同地に旅行のため宿泊した際に、「ここは自動車レース場には最適な場所である」と見込み、磐梯熱海観光協会長のH氏に相談をもちかけたことから、急に進んだ。場所は磐梯熱海駅から南に約1kmほど入った涼山、蓮山の一部の330万平方メートルの敷地にほぼ決定したが、地元側はあまりにもはなしが大きすぎて…と半信半疑。今年に入ってから国際ナスカー・スピード・ウィーク会社の代表者であるK.Y氏(東北国際ナスカー・スピードウェイ社)が現地を訪れ、一部の土地の貸借仮契約を、さらに1月18日には正式契約を結び、具体的な計画に着手した。東北国際ナスカー・スピードウェイ社は、米国のインディアナ・ナスカー社と提携し、東北地方での興行権をすでに得ており、同社は4月までにアメリカ資本、財界の協力を得て資本金1億円のカブシキ会社として発足する予定。コース延長は4km、総工費30億円をかけて、昭和45年度中に完成にまでもってゆき、スピード・レースを開催する予定。1周4kmのレース場のほかに、スケート場などの設備も作り、あわせて大駐車場も作る計画という。
(CARグラフィック 1967年 3月号より / 一部人名伏せ字) 
「国際ナスカー・スピード・ウィーク会社」「米国のインディアナ・ナスカー社」と今の感覚で見てもツッコミどころのある社名が続くが、ハッキリと言えばこれは詐欺であった。

高度経済成長やモータリゼーションの時代を迎えた1960年代、各地でレジャー施設の計画が持ち上がっていた。
その中オープンした鈴鹿サーキットから始まったモータースポーツ、つまりサーキット場も最新のレジャーとして注目された時代である。
特に60年代中頃から雨後の筍のように各地でサーキット計画が持ち上がっていたのだが、その中でそれっぽい事柄を並べて乗っかったただの詐欺だったのである。
CG誌の記事では半信半疑と懐疑的な見方をしているが、当時の自動車誌では鈴鹿・富士に続くサーキット計画の一つとして取り上げられている節もあった。

しかし、週刊誌ではこれらとは全く違う奇妙な報道があった。
サーキット場開発ではなく、"ヌーディスト・クラブを計画している"という報道であった。
「株式会社磐梯グリンランド」という会社の社長K.T氏は福島県郡山市熱海町の磐梯熱海駅から数キロにある清凉山の用地を確保し、そこに「圧迫された近代生活から解放」「原始人の生活を再現し太陽を浴びて健康な生活を楽しむ裸の国」などと謳うヌーディストクラブを作る事になっていた。
端的に言えば会員制のヌーディストビーチのようなものを山中に作ろうとしていたらしい。

K.T氏はCG誌の記事に登場するK.Y氏の弟で、「東北国際スピードウェイ」の代表であり名前は変名だったので実際はK.H氏という。
最初はK.H氏が磐梯熱海の地を訪れ地元住民にレース場を建設したいと持ちかけた。住民たちも自動車レースやレース場のイメージが湧かないという事から地元住民を実際に富士スピードウェイに連れて行ったことで、こういう施設をやるならと土地を貸すことになったという。
当時は磐梯熱海にはレジャー施設が少なかったので集客できる施設が欲しかったという事だった。
地元住民の間でも「東北国際スピードウェイ」として計画が進められていたのは知られていたものの、その地域住民も知らない間に計画がヌーディストクラブに変化していた。
結局の所、K.T氏は始めからサーキットは金がかかるというから先にヌーディストクラブを作るという目論見だったらしく、それらも反発があることを見越して黙っていたという。

そしてレース場の計画に関しても
また"スピードウェイ"といえば、だれでも鈴鹿のサーキットや富士スピードウェイをかんがえる。舗装されたコースをつっ走るスポーツカー!
 だが、東北国際スピードウェイにかぎり、ちょっとちがうのである。
「道路はジャリを敷いただけのものにして、そこを中古車でぶっとばすのですよ。もちろん新車で走ってもらってもいいが、それじゃクルマがもたんでしょう。青春のウップンをバクハツさせる場所を安く提供するのがねらいですよ」(香島クン)
(週刊文春 1967/10/2)
となんとも"国際"とも"ナスカー"ともかけ離れた粗末な話に成り下がっている。
資金繰りが怪しいと見られている間にもK.T氏はヌーディストクラブやレース場、その他の施設を作る他にも職業訓練学校を作る計画をしていたようだが、職業訓練学校の計画に関わっている関係者がヌーディストクラブに難色を示しヌーディストクラブの計画も撤回されたという。

一方、「東北国際スピードウェイ」の代表だった兄のK.H氏はこの計画以前に岐阜市の某所でゴルフ場の建設・経営という計画を上げ、自治体から山林を買収したが手付金の一部のみを払ったのみで"見せかけ"の工事を開始、さらにこの時点でゴルフ場会員を募集し金が集ったが、工事がストップし、その後K.H氏が会社から金を持ち出そうとしたところを阻止しようとした役員や社員に暴力を振るい、更に現金と手形を脅し取って逃げてしまったという。
K.H氏は暴力行為で逮捕され、保釈された後も先の業務上横領で告訴されこの時点では逮捕令状が出ていた。

これら週刊誌の報道が出た直後に「磐梯グリンランド」の関係者達が逮捕されているが、週刊新潮のインタビューに答えている社長代理だという"I営業部長"が実は偽名であり、実際は逮捕令状が出ているK.H氏であったことが週刊誌に顔写真が掲載されたことから判明したというオチもついている。

なお、この頃の文献を調べていると「東京国際ナスカースピードウェイ㈱」という会社も発見されているが、詳しい事は不明。

-参考文献-
CARグラフィック 1967年3月号
週刊新潮
1967年8月26日/ 9月9日
週刊文春
1967年10月2日


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2013年1月21日月曜日

道川サーキット (秋田)

道川サーキット
距離:約700m
コース幅最大:12m
コース幅最小:6m

バーダルハイスピードジムカーナ東北シリーズ 秋田県岩城町道川サーキットで行われた4月25日のオープニングレースは大々的に催され、1000人以上の観客が集まりました。地元の全面的な協力で、レストハウス、宿泊設備もととのっています。今後一層盛んになる可能性大です。 
(オートテクニック 1971年 7月号)






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2013年1月20日日曜日

むつ湾・インターナショナル・スピードウェイ (青森県)

2013/1/20記事公開
2021/10/22 追記 

むつ湾・インターナショナル・スピードウェイ

所在地:青森県上北郡野辺地(のへじ)町
距離: 4.5km/4.8km(いくつか表記がある) 実測約3.8km  / ショートコース 約3km
ホームストレート:1600m
コース幅:20m
コーナー数:4(公称値)
4輪 左回り / 2輪 右回り 

(国土地理院 70年代の航空写真より)


青森県の上北郡野辺地町に存在したサーキット。
サーキットレイアウトは1.6kmのホームストレートを有しており、コーナーのRも比較的大きく超高速レイアウトである。
しかし、コース脇がすぐ海な為、砂や海水がコースに入り込み、水没することもあった。

オープニングレースとなった1972年ストックカーレースの際は、突貫工事の末に行われたためコース上もコンクリートウォールの代わりに土のうが積まれたり、路面のアスファルトが1層で下地の砂利が出てきたり、当時の写真を見ても建設途中のような様子が見受けられる。

オープニングレース
1972年 第1回むつ湾国際級ストックカー300kmレース大会


実際、開催当初の72年7月の時点では未完成だったようで、JAF公認はオープン後から少々遅れた模様。
その際にコースレイアウトについて"出来ればもっとテクニカルなものにするように"という指導がJAFから入ったということもあったようだ。
1973年のむつ湾グランド200マイルレースでは、もう1層アスファルトが追加されたようだがそれでも路面の凹凸はひどかったという。

(コース図、ただし実際のコースの形と異なる オートテクニック 1972年8月号)

(コース案の一つ? AS 1972/6/15)



現在の国土地理院の地図サイトで距離を測ると、メインのコースは約3.8km程度だったと推定される。
海沿いの1.6km(※)のホームストレートを抜けると、1コーナーは左125R、5度のバンクの上りのコーナー。
2コーナーは公称400Rとされているが、それ以下の2つのRのコーナーが組み合わされていると言われている。
3コーナーは右の400R、コース中間がくびれのような形になっている。
最終コーナーである4コーナーは入り口で右に少しターンしたあと、125R(公称)・バンク15度の左コーナー。外側はJR大湊線の線路と面している。
4コーナー出口付近は狭くなり20Rの下りコーナーである。
3コーナー辺り、最終コーナーから約500mの辺りにショートカットコースも作られる予定だったが、オープニングレースの時点では作られていなかった。 最終的に作られたかどうかも不明。
(※一部ホームストレート1.8kmという記述もあるが1.6kmが正しいと思われる)

(コース写真 オートテクニック 1972年8月号)
 

サーキットのオーナーは農事組合で元々「むつ湾観光牧場」という牧場を経営しており、その中には遊園地、動物園などがあったが隣接した土地にサーキットを建設するという流れになった。
コース設計は立原義次氏。
当時東北にサーキットが無く貴重な存在であった他、更に北海道スピードウェイが閉鎖された事もあり、北海道のドライバーが海を渡って本州のむつ湾に遠征しにくる事も多かったようだ。

(むつ湾グランド200マイルレースの様子  オートテクニック 1973年10月号)

超高速レイアウトであったが、二輪のオートバイレースも開催されている。
1972年の「第1回むつ湾オートバイグランプリ」はロードレース日本選手権の1戦として行われている。
オートバイレースでは右周りで使用された。 順走左回りの最終コーナー出口付近は下り坂になっているため、逆走にすると上り坂になって減速しやすいというのが理由だったようだ。
四輪のGCレースでも右回りやホームストレート上のシケインなどが検討されたようだが、本来の左回りのまま変更なしで行った模様。

1973年むつ湾グランド200マイルレースの様子

1973年のレースは8月で終わってしまったという。というのも9月は雨が多く、更に海岸沿いのためコースが使用不能になることが多かったようだ。
このような地理的な不利に加えオイルショックも相まって1973年で閉鎖されてしまったようだ。
現在コースの跡のようなものがうっすら残っている他、グランドスタンドの廃墟が残っている。

むつ湾・インターナショナル・カートウェイ

(国土地理院 70年代の航空写真より)
(以下オートテクニック 1972年11月号)


むつ湾スピードウェイに併設されたカートコース。
スピードウェイが閉鎖された後も使用されていたが、動物園閉鎖と共に閉鎖された模様。

オープニングレースは
「むつ湾スピードウェイ開場記念ねぶたまつり '72日本カートプリ大会」(1972/8/5-6)が青森県、青森ねぶたまつり協賛で開催されたという。
これがJAFが開催する日本初の"カートプリ"である。
1972年(昭和47)には国際交流の一環として'72日本カートプリが開催され、1973年(昭和48)には全日本カート競技選手権が開始されています。
http://www.jaf.or.jp/msports/intro/his_j.htm 







(カートプリ リザルト)



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-関連文献-
オートスポーツ 
1972 6月15日/10月15日
1973 9月1日/10月15日
オートテクニック 
1972 6月号/7月号/8月号/9月号/11月号 
1973 10月号
1974 3月号/4月号
日本の名レース100選 '72 むつ湾ストックカー
日本モーターレース創造の軌跡


-関連リンク-
二輪文化を伝える会  - むつ湾インターナショナルスピードウェイ
ヤマハニュース 1972年10月号 / 第1回むつ湾オートバイグランプリ

川口オートレース場 (埼玉)

2013/01/20記事公開
2021/06/09 追記 

(国土地理院 1966年の航空写真より)
(国土地理院 1966年の航空写真より)川口オートレース場(1952-1967)

コース距離:800m
コース幅:30m
コーナー数:2
路面:ダート

現在は500mのターマック舗装オーバルとして使われているが、開場した1952年から1967年までは800mのダートオーバルとして使われていた。

1950年代には日本スポーツカークラブ(SCCJ)によるレースが開催されていた他、60年代には"105マイル・クラブ"(後のNAC[日本オートクラブ])が主催していたストックカーレース「ナショナル・ストックカー・レース大会」を4度開催している。
第3回からJAF管轄に入った為、現在でもリザルトを確認することが出来る。
http://www.jaf.or.jp/msports/results/n-race/index.htm


1964年3月20-22日 第2回ナショナル・ストックカー・レース
(モーターファン 1964年5月号 / グランドナショナル・クラスの様子と思われる)

各クラス優勝者
スポーツマン・クラス(20周) - 山西 喜三夫 / コンテッサ
グランドナショナル・クラス(25周) - 生沢徹 / プリンス・グロリア
インターナショナル・クラス(25周) - ウイルヘルム / シボレー 55年 (*フルネーム不明)
第2回目のストックカーレースはJAF管轄でないためJAFのデータベースにはリザルトが掲載されていない。
インターナショナルクラスは横田基地から来た米軍人出場のエキシビジョンレースだとか。


1964年8月16日 第3回ナショナル・ストックカー・レース
(以下モーターファン 1964年10月号 / スポーツマンクラスの様子)

(コンチネンタルクラスの様子)
(グランドナショナルクラス優勝、生沢徹のプリンス・グロリア)

スポーツマンクラス
コンチネンタルクラス
グランナショナルクラス


1965年3月28日 第4回ナショナル・ストックカー・レース


(CARマガジン / ジュニアコンチネンタルクラスに出場したデル・コンテッサRSA)
(グラン・インターナショナルクラス優勝の田村勝男のサンダーバード)
(コンチネンタルクラスで横転するスカイラインGT)

グランインターナショナルクラス
ジュニアコンチネンタルクラス
スポーツマンクラス
コンチネンタルクラス
グランナショナルクラス
http://www.jaf.or.jp/CGI/msports/results/n-race/detail-result.cgi?race_id=1457


1965年10月9-10日 第6回ナショナル・ストックカー・レース
グランナショナルストックカークラス
セダン/スポーツマンクラス

各レースのリザルトを見ると、後々の日本モータースポーツを担うドライバーも多数参加、優勝している事が分かる。

-関連文献-
・モーターファン
・CARマガジン
・日本モーターレース創造の軌跡

2013年1月19日土曜日

木更津飛行場特設サーキット (千葉)

(※ 2013/02/19 追加)

(オートスポーツ 170年2月号より)
(1970年の航空写真)


木更津の米軍飛行場(現・陸上自衛隊木更津駐屯地)の滑走路を使った特設コース。

以前からもジムカーナなどでのモータースポーツイベントで使用されていたが、当時の米軍飛行場の司令官がモータースポーツファンだった為に、この計画も軌道に乗ったようである。
コースは右回りの全長3.5kmだが、西のヘアピン部分の直線を増やすことによって、もっと長い距離にすることもできた。

1970年5月10日には、レース開催を計画していたグループ・オブ・スピード・スポーツ(GSS)による練習会も開催され、ポルシェ・カレラ6で1分29秒というラップタイムを記録していたようだ。

70年の夏ごろに、GSSは"東京湾100マイル"という160km程度のレースを開催しようと計画していたが、開催されていたかは不明。

(オートスポーツ 1970年2月号より)




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